09
鼻の奥にツンと香る、微かな匂い。
どこか懐かしいような、胸がざわつくようなその匂いに、銀は目を覚ました。
「…………痛っ」
全身が金属のように軋んだ。起き上がるのを諦め、銀はそのままベッドに身を沈める。
視界に広がるのは見慣れた自分の部屋の、古ぼけた天井だった。
ぼんやりした意識のまま、曖昧で断片的だった記憶を整理していく。
銀は迷路街での聞き込みに精を出していた。真知の協力もあったが成果は全くと言っていいほど出ず、疲れた銀は独り酒場でアルコールを引っ掛けていた。
迷路街で、しかも格安で飲める酒だ。きっと粗悪な合成酒だったのだろう。消毒液と大差ないそれのおかげで、酒場での記憶に靄が掛かっていた。
あまりよく覚えていなかったが、誰かに喧嘩を吹っ掛けたか、吹っ掛けられたか、そんな気がした。全身の痛みから推測するに相当に殴られたのだろう。だが相手の顔も喧嘩のきっかけも、いまいち判然としなかった。だからもちろん、どうやって家まで帰ってきたのかなど覚えているはずもない。
だが答えはすぐ横に座っていた。
「何やってんだよ……?」
銀は刺々しく溢す。椅子の背もたれに寄り掛かりながら、まるで我が家のような空気で本を読んでいた巧が顔を上げた。喧嘩別れしたあのときよりも少しだけやつれ、目の下には薄っすらと隈が浮かんでいる。
「何って、読書」
「そういうことじゃねえよっ! 何でお前がここにいんだって、痛ぇっ……」
「あんまり無理しないほうがいい。たぶん肋骨に罅入ってるよ」
「まじかよ……ってそうじゃねえだろ。平然と人の家で読書してんな」
「冷たいなぁ。道端で血流しながら倒れる友人を家まで運んだ恩人に言う言葉か?」
「うるせえ。暇か、お前は」
「今日は非番だからね。解薬士にだって休日くらいあるよ」
「そうかよ。まぁ、助かった」
「よくお礼が言えました」
「うるせえな」
どこか懐かしいやり取りに、銀は僅かに頬を綻ばせる。だが厳然と、二人の間には決して噛み合うことのない歯車のような気まずい空気が横たわっている。
「……少し痩せたんじゃねえか? 解毒屋は身体が資本だろうが。ちゃんと食わねえと、情けねえとこでぶっ倒れんぞ」
「ちゃんと食べてる。それに、解薬士って言ったって荒事ばかりが仕事じゃないんだよ。ほとんど探偵みたいなことやってるよ。書類とか、事務仕事も多いしね」
「そっちのほうがお前ぇには似合ってるよ」
「そりゃどうも。まあでも確かに身体は資本だ。たまには建設的なことも言うもんだね」
「ぶっ飛ばすぞ」
「銀には無理だよ」
巧は笑う。確かに懐かしいやり取りだ。いつだってこうして軽口を叩き合い、互いに絶大な信頼を置いていた。だが貼り付けたような笑顔は、昔とは決定的に変わってしまった二人の関係を象徴していた。
「言ってろ」
銀は強引に会話を打ち切って身体を起こした。激痛は歯を食いしばって噛み殺す。
「どこ行くの?」
「決まってんだろ。…………いや、お前には関係ねえ」
銀は言葉を濁して吐き捨てた。巧に何を話したところでどうにもならない。巧は花を救うことを諦め、いつできるかも分からない特効薬を生きて待つ選択をしたのだ。最も現実的で、きっと正しい選択。だがそれを受け入れられるかどうかはまた別の話だ。
銀は身体を引き摺るように部屋を出る。だが巧の言葉が銀を呼び止める。まるでどんな言葉を吐けば、銀が立ち止まるのかを知っているかのようだった。
「〈青の吸血鬼〉事件、追ってるんだって?」
銀は振り返り、巧を睨んだ。何を言われようが止まるつもりなどなかった。
「真知ちゃんから聞いた。だいぶ切羽詰まってるから、助けてやってくれ。銀はきっと、自分では相談しないだろうからって」
銀は嘲るように、巧に乾いた笑みを向ける。
真知も余計なことをしてくれたものだ。それを聞いた巧が素直に銀を助けてくれるはずなどない。
