03/交錯

 澪は今日この時ほど、警察学校で再三にわたって仕込まれた応急処置の授業に感謝したことはなかった。もちろん自宅でできることには限界があった。それでも家のなかで見知らぬ女が死ぬ、という最悪の事態は避けられそうだった。

 救急車を手配しなかったのは、意識を取り戻した女が拒んだからだ。訳ありであることは想定済みだったので澪は女の頼みを受け容れた。事情が分からない現状では、まだどこにも通報するべきではないと思った。刑事の直感だった。通報と同様に相談や、周りの住民に気取られることも避けるべきだった。

 きっと窓ガラスが割れたときの物音を聞かれたのだろう。手当の最中に玄関の呼び鈴が鳴った。血塗れだった澪は二秒だけ応じるかどうか逡巡し、すぐに洗面台へと向かった。即座に手を洗い流して寝室へ。スーツジャケットとブラウスを脱ぎ捨て、手近なところにあったジーンズとニットに着替える。扉を開けようとして、まだ爪の間に血が残っていることに気づく。だがこれ以上遅くなるのは不自然だったし、留守に空き巣が入ったとでも勘違いされて警察でも呼ばれれば一巻の終わりだ。


「今開けます」


 澪は言って、ゆっくりと扉を開けた。


「あら、飛鳥さん。一五分くらい前になんかお宅からすごい物音したけど、大丈夫?」

「ええ、ちょっとベランダで鉢植え落としちゃって」


 澪は後ろで腕を組んでにこりと微笑む。二つ隣りの部屋に住む中年女性は部屋を覗きこもうと首を伸ばす。澪は彼女の視線に立ち塞がるように自らの位置を取り、もう一度にこりと微笑んだ。

 このお節介焼きの隣人にも、もちろん澪にも、これ以上会話をするメリットはない。


「そう? ならいいんだけど」

「はい。大したことないので大丈夫ですよ。わたし、ほら、片付けしないと」


 最後まで笑みを崩さず、澪は頑として立ち塞がった。納得したのか、あるいはせざるを得なかったのか、中年女性は引き下がっていった。

 澪は胸を撫で下ろし、玄関を厳重に施錠して寝室へと戻る。ベッドには応急処置を施された女が眠っている。どうやら一命は取り留めることができたらしい。まだ予断は許さない状況であることに変わりはなかったが、澪は寝室の扉を閉めてリビングに移動した。

 カフェインレスのコーヒーを淹れながら状況を整理する。

 まず女に見覚えはない。刑事という職業柄、色々な人間と接触する機会を多く持つが、記憶力には自信がある。もちろん絶対とは言い切れないが、少なくとも

 そう、女は解薬士だ。

 澪は手当ての最中、左鎖骨の下に医薬機孔メディホールを発見していた。特殊調合薬カクテルの副作用を抑制し、使用者に対して最適化するナノ技術の粋は、解薬士の肉体にのみ埋め込まれる。無論、違法手術の線は拭えないが、女を解薬士として仮定することは蓋然性の高い思考だと言える。

 澪は淹れたドリップコーヒーを片手にソファに腰かけ、ラップトップを開く。女の医薬機孔メディホールに刻印されたシリアルナンバーを元に《リンドウ・アークス》のデータベースに検索をかける。間もなく女の素性が明らかになる。

 絢・アナク・サレハ。解薬士事務所への所属がない在野の解薬士。絢というのは本名である〝アーヤ〟に対して宛がった漢字だ。震災以降、ナショナリズムがにわかに高まっている《東都》において出稼ぎの外国人労働者や移民が便宜的に漢字名を用いることはよくあることだった。

 パートナーは実兄であるイブン・アナク・サレハ。実兄のほうは祖国での傭兵経験があるようだが、二人に解薬士としての目立った実績はない。

 在野の解薬士というのも決して珍しくはない。特に何らかの理由で祖国を捨て、煌びやかな《東都》の明かりに吸い寄せられた移民が、伝手も資金もなく、根無し草になってしまうことは残念ながら少なくないのだ。

 少なくとも身元が判明したところで、澪は再び思考を巡らせる。

 絢・アナク・サレハは事件に巻き込まれた。それがどんな厄介事であれ、重傷を負い、パートナーをイブンとは逸れたことは間違いない。そして警視庁にてコードαを担当する刑事である澪のもとへ、助けを求めて逃げ延びてきた。

 同業である解薬士を頼らなかったのは、彼らがあくまで民間であり、つまりビジネスとして解薬士という危険な沼に足を踏み入れているからだろう。その点、警視庁は公的機関だ。何らかの事件が示唆されれば、少なからず絢の身の安全くらいは保証してくれる。

 そこまで考えて、澪の思考は行き詰った。

 なぜ絢は警視庁ではなく、澪の自宅に訪れたのだろう。助けを求めるならば澪個人よりも警視庁という組織を頼るのが必然のように思える。そもそも面識のない彼女が一体どうやって澪がコードα担当刑事であることを知り、さらには自宅を特定することができたのかも謎だった。

 やはり彼女が目を覚ますまで待つほかにないのだろう。

 現状で澪にできることは、彼女の容態を気に掛けることくらいだった。

 そう思ったら気が緩んだのだろうか。

 澪は不意の睡魔に襲われた。

 隣りの部屋では血塗れの重傷者が寝ているというのに、何とも間抜けな有様だ。あるいはこの異常事態であっても正常に眠くなる身体と心を褒めるべきだろうか。

 きっと違う。たぶん身体も心も、澪自身が思っているよりも遥かに擦り減っている。限界なのだろう。自分は正しくあろうとしているはずなのに、色々なことが上手くいかな過ぎた。

