08

 鼻の奥にツンと香る、薬品の匂い。

 息を切らした少年は、病室いっぱいに満たされたその独特の匂いに少しだけ眉根を寄せる。そして半ば無理矢理に笑顔をつくって顔を上げる。どんな些細な不安も焦燥も、禁物だった。

 上げた視線の先、真ん中には少女がいる。真っ白な病室で、真っ白なベッドに座る少女。窓から射し込む光だけが穏やかな色を帯び、少女の優しく包み込んでいる。


「…………」


 少女が少年に気づき、顔をこちらへと向けた。戸惑うような、安堵するような、笑みだった。

 カチリ、と心の奥で音が鳴る。

 少年は鍵をかける。表情に優しい微笑みを張り付ける。それが少女を安心させるために、必要な全てだった。


「……もう、何ともないか?」


 声の震えを抑えつけるようにゆっくりと。少年の言葉に、少女はもう一度さっきのような曖昧な笑みを浮かべた。


「……うん。大丈夫。でもしばらくは安静にしてなさいって先生が」

「そうか」


 少年は内心でほっと胸を撫で下ろす。ベッドの脇に置いてある椅子を手繰って腰を下ろした。

 少女は青血障害を患っていた。震災期に蔓延した伝染病の後遺症だった。

 誰もが知ることだが、通常、血は赤い。これは血中に含まれるヘモグロビンが赤いからだ。だが青血障害を患うとこのヘモグロビンのDNA構造がヘモシアニンへと書き換えられる。鉄ではなく銅イオン由来のヘモシアニンは酸素と結合することで青くなる。

 だから少女の血は青かった。

 健康な人間のそれとは、明確に異なる血が、少女の身体を流れている。

 青血障害の問題は血液が青くなることだけではない。鉄分子に比べると、銅分子の酸素運搬量は半分になる。つまり血が青くなればなるほど、細胞に供給される酸素の量が減っていく。放置していれば瞬く間に酸素欠乏症になり、やがて緩やかに死に至る。

 今日も授業中に突然倒れたという連絡を少女の担任から受け、少年は学校を飛び出して病院へと急行したのだった。

 少女は閉めきられた窓の外へと視線を投げる。その視線の先の中庭には走り回る同い年くらいの子供たちがいる。中には一人、車椅子の少年が混ざっている。きっとお見舞いにでも来たのだろう。窓越しに楽しそうな笑い声が、微かに聞こえた。

 青血障害である少女には、ああやって走り回ることは難しい。酸素をうまく取り込めないため、激しい運動をすればその分だけ症状を加速させることになってしまうのだ。

 少年の胸は鉄線で縛り上げられたように、鋭く痛んだ。

 現状の医学では青血障害を完全に治す方法はない。《レッドピル》という薬によって症状を抑制するのが関の山だ。だから何らかのブレイクスルーが起きない限り、あの子供たちのように少女が中庭を走り回る未来が訪れることはない。

 少女もそのことを分かってはいる。だが分かってはいても、胸のうちに湧いてくる憧れを拭い去ることは簡単ではない。

 だが少年にできることは何もなかった。

 少年は現実から、未来から目を逸らすように話題を変える。


「何読んでたんだ?」


 少女は膝の上に置いていた本を手に取った。無言でページを捲り、少年へと差し出す。

 それは写真集だった。世界中の美しい自然を切り取って収めた一冊。開かれたページは黄金を散りばめたような砂浜と、吸い込まれるような深い青の海。どこかの国の、冬の浜辺の写真だった。

 写真や風景の美しさなど、全く分からない少年でも、それは深い溜息を吐きたくなるような美しい一枚だった。


「へぇ、綺麗だな」

「…………」


 思わず漏れた少年の感嘆に、少女は戸惑うように黙している。少年は少女の様子に気づき、小さく首を傾げる。


「……よく分からない」


 絞り出したような少女の声は、無自覚な悲痛さを湛える。少年はばつが悪いと言わんばかり、思わず視線を逸らして息を呑んでしまう。


「……うち、《東都》の外、行けないから、って、くれた。有名な写真集だって。でも、見たことないから、よく分からない。……写真、本物よりも綺麗?」


 何気なく放たれる言葉。それは純粋な無知から生まれる透き通った疑問。

 だが少年は今にも叫び出したくなった。喉を掻き毟り、嗚咽を漏らしそうになった。だが寸前のところで手の震えを抑え、叫びを必死に飲み下す。


「…………?」


 少女は尚も円らな瞳を真っ直ぐに少年へと向ける。無垢であるがゆえに容赦なく突き刺さる視線は、少年の心をずたずたに切り裂いていく。

 しかし少年の内心の動揺が、表情や言葉となって表れることはなかった。少年は微笑んだ。ごく自然で柔らかな微笑みは、もはや少年の心の何処にも根を張ってはいない。空疎で虚ろで、だがどこまでも優しい笑顔。


「うーん、きっとね、本物のほうが綺麗だ」


 少年が言うと、少女は肩を落とした。少年はそっと手を伸ばし、少女の頭を撫でる。最初は肩を強張らせた少女も徐々に力を抜き、少年の掌の体温に身を委ねていく。


「だから本物、見に行こう」


 少年は強く宣言する。顔を上げた少女の顔は晴れやかになり、だが一瞬にして困惑に曇っていく。


「……行けない、よ? 《東都》から、出られない、から」

「行けるよ。病気を治せば行ける。海だって山だって、どこへだって行ける」

「治る、のかな……」

「治る。治してみせる。そんで、一緒に砂浜を見に行こう」


 感情の乏しい少女の頬に涙が伝う。透き通ったそれは滴り落ちて、シーツに滲みをつくる。


「泣くなよ、花。大丈夫。絶対に治してみせるから」


 少年の細い指が少女の涙を拭う。少女は涙を流しながら、花開くような笑顔で表情を彩る。

 少年は微笑みを張り付けたまま、もう一度、少女の頭を撫でた。

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