「お前には関係ねえっつったろ。放っとけよ」
「そうもいかないよ」
巧は立ち上がり、銀へと詰め寄った。壁際に銀を追い詰め、逃げられないように腕を壁について進行方向を塞ぐ。
「これはただの学生がどうこうできる話じゃないよ。警察と、僕ら解薬士の仕事だ。銀のでしゃばる幕じゃない」
巧の目は冷たく、声は鋭かった。巧の言葉はどこまでも本気で、銀の身を案じていた。学生の悪ふざけや若気の至りでは、片付けられないことなのだと諭そうとしていた。
だが止まれない。もう、何もできない自分は嫌なのだ。
「俺は本気だ」
「本気なんてたかが知れてる」
「お前に俺の何が分かんだよ?」
「分かる。君は花の病気を餌にして、白馬の王子様を、英雄を気取りたいだけだ」
「――んだとぉっ!」
銀は巧の胸座を掴んだ。そのまま押し込み、反対の壁に巧の背中を叩きつける。衝撃に揺れた本棚から埃を被った雑誌が落ちた。
「もうやめろ。花には花の、お前にはお前の人生がある。赤の他人のお前が、花の青血障害を背負って生きる必要なんてない」
言い返せる言葉などない。だから銀には握った拳を振り被るほかに、巧の言葉を否定する術がない。
鈍い音がして、銀の拳が壁に大穴を穿った。首を少し傾けただけでそれを躱した巧は銀を侮るように、哀れむように下から見下ろした。
「また暴力に訴えるのか? みっともないぞ。いつまでそうやって子供のままでいるつもりだ? いい加減に大人になれよ。もう夢とか理想とか、自分にはきっと何かできることがあるはずだとか、そういう幼稚な妄想を抱けるほど無邪気じゃいられないだろ、僕らは」
巧は銀の胸を押し返す。決定的な亀裂。ずっと同じ
銀はふらりともたつき、床に尻もちをつく。
「…………なら、どうしたらいい。俺は、一体どうしたらいいっ! 花ちゃんがっ、あの子が殺されるかもしれねえこの状況でっ! 何にもせずにいい子に大学でも行けってのかっ!」
「君はそうすべきだ」
震える声で叫ぶ銀に、巧は無慈悲に言い放つ。
「覚悟のない奴は、夢を見る資格さえ与えられない。君は自分本位に逃げ回って目を背けるだけで、何一つ捨てられない。これ以上、花をだしにして自己満に浸るのは止めてくれ」
巧は床に落ちた本を拾い上げる。もう言いたいことは全て言ったと言わんばかり、銀に背を向ける。
「ならぁっ! ならっ、お前がなんとかしろよっ! 花ちゃんを、兄貴のお前が救ってみせろよっ! 〈青の吸血鬼〉も、青血障害も、全部お前がなんとかしてみせろよっ!」
銀は叫び、拳を床に叩きつける。
夢を妄想と切り捨てて進んだ巧と、いつまでも捨てられない感情に縋り続ける銀。二人の断絶は深く、銀の悲痛な叫びが巧に届くことはない。
だが部屋を出る間際、銀を一瞥した巧の眼差しは哀しげな色を帯びていた。まるで決して届かぬ果ての月を見て目を眇めるように。
だがその眼差しの意味を問うには、二人の距離はあまりに遠く、そしてあまりに近かった。
どれくらいそのまま座っていたのだろうか。やがて銀は空腹を感じて一階へと下りた。
再び自主捜査に動く気にはなれなかった。そのあたりがやはり、巧に覚悟がないと言わせる理由なのだろう。ちょっとした気分ですぐに折れ、立ち止まる。
銀は売り場に陳列される缶詰と缶切りを一つずつ手に取って、店の前に置かれた錆だらけのベンチに腰を下ろす。既に日は沈みかけていて、空はしつこいくらいに鮮やかな茜色に染まっていた。
缶切りで缶詰を開ける。ペースト状の合成食品に指を突っ込み、口へと運ぶ。味も、匂いもほとんどしなかった。計算された栄養を摂るためだけの食べ物。それは餌と何が違うのだろうか、などと興味のないことを考える。
「売り物を、勝手に食べるんじゃないよ」
すぐ横の入り口から、折れ曲がった背がぬっと出てくる。
「んだ、ばあちゃんか。びっくりさせんなよ。てっきり寝てると思ったぜ」
