05

 夏の夜の、どこか気だるげな熱気がアスファルトから濛々と上がる。手にしていた缶コーヒーはいつの間にか温くなり、舌にざらついた甘さを残す。

 視界の隅ではスーツを着込んだ男二人組が、ホームレスの老婆に何やら絡まれている。鬱陶しそうにしていたが、片方はやがて老婆に連れられてどこかへ消えていった。

 銀は花壇の縁に腰かけ、今にも暴れ出しそうになるのを堪えながらその時を待った。

 国立田見たみ医療センター。銀の通う青田学院大の薬学部とは研究提携をしている医療機関だ。加えて真知が集めたあの資料によれば、《青の吸血鬼》事件における一〇人の被害者全員が一度はここで診察を受けている。

 この事実はある意味では僥倖だった。

 銀も何度か大学にかけられるアルバイトの募集で出入りしたことがある。無暗に院内をうろついていても学生証を提示できればある程度は許容される。加えて言えば何人かの医者や看護師とは顔見知りだったし、彼らの大まかなルーティーンもなんとなく把握している。

 だが僥倖であると同時、これは凶報でもある。

 この田見医療センターは他でもなく、花が青血障害の治療を受ける医療機関なのだ。つまり田見医療センターの診察履歴がある青血障害患者という、これまでの被害者の条件に花はぴたりと一致するのだ。

 職員出入り口の自動ドアが開いた。中から出てきたのは中肉中背に禿頭の男。縒れたシャツやスラックスのせいか、酷くやつれているように見える。男は周囲を入念に見回し、深く息を吐いて歩き出す。痛んだ革靴が地面を不規則に擦った。

 銀は息を殺して男が目の前を通り過ぎるのを待ち、口を開く。


三久村鷹弥みくむらたかや医師だな」

「ひぃっ……」


 男は喉の奥で悲鳴を上げ、身を縮こまらせる。銀は立ち上がり、床に転がした空き缶を踏み抜く。怯える三久村に容赦なく詰め寄る。

 その刹那、明後日の方向から走って来た自動車が病院の壁へと突っ込む。正面入り口からわらわらと人が出てくる隙に、銀は三久村の腕を強引に引っ張って関係者駐車場へと連れ込む。


「も、もう警察には全部話しただろ……っ、私は、私は何も知らないんだっ!」


 どうやら被害者たちの診療記録については警察も辿り着いているらしく、既に執拗に聴取された後のようだった。出入り口から出てきたときに感じた疲労感や、あたりを見回す行動はこれが原因なのだろう。疲れ切った様子の三久村は、怯えこそするものの抵抗しようとはしなかった。


「大人しくしろ。あんたの出方次第じゃ危害は加えねえつもりだ」

「も、もう勘弁してくれっ……本当に、本当に何も知らないっ」


 三久村は必死で訴えたが、銀はさらに凄む。三久村を壁に叩きつけ、喉を拳で抑えつける。


「一時でもてめえの患者だった人間が狙われて、殺されてるっつうのに、知らねえの一点張りか? 医者の風上にも置けねえ奴だなぁおいっ!」

「い、一日、一体何人の患者を診てると思ってるっ! 青血障害の、患者だけじゃないんだ。一度、しかも何年も前の患者のことなんて、お、覚えているわけ――――けほっ、けほっ」


 銀は乱暴に三久村を地面に投げ捨てる。バランスを崩した三久村を跨いでしゃがみ込み、薄い髪を毟るように掴む。


「てめえが《青の吸血鬼》か? あ?」

「ち、違うっ! そんなわけあるかっ! どうして私があんな恐ろしいことしなきゃならないっ!」

「じゃあ誰がやった?」

「し、知らないっ! 本当に、私は無関係なんだっ! し、信じてくれってぇっ!」


 銀は三久村から手を離した。三久村は肩で息をしながら地面に寝転がる。

 もとより三久村が〈青の吸血鬼〉であるとは思っていない。だが何らかのかたちで関わっている可能性までは否定できず、もしそうだとするならば脅迫まがいの尋問で口を抉じ開けさせるのが最も効果的だと踏んだ。


「なら知ってることを全部話せ」

「だから何も知らないっ!」

「しらばっくれんのは、あんまり賢いとは言えねえぞ?」


 銀は拳を握り、指を鳴らす。三久村は喉の奥で悲鳴を上げて身震いする。


「本当なんだって。青血障害は、世間的に色んな差別や偏見に晒される。おまけに寛解の見込みは現時点ではない。だ、だから、途中で治療をドロップアウトしていく患者も多いんだっ! だから、通院が途切れたとしても、何も不思議には思わなかった。それが、こんなことになって……」

