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 覚悟とは何なのか。あるいはどういう状態ならば、覚悟を決めたと言えるのか。あれから数日、考えてはみたものの、結局銀には分からなかった。

 確かなのは年の離れた親友の妹――花のことが好きであり、その花に危険が及ぶかもしれないということだった。

 ならばそれだけでいい。たとえこの銀の行動が恋は盲目を絵に描いたような愚行だとしても、学生気分の甘っちょろい考えによるものでも、あるいは巧の言う通りに王子様や英雄を気取りたいだけの幼稚な自尊心の発露でも、何でもよかった。

 好きな女のために、身体を張る。

 辿り着く結末は、覚悟なき銀の心を圧し折るかもしれない。銀の命を無造作に摘み取っていくかもしれない。その道程にどんな危険が待ち受けているのかさえ、銀には分からない。

 だがそれでも。

 銀はここで引き下がるわけにはいかなった。

 花を守りたいという、確かな感情に蓋をすることはできなかった。

 それにきっと、ここで進むという選択をすることは、祖母の語る〝とびっきりの体験〟へと銀を導いてくれる。ただ生きているだけではないその先。祖母がそれでいいと認めてくれた奇跡のその向こうの景色。

 結局のところ、銀は独自捜査を続けるだけの後押しを、誰かにしてほしかっただけなのだろう。

 銀は弱い。

 巧のように聡明で要領よく、幅広い視野を持っているわけではない。あるいは真知のような好奇心や行動力に溢れているわけでもない。何かの物語の主人公のように、類まれな才能を発揮したりもしなければ、不屈の闘志を持ち合わせていることもない。

 だから何の成果も上がらない捜査は銀の精神をとてつもなく擦り減らしていたし、おまけにチンピラ解薬士に打ちのめされたとあっては、実際のところ及び腰にもなる。

 銀はどうしようもなく普通なのだ。普通で、それ故に弱いのだ。

 だがもう背伸びをして自分を大きく見せることも、虚勢を張って強がることも必要ない。

 銀は今、かつてないほどに冷静に自分自身を受け止めることができていた。少なくとも、そう思えていた。

 だから久しぶりに顔を突き合わせることになった三久村みくむら医師が会って早々に、何か変わった、と漏らしたことはあながち間違いではなかった。


「どうぞ」


 キッチンで何か作業をしていた三久村が戻ってくるや、銀の前にコーヒーが差し出された。銀は嗅ぎなれない高そうな豆の芳香に眉を顰める。

 三久村の自宅は、さすがは医者というべきか、不必要に広かった。リビングだけでさえ、六畳程度の銀の部屋が四つは軽く入りそうだ。加えて家具はどれも漆の塗られた艶やかな高級感を放ち、壁には《東都》での成功者であることを示すように都市の風景を描いた精緻な絵画が飾られる。

 だが掃除が行き届いているかと言われると微妙だった。部屋のところどころには薄っすらと埃が積もっていたし、キッチンは使いっぱなしの食器が堆く積まれている。


「妻と娘は、出て行ったよ」


 銀が部屋じゅうに巡らしていた視線を察してか、三久村が自嘲的に笑った。よく見れば、その顔は前よりもだいぶやつれ、無精ひげが小汚く並んでいた。上等なシャツを着ていなければ、およそ《東都》の成功者たる医療従事者とは思えない風体だった。

 銀は何か声をかけようと思ったが、どんな言葉を向ければいいのか分からなかった。


「……いいんだ。娘も難しい時期だし。妻はお見合い結婚なんだ。今どき珍しいだろう? 私たちの間には愛なんてない。医者として終わりかけた私が見限られるのは当然だよ。……それより、君の捜査のほうはどうなんだい?」

「正直なところ、さっぱりだ」


 銀は包み隠さずにきっぱりと告げた。三久村には酷な報告だろうが、取り繕っても仕方のないことだった。


「そうだ、ろうね……。あまり、期待はしていなかったよ」

「悪いな。あれだけ啖呵を切っておきながら」

「だとしても、君に何か責苦を強いるのはお門違いだ」

「随分と心が広いんだな。疑われてんのは自分だってのに」

「もう色々と諦めたんだよ。この年にもなれば、諦めることばかりが上手くなる。自分にできないこと、自分ではどうにもならないこと。そういうことに躍起になったって、無意味だよ」


 三久村は溜息を吐くように言った。だがその言葉のうちに、分不相応に諦めの悪い銀に対する憧憬のような、あるいは昔の自分の面影を懐古するような、感情が垣間見えたのを銀は感じ取っていた。


「とか言う割りによ、何か分かったんだろ? わざわざ連絡を寄越したくらいだ。諦めてなんかいねえじゃねえか」

「できる限りのことをするつもりなだけだ。君は少なくとも、悪い人間じゃなさそうだし、疑ってかかってくる警察より、少しだけ信頼できる。警察よりもずっと頼りないけれど」

「最後の一言は余計だ」


 銀は照れ隠しに鼻を鳴らし、湯気の立つコーヒーを含んだ。独特の酸味と苦味が口に広がった。

 三久村は立ち上がり、棚から茶封筒を手に取る。銀の対面に座り直し、その茶封筒を机の上で滑らして渡す。


「司法解剖を行った、知り合いの医師から流してもらった解剖の所見だ。これが何の役に立つかは分からないけど、情報としては価値があると思う」

「なんだよ、物分かりいい振りして随分危ない橋渡るじゃねえか」


 銀は茶封筒を受け取り、解剖所見のコピーに目を通す。

 解剖されているのは〈青の吸血鬼〉事件四人目の被害者である麻倉真利香あさくらまりかという女性のものだった。

 年齢は三一歳。無職。共に暮らしていた母によって捜索願が出されていたこともあり、比較的早期に遺体発見に至っていた。

 だが銀が独力で読み取れたのはそこまで。所詮はただの薬学生で、加えて留年を繰り返す落ちこぼれの銀に、解剖所見を読み下すことなどできるわけもなかった。


「……説明してくれ。よく分からねえ」

「まず、麻倉真利香、彼女の青血障害が非常に重度だったということだ。彼女は青血障害による職務継続が困難になり、幾度となく転職を繰り返している。そこに診察時のデータのコピーも入っているが、目を通してもらえれば、彼女が一般的な青血障害患者の倍近いレッドピルを服用していたことが分かるはずだ」


