11
冷たい水に頬を打ち据えられて、銀は目を覚ました。
部屋は薄暗く、まだ朦朧とする意識に視界はぼやけた。周囲で何かを喋る声が聞こえたが、何を言っているのか聞き取れない上に、声との距離感も掴めなかった。まるで水のなかにいるように、くぐもって聞こえた。
身体が酷く怠かった。本当は今すぐにでも寝転びたいのに、銀の身体は鎖が何重にも巻きつけられ、天板の抜けたパイプ椅子にしっかりと固定されている。よく見れば服は着ておらず、鎖や椅子のパイプが肌に食い込み鬱血していた。
そこまできてようやく思い出した。
銀は三久村から、彼の自宅にて〈青の吸血鬼〉事件被害者の解剖所見を受け取った。そして遺体が暗示する真実に、手が届きかけるや否や、五人組の男たちに襲撃されたのだ。
どうやらもうここは三久村の自宅ではないらしい。失神している間にどこかへ連れ去られたのだろう。三久村がどうなったのかも分からなかった。銀はただ三久村が無事でいることを願うばかりだった。
「
唐突に野太い声が耳朶を打った。銀が声の方向を見るより早く、髪を鷲掴みにされて強引に顔を上げさせられる。暗闇に浮かぶ鮮やかな碧眼は、明らかに苛立ちを滲ませていた。どうやらさっきから何度も呼んでいたが気づかなかったことに腹を立てているらしい。
「
聞きなれない言葉。だが男が銀を嘲り侮っていることはなんとなく理解できた。
銀がぼんやりとその男の顔を見上げていると、前触れもなく鼻梁に容赦のない拳が叩きこまれた。銀は椅子ごと吹っ飛び、後頭部を地面に打ち付ける。脳が揺さぶられ、視界が歪む。だが痛みを味わうまでもなく、男の蹴りが振り下ろされる。肺から空気が絞り出され、思わず呻き声が漏れる。
「かはっ」
喘ぐ銀の胸座が掴まれ、強引に引き起こされる。気道が圧迫されて盛大に咽る。口腔に血の味が広がり、それが吐き気を催させた。
銀を起こしたのはリーダー格と思わしき黒人の男だった。黒人の男は金髪の男の胸に手を当て、後ろへと下がらせる。
「
セーニャと呼ばれた金髪の男は捲し立てるように何か抵抗するようなことを言ったが、黒人の男が首を横に振ると、それ以上でしゃばることはしなかった。
「
黒人の男が地面を指差すと、別の男が椅子を持ってくる。椅子を持ってきた男はいかにもアジア人という顔つきでこれと言った特徴はなかったが、顔中にピアスが穴を開けていた。ピアス男は銀を一瞥し、これ見よがしに舌なめずりをしてみせた。
少し見回せば、部屋のなかに他二人の姿も見つけることができた。黙って壁際に立つ髭を蓄えたアラブ系の男と、異様な臭いのする紙巻を咥えるまだ一〇代と思わしき赤毛の少年。
「なあ、あんた」
目の前に座る黒人の男に声をかけられた。
男が話す日本語は流暢だった。まるで機械音声を真似たかのように。いや実際そうなのだろう。男のイントネーションは外国人労働者向けの日本語教育プログラムのそれだ。
震災以降、《東都》には復興支援の大義の元、行政による主導で国内外を問わず多くの労働者が動員された。だが法整備もままならないままに行われた大規模な労働力の受け入れは、本来の目的である都市の復興こそ一定の成果を収めたものの、彼らのその後の生活を保障はしなかった。
働き口を失った彼らは、こうして廃区や地下迷路街に吸収され、荒事を担うギャングまがいのコミュニティを形成したのだ。
「知ったことを全部話せ。場合によってはすぐに解放してやることもできる」
男は冷酷に告げた。その言葉から銀は必死に推測する。
こいつらは三久村ではなく、銀の動向を辿っていた。三久村がここにいないこと。さらに銀が何をどこまで知っているのかを知らないことがその証拠だった。同時に三久村が本当に事件とは――少なくともこいつらとは無関係であることが証明できる。
ならばこいつらは一体何だ。真っ先に浮かんだのは〈青の吸血鬼〉の協力者、あるいはそれに類する何かである可能性。だがそうだとして、拷問する意味はまるで不明だった。銀を殺してしまえば、憂いはきれいさっぱり消えるはずだ。
黒人の男たちの目的を探るため、何かを話すか? ――駄目だ。おそらく下手な嘘はすぐにばれるし、知り得た事実に関しては銀に話せることはなかった。まだ何一つとして、確証をもって喋れる言葉を持ってはいない。全ては憶測に過ぎず、そこに未だ事実はない。
「ないね。俺はまだ、何も知っちゃいない」
不遜にもそう突き返した。次の瞬間、鋭いフックが飛んできた。