「ひっひっ。店番してるのに、居眠りするやつがあるかい」
「いつも寝てんだろうが」
祖母はまた喉をつっかえるように笑い、銀の横に腰かけた。銀は構わず缶詰の中身を指で掬って食べ続ける。
むやみに熱気を孕んだ風が銀の髪を揺らす。鼻孔をくすぐる湿った臭いに眉を顰める。街灯がちかちかと明滅し、やがて夜を歓迎するようにぼうっと光を灯す。ボールを抱えた子供たちが、黄色い声を上げながら前を走り過ぎていく。
穏やかに、だが決して止まることのない時間に、銀は少しだけ身を委ねる。
「生きるというのは、本当に大変なことだよ」
ふと、祖母が口を開く。銀は少しだけ驚いて祖母に視線を向ける。
「んだよ、いきなりどうした? 遺言なら聞かねえぞ」
「ひっひっ。そんなわけあるかい。少し黙って、老いぼれの戯言を聞いていておくれ」
「…………」
銀は口を噤む。食べ終わった空の缶を脇に置き、どこか居心地悪そうに座り直す。
「生きているってだけで奇跡みたいなもんなんだ。だけど、誰もそれだけじゃ許してなんてくれない。何かをしないと、何かにならないと。生きているというだけじゃぁ、誰一人として認めてなんてくれない」
「誰かの役に立て、って説教なら――」
「そんなもんはクソ食らえだよ」
口を挟んだ銀を抑えつけるように、祖母は温厚な表情のままに辛辣な言葉を放つ。
「生きてりゃいい。こうやって流れていく時間を、生きてりゃいいんだ。それがどれだけすごいことで、どれだけ大切なことか。平和っちゅうのは、そういう最初の大切を、忘れさせちまうもんさ」
祖母はどこか遠い景色を見ていた。先立った銀の祖父。あるいは震災に呑み込まれていった息子夫婦を、銀の両親を懐かしむように。
銀は祖母のその目には、もうあの世が間近に見えているのではないかという気になる。
「生きてりゃいい。でもね、もしその生きるってのを、誰かと共に歩めたら、歩みたいと思えたら、それはきっと、独りきりじゃぁ得られない、とびっきりの体験だ。友達。恋人。家族。ライバル。何だっていいんだ。その思いは、あんたをおっきくしてくれる」
もしかすると巧との会話を聞いていたのかもしれない。壁も天井も薄っぺらいので、店番をする祖母に怒鳴り声が聞こえていても、何も不思議ではなかった。
銀は無言で座っていた。祖母の言葉を受け取ろうとしていた。あるいは巧に投げつけられた言葉の意味を、考えていた。
「暑いのはちと堪えるもんだねぇ」
祖母はゆっくり立ち上がる。折れ曲がった腰に手を当てながら、店へと戻っていく。もうとっくに閉店の時間だった。
「……ばあちゃんはよ」
銀はぼそりと溜息を吐くように言う。耳が遠い祖母に聞こえなかったならば、それはそれでいいとでもいうような掠れた声で。
だが祖母は銀に視線を向ける。
「ばあちゃんは、何かを覚悟したこと、あるか?」
銀の切実な問いに、祖母はまたつっかえるように笑った。
「ないよ。覚悟する時間なんて、貰えた試しがないね。時間っちゅうのはあっという間でね。気が付いたときには進んじまってる。そういうもんだよ」
「そうかよ。あんまり参考にならねえな」
銀は笑った。
だが祖母の言葉は一つの真理だった。時は、社会は、人の覚悟や感情など待ってはくれない。気が付いたときには全てが進み、何もかもが手遅れになる。だから人は、巨大な波のなかでもがきながら、前も後ろも分からないままに手足を動かすしかない。
「ひっひっ。……さ、銀坊も入んな。一緒に夕飯食べるの、久しぶりだねぇ」
「銀坊言うんじゃねえ」
「今日は、カレーだよ。銀坊」
「お、ばあちゃんのカレー久々だな…………ってわざと呼んでんだろ?」
祖母は楽しそうに、また笑った。
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