「それで、いっそのこと血を全部抜いて、患者を楽にしてやろうと思ったか?」

「違うと言ってるじゃないかっ! あ、あんた警察じゃないのかっ?」


 銀は意地悪く、三久村を挑発するように笑った。


わりわりい。だがこれでようやくあんたが犯人じゃねえと思えそうだ。良かっただろ、嫌疑が晴れて。あと、俺は警察じゃねえよ。ただの学生だ」

「が、学生っ?」


 声を裏返した三久村の胸座を掴み上げ、ぐいと顔を近づける。三久村は怯えながらも相手が学生だと分かったからか、その冴えない顔に反抗心を露わにする。


「まあンなことはどうでもいい」

「ど、どうでもよくないだろっ! こ、こんなこと、立派なは、は、犯罪だっ!」

「そうだろうな。だがいいのか? 俺はあんたが無実だと信じて動く数少ない人間だ。警察はまだあんたが関わってる線を捨てちゃいないぜ? あんたの周りを見てりゃ尾行がうろうろしてやがった。今頃婆さんの戯言やら目の前で起きた交通事故やらで大慌てだろうがな」


 銀は三久村から手を離し、三久村の横にどかりと胡坐をかく。もはや三久村が逃げ出すことを警戒しておく必要はなかった。

 銀は思い通りに事が運んでいることに内心でしたり顔を浮かべ、三久村の恐怖心を煽り立てるように続けた。


「そうそう、冤罪と言えばよ、ついこの前、俺も掴まりかけたんだわ。運よく目撃証言があったからよかったものの、ありゃあいつら容赦なく俺を〈青の吸血鬼〉に仕立て上げる気だったな。だがざまあみろ。当てが外れた。となりゃ、現状で一番怪しいのって誰なんだろうなぁ?」

「ど、どういう意味だ……」

「ぶっちゃけ警察は真実なんてどうだっていいんだろうなぁ。大事なのは犯人を捕まえたってメンツだ。困ったよな、このままじゃあんたまるでオズワルドだ」


 もちろんそんなことはない。警察が三久村をマークしているのは何らかの関与を疑ってのことだろうが、三久村が〈青の吸血鬼〉だと本気で思っているわけではないだろう。

 だが尋問に近い聴取をされ、さらに銀に散々脅された挙句、尾行の存在を明かされた三久村の精神状態に、正常な判断ができる余地は残されていない。


「あんたが捕まりゃ、田舎のお袋さんは哀しむだろうな。娘は確かもうすぐ高校卒業だったよな? 聞いたぜ、えらくいい大学に推薦入学らしいな。そうそう、こりゃ聞いた話なんだが、非認可薬物デザイナーズドラッグの密売に加担した何の変哲もねえサラリーマンの娘は――」

「も、もうやめてくれぇっ!」


 三久村ががちがちと歯を鳴らしながら叫ぶ。銀は悪辣に、容赦なく口の端を吊り上げた。三久村はあたかも自分が警察に追われていると完全に信じ込まされていた。


「俺ならあんたの無実を証明してやれる」

「そ、そんなことができるのか……?」

「ああ。真犯人を捕まえればいい」


 答えは端的だった。そしてそれこそが花を脅威から遠ざける方法に他ならない。


「私は……私は、何をすればいい?」

「そんな大したことじゃねえ。犯人像を絞り込む手助けをしてほしい。簡単に言やぁ情報提供だ」

「だ、だが私は何も――」

「分かってるよ。だから教えろ。これを見て、医者のてめえが分かる全部を俺に」


 銀は尻ポケットから封筒を取り出し、中身をばら撒いた。三久村が息を呑み、途端に込み上げてきた吐瀉物を嘔吐する。地面に撒かれたそれは銀があの夜、端末で撮影した〈青の吸血鬼〉事件一〇人目の被害者、伊島佐那いしまさなの遺体の写真だった。


「吐くなよ、死体くらいよく見るだろ。医者なんだから」

「み、見るわけないだろっ、私は患者を救うのが仕事だっ!」


 三久村は口元の汚れを拭い、写真を拾い上げる。震えながらも伸ばされた手と歯を食いしばりながら写真に落とされる視線には、単に自らの無実を証明しようとする以外の、命を救う者としての矜持が感じられた。