銀の視界に火花が散った。吹き飛んで地面に顔を打ちつけた拍子に折れた歯が飛んだ。鼻から血が噴き出し、口の中に入って荒い呼吸を圧迫した。
「黄色いサルのくせにいい度胸だ。だが知ってるか? 勇敢と蛮勇には雲泥の差がある」
男は銀を引っ張り起こす。さっきの数倍は荒っぽい動作に銀は歯を食いしばる。
「……へっ、俺が黄色いサルなら、あんたは黒いゴリラか? 随分とお勉強したらしい。ゴリラがウホウホ以外に話せるなんて驚いた」
「俺に安い挑発は通用しない」
銀の腹に拳が叩きこまれる。倒れないように髪をしっかりと鷲掴みにされる。もう一発。内臓が悲鳴を上げ、激痛に号泣するように血を迸らせる。臓腑から込み上げた血が、銀の口から溢れ出る。
「まあいい。すぐに話したくなる」
「はっ…………かかって、こいや」
銀は震えを殺しながらめいいっぱいの虚勢を張った。
状況は最悪だと言えるだろう。運が悪ければ、あるいは奴らがその気になれば、銀はいとも簡単に殺される。あるいは掛け値なしの恐怖や苦痛を植え付けられ、まともな生活を送れなくなるかもしれない。
だが同時に、核心に近づいたのだという興奮があった。
進むと決めた道を、着実に歩んでいるのだという感覚。少なくとも拷問にかける手間をかけようと思うほどに、銀は真実に近づいているのだ。
「いつまでそのやせ我慢が続くか、見所だな」
両脇に圧力。確認する間もなく顔全体に濡れたタオルが押し付けられ、強引に上を向かされる。勢いよく流れる水音が耳朶を打ったかと思えば、唐突な冷たさが銀に襲い掛かった。
タオル越しに勢いよく水を注がれ、あっという間に呼吸が奪われる。必死に抵抗しようにも横で銀を抑えつける力が逃れることを許さない。必死に喘いで手に入れた空気は胸を強く殴打され、反射的に吐き出してしまう。
タオルが乱暴に剥ぎ取られる。首の関節が悲鳴を上げるが、一気に酸素が流れ込んでくる。銀は激しく咽返り、貪るように呼吸を繰り返す。
だが息も整わないうちに、再び水気をたっぷりと含んだタオルで顔を抑えつけられる。間髪入れずに水が注がれ、銀の肺を侵していく。銀が抵抗しようと暴れるたび、拘束する鎖が身体へと食い込んだ。血が滲み、肉が裂ける。息を吸おうと喘げば、銀の胸に殴打や蹴りが見舞われる。
「さあ、話す気になったか?」
項垂れる銀の髪を掴んで無理矢理に起こし、黒人が笑みを浮かべる。銀はものの数分で死人同然にやつれていたが、胸に抱いた興奮はまだ消え去ってはいなかった。
「おいゴリラ……日本語分かるか? 話すことはねえ」
「そうか」
無感情な応答とは裏腹に、憤怒を乗せた打撃が叩きこまれる。息つく暇もなく、銀の顔には荒れ狂う水の応酬が浴びせられる。意識を失えば、頬を叩かれ起こされた。
休む暇も、思考する暇も与えられなかった。そうすることが自白を引き出すために最適な方法なのだ。正常な判断力や思考を失った人間は、与えられる苦痛から逃れるために最も愚かな選択をする。
奴らは明らかに手馴れていた。死なない程度に最大限の苦痛を引き出す方法を熟知していた。
だが銀に話すべきことはなかった。まだ確かめる必要があった。そしてもし銀が都合よく結び付けた最悪の憶測が真実だとするならば、それは銀自身の手で幕を引くべき真相だ。決して誰の手にも委ねてはならない。
黙し続ける銀にセーニャが痺れを切らす。銀を抑えつけていた腕をめいいっぱいに振り払い、銀を弾き飛ばす。銀は斜めに一回転して鼻梁から地面に落ちる。追撃を加えようと踏み込んだセーニャを、またもや黒人の男が制した。
「そろそろ死ぬと思うが、気は変わったか?」
「ぐはっ……かはっ、はぁ、はぁ、……なぁ、ゴリラ……お前、知ってるか?」
黒人の男は僅かに目を細める。苛烈な拷問に、銀がようやく根を上げたことを期待した眼差し。
「……吸血鬼の弱点はな、銀の銃弾なんだとよ。お前らの、ボスに伝えとけ。俺は、必ずてめえをぶっ飛ばす」
「減らない口だ」
黒人の男が脚を振り抜いた。まるでボールでも蹴るように、銀の顔面に男の蹴りが炸裂する。鼻は折れ、前歯が全て消し飛んだ。銀は仰け反り、椅子に縛り付けられたまま地面を転がる。真っ赤に染まった視界のなかで、男の姿が何重にも重なって見えた。
「お前は必ず後悔をする。
「それはお前だ、ゴリラ。時間の無駄だったと、今に後悔するぞ」
銀は性懲りもなく、黒人の男に向かって吐き捨てるように言った。
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