 言い渡された休暇はまだ長い。

 澪は深い溜息を吐き、寄り添ってくる睡魔に身を委ねる。


        †


 どすん、とくぐもった銃声のような音が、澪の意識を覚醒させる。膝の上に置いたままだったラップトップを脇に追いやり立ち上がる。

 まず頭に過ぎったのは追跡してきた敵の襲撃。状況も分からず、いるかも不確かな敵の襲撃を警戒するなんてなんとも間抜けな話だが、可能性がゼロではない以上、最悪を想定しておくことが重要だった。

 澪はゆっくりと足を擦りながら寝室へと向かう。途中、入庁して間もない頃に勝ち取った剣道大会のトロフィーを手に取る。武器としては射程リーチも威力も心許ないが、丸腰よりはましだろう。

 息を吸い切ると同時、勢いよく扉を押し開けて中へと踏み込む。飛び込んできた室内の景色のどこにも人の気配はない。安堵と同時に疑念が湧き、後悔したときにはもう遅かった。

 背後から澪の首に腕が回される。澪は踵で地面を蹴って後退。背後にぴたりと張り付いた何かもろとも壁に激突。鋭く短い苦鳴が聞こえる。

 澪は拘束が緩んだ一瞬の隙を突いて拘束を外す。そのまま掴んだ相手の腕を捻り、床へ叩きつけるように押し倒す。自らの手足で相手の四肢をがっちりと拘束しながら見下ろし、襲い掛かってきた女の名前を呼んだ。


「絢・アナク・サレハ」


 名前を呼ばれた女は睨みつける険しい表情から一転、驚いたような顔になる。


「……あんた、飛鳥澪刑事、だよな?」

「恩を仇で返すような人間に、名乗るような名はありません」


 表情を変えずに放たれる、突き放すような言葉。女は困ったように眉根を寄せる。


「悪かった。襲われ続けて、気が立っていたんだ。それに、まさか飛鳥澪本人だと思わなかった。許してくれはいわない。そのままでいい。話だけ聞いてくれ」

「…………」


 澪の無言を了承と受け取った女が、小さく息を吸って言う。


「〝もしほんとうの自由がそこにあったなら、わたしはこの空を飛べたんだろうか〟」


 今度こそ澪は驚きを隠しきれず、女を見下ろす両目を僅かに見開いた。



 澪には二つ上の姉がいた。澪と違って病弱で物静かだった姉は、大地を走り回るしなやかさの代わりに魔法の手と目を持っていた。

 一七歳のとき、姉は国内の有名な絵画コンクールで金賞を受賞した。その翌年には〈higiri〉という名義で、デジタルアーティストとしての活動を始める。絵画の世界で生きるために芸術系大学へ進学するのではなく、より社会に密接なアートを志向したのだ。そしてその決意をかたちにするように、高校を卒業するころには絵一本で食べていけるくらいの実力と地位を持っていた。

 自慢の姉だった。

 新しいイラストがアップロードされた次の日には、クラスのみんなが〈higiri〉の話をしていた。〈higiri〉が姉であるということは秘密だったけれど、内心ではすごく誇らしげだったのを覚えている。

 突出した才能の持ち主だった姉とは違い、澪は普通に高校を卒業し、普通に大学へと進学した。大学でも〈higiri〉の話題を耳にすることは少なくなかった。そのたびに澪はまた、姉の活躍を自分のことのように誇らしげに思った。

 そして震災が起きた。

 は混乱に塗れ、恐怖と暴力と病が蔓延した。

 何もかもが目まぐるしく変わっていくなかで、姉の作風もがらりと変わる。それまでは小さい子供が見る夢のような、ファンタジー的要素の強いポップアートだったそれは、子供――とくに少女の裸体をモチーフとしたより生々しく激しいタッチのものへと変わった。

 姉は言っていた。自分も含め人の欲望は自覚的でなければならないと。己が醜さを抉るような衝撃でなければ、それは果たされないと。

 震災と感染症が蔓延する混沌のなかで、あるいは欲望が瞬く間に横溢していくなかで、姉は人のうちで渦巻く昏い欲望の正体に自覚的であるために、追及し続けたかったのだろう。

 だがセンシティブな部分を刺激する〈higiri〉のアートは瞬く間に非難の矛先となった。

〝傷つけられた〟〝不快だ〟と主張する人々の誹謗中傷によって姉は傷つけられ、精神を病んでいった。それでも姉が絵を描き続けていたのは、それが自分が唯一今の社会に対して投じることのできる価値だと、信じて疑わなかったからに他ならない。

 澪は姉の心身を案じつつも、少しずつ疎遠になっていった。

 姉のように一芸に秀でているわけではない澪には、混乱がもたらす未来への閉塞感は看過できない問題だった。未来を切り開くような力はなく、ただ必死に光が射しそうな抜け道を求めた。目の前の何かにがむしゃらになっているような感覚だけが、澪を少しだけ安堵させた。

 この頃の澪にとって、自分の力で最もやりたいことをやりながら生きている姉は眩し過ぎたのだ。

 そして姉――飛鳥雫あすかしずくは死んだ。

 多量の薬物を摂取しての自殺だった。中には《リンドウ・アークス》が製造した正規流通の薬品のほかに、非合法な非認可薬物デザイナーズドラッグも複数混ざっていた。


〝もしほんとうの自由がそこにあったなら、わたしはこの空を飛べたんだろうか もしほんとうの優しさがそこにあったなら、わたしは絵を描かず、大地を力いっぱい走れていたのだろうか〟


 それは、姉が遺した日記の末尾に綴られた長い長い文章の、一説だった。

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