「報道の通り、死体からは綺麗に血が抜かれてる。おかげで異様に軽かった」


 銀は平静を装いながらあの夜見たものを伝えようとしたが、思い出しただけでも胃が握り潰されるような強烈な悪寒を催す。三久村に悟られないよう喉まで込み上げた吐瀉物を飲み下し、腕を組んで震えを抑えつける。


「抜いたのは多分、首筋のその穴だろ。直径は三ミリくらい。静脈と動脈に一カ所ずつ」

「おぇ、うぅ、ぇ……」


 三久村はえづき、涙を流しながら写真を一枚一枚精査していく。荒い呼吸を繰り返し、全身に物凄い汗を掻いている。やがて全ての写真を裏に返し、地面へと叩きつけるように置いた。


「君の、言う通り、だ……。血はこの穴から、抜かれている、と、私も思う。体型から判断して、たぶん一五歳前後。平均体重が四九キロと仮定すると、青血障害患者が服用する、レッドピルが造血作用を持っているとは言っても、血液の量はおよそ、三リットルにも満たない。推定だが、血抜きに掛かった時間は五時間程度。重度の出血性ショックは意識混濁や心拍上昇のほかにも、血圧の急低下による苦痛を伴う、はずだ。なんて、なんて惨い……」


 三久村はゆっくり、だが何かに追われるような捲し立てかたで喋り終える。押し留めていた嗚咽が漏れ、写真が吐瀉物に塗れていく。


「血を抜くのには大掛かりな機材が必要か?」

「ただ抜くだけなら、必要ない。排水溝にでも流せば済む」

「だがそれだと簡単に足がつくな。青い血が流れてくりゃ誰だって何かおかしいと気づくだろ」

「アミノアルコールで透明化できる」

「なに?」

「通常の血液の赤色色素ヘムと違って青色色素シアンを脱色するから、CUBIC試薬を用いるわけではないとは思うが、可能なはずだと、思う」

「なるほど。無色透明にしちまえば細かく下水攫いして成分でも調べねえと分かんねえってことか。いや、もし地下迷路街が拠点なら生活排水の出どころを追うなんて不可能だな」


 あの混沌の坩堝から流れてくる汚水には血液が混ざっているなど日常茶飯事だ。廃棄される血液の線から犯行現場を特定するのは、素人の銀には不可能だった。


「地下が犯行現場、なのか?」

「たぶんな。少なくとも殺された患者たちは一度迷路街を通って地上に捨てられてる。いくら何でも都市の追跡可能性トレーサビリティを振り切って死体運びなんて真似は不可能だろ」


 昨年末ごろから《イーストアクセル》による自動運転システムが都市部に随時に導入され始め、誰が何処で何をしているのかをデータとして管理する流れはますます強まっている。

 ちなみに被害者たちが消息を絶った場所と時間を調べる試みは既に挫折している。《イーストアクセル》の個人情報は厳重に管理されているし、警視庁や政府、《リンドウ・アークス》などの開示要求以外で情報が晒されることはあり得ない。

 つまり警察は既にその情報を掴んでいるのだろう。そしてその上で銀を犯人扱いしたり、三久村を尾行したりしているのだから、犠牲者の消息の線から真実に辿り着くことはよほど警察が無能でない限りは困難なのだと考えるのが自然だった。


「爪が剥がされてた。それは何か関係あるか?」


 三久村は裏向きになった写真の束から何枚かを抜いて、銀に投げて寄越す。銀は人差し指と親指で摘み上げるようにしてそれらを引っくり返す。


「たぶん、それは、彼女が、抵抗した痕跡だ。手首と足首に、うっ血した痕がある。右の中指は折れていた。爪が剥がれているのは、手だけだった。きっと……苦痛に、抗おうとして爪を立てた。その拍子に、割れるか剥がれるかしたんだと思う」

「血が抜かれ切る前に出血したんなら、血がついてることも説明がつくか」


 これで拷問や嗜虐の線はおそらく消えた。〈青の吸血鬼〉は単なる猟奇殺人鬼ではなく、世間が騒ぐ通りの救世主を気取るクソ野郎なのかもしれない。だがそうだと判断するにはまだ早く、何かを見落としているような気がした。

 銀の声は震えていた。恐怖に。そして怒りと焦りに。

 時間は刻一刻と過ぎ去っていく。その間にも、〈青の吸血鬼〉の魔手は次の犠牲者へと伸びている。

 それが花でない保証はどこにもないのだ。

 やり場のない感情が燻ぶった炎となって、銀を蝕むように焦がしていく。

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