 銀は促されるまま診察データへと目を通す。三久村の言う通り彼女の障害は重く、普段の通院以外にも何度か救急車で運ばれる事態にまで発展していることがあった。


「彼女の遺体は君が発見した伊島佐那いしまさなと同じく腐食がまだ進行していなかったから、色々なことが分かっている。例えば、彼女には行方不明になってからも多量のレッドピルが継続的に投与されていた」


 麻倉真利香の母親が捜索願を出したのが去年の秋。遺体の発見は五月の連休明けなので、およそ半年以上も彼女はどこかに拉致されていたことになる。解剖の結果、死亡推定日は五月の初旬とされており、麻倉は行方知れずになっていた長期間、レッドピルを投与されて生かされていたことになる。

 もし〈青の吸血鬼〉の動機が青血障害患者への忌避や嫌悪からくるものであるならば、長らく延命治療を施しているのは奇妙な話だ。そしてこれは犯人が青血障害という苦難から、死をもって患者を解放する救世主気取りの人物であっても同様だった。

 もちろん麻倉が事件とは無関係に姿を消していた可能性はゼロではない。だが追跡可能性トレーサビリティに敏感なこの都市で、ただの市民がその消息を欺ける可能性は限りなく低い。


「犯人の目的か」


 これまで推測で組み立てていた犯人像が、有耶無耶にぼやけていった。


「それともう一つ。麻倉真利香の遺体には他の遺体同様に血を抜いたと思われる首筋の穴以外に、腕にも注射痕があった。レッドピル以外にも色々な薬や物質を投与されていたみたいで、ここに分かる限りのリストが載っている」


 そこに列挙される成分――ビタミンB12やアセチルコリン塩化物については銀でも理解ができた。例えば前者は血液細胞の生成を促進し、後者は鉄の吸収のために必要な胃酸の分泌を助ける。それ以外にも、ヘモグロビンの生成を助けるために必要な種々様々な物質が麻倉真利香の体内に注入されていた。

 そして銀の注意は、解剖所見のある記述に釘付けになる。


「腸閉塞に肝硬変……? 鉄中毒か」


 上げた視線が、銀をじっと見据えていた三久村の眼差しと交錯する。三久村が何を言わんとしているのか、言葉を交わさずとも察することができた。

 青血障害は酸素分子二つと結びつくはずの鉄原子が、酸素分子一つとしか結びつかない銅原子へと変異することで体内の酸素の欠乏を生じさせる。つまり青血障害患者は慢性的な鉄欠乏の状態にある。


「レッドピルの投与だけじゃない。〈青の吸血鬼〉は、その他造血剤を青血障害患者に投与した。あり得ないはずの鉄中毒になるほど過剰に。三久村先生よ。そいつは、つまり――」


 銀が言いかけ、だがそれを遮るように強烈な物音が響いた。三久村が身体を強張らせて机の上のカップを倒す。

 物音は玄関から。乱暴な足音が迫った。

 銀は最初、一向に進展しない捜査にしびれを切らした警察が、誤認逮捕でも構わないと踏み込んできたのかと思った。もしそうだったならば対話の余地があっただろう。だがもちろんそんなわけはなく、リビングの扉を蹴破った奴らを目の当たりにして銀の血の気は一瞬にして退いた。

 殴り込み同然に侵入してきたのは明らかに堅気ではない雰囲気の五人組。

 Tシャツがはち切れそうなほどの屈強な肉体。一方でこけた頬と落ち窪んだ暗い色の瞳。黒い肌にサイケデリックな刺青タトゥーを刻んだ男。

 中心に立つ男よりも一回り小さい他の四人も、外見からして相手を威圧するために研ぎ澄まされたような風体をしている。


「な、なんなんだお前たち――」


 思わず叫び声を上げた三久村の腹に、金髪を刈り上げた碧眼の男の蹴りがめり込んだ。三久村はその場に膝をつき、コーヒーと胃液の混ざった液体を床に嘔吐する。

 男たちは敵意を隠そうともしていなかった。やらなければやられることは明白だった。


「くそったれ!」


 銀は椅子を吹き飛ばしながら立ち上がる。そのまま猪突猛進。刺青の男目がけて振り被った拳を振り抜く。

 痛みより速く、銀を貫いた衝撃に脳が揺れた。視界が歪み、銀は地面に蹲る。周囲の音が遠退いていった。何とか顔を上げてようやく、自分の拳よりも後に出されたはずの刺青の男の拳が、恐るべき速度でもって自分の顎を打ち抜いたのだと理解する。

 レベルが違った。男たちはおそらく、荒事の専門家だった。

 刹那、蹲る銀の首筋から全身へ、強烈な電撃が走る。銀の身体は伸び切り、不恰好に床に落ちた。横になった銀の視界を覗きこむように、刺青の男がしゃがみ込む。

 表情の分かりづらい黒い肌に浮かべられるのは、こちらに恐怖を与えることだけを目撃としたような、嗜虐に満ちた笑みだった。


「くそが……」


 薄れていく意識のなかで、銀は何に向けてかそう呟く。

 間もなく、全てが暗闇へと落ちていった。

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