03

 下品な歓声。下品な野次。どこか獣臭の入り混じる汗の臭い。

 銀は拳を構えて腰を落とす。銀よりも一回り小さな男が身体を左右に揺らしながら低く構えを取る。簡素な柵を隔てた外野は熱気と荒々しさに満ちていたが、対峙する二人の男の間に漂う空気は静謐ささえ湛えて張り詰めていた。

 一見すると気の抜けた感じを醸す男の動作には一分の隙もない。

 だが虎穴に入らざれば虎子を得ず。あるのは退くことも臆することも知らない攻めの一手のみ。


「うぅるるああああっ!」


 銀が踏み込む。引き絞った拳を放つが、男ははらりと身を切って躱す。外れたと思ったときにはカウンターの裏拳。銀の鼻梁を正確に、そして苛烈に穿った。


「ぐあっ」


 仰け反った銀は後退する。情けなく尻もちを突くのはなんとか堪えたが、これを隙と見た男が追撃を加えてくる。

 放たれるのは、教科書通り、流麗な右ストレート。銀の顎を撃ち抜き、意識が吹き飛びそうになる。だが銀は倒れない。それどころか鼻血を流しながらも眉間に皺を刻み込んで男を睨みつける。

 昔から頑丈だけが取り柄なのだ。それに心の痛みに比べれば、鼻がうちに仕舞いこもうとする苦しさに比べれば、こんなものは大したことはない。


「ざけんなぁっ!」


 銀は威圧的に吼え、さらなる追撃に蹴りを見舞っていた男に向けて踏み込む。

 男の蹴りは狙いを外すも、脛が銀の首に直撃する。だが銀は倒れず、蹴りを振り抜かせることもしない。代わり、放った一撃が男のこめかみを捉える。男の体躯はぐらりと揺れ、だが倒れる寸前で踏み止まる。


「やるじゃねえか」


 銀が挑発的に笑む。男は腰を落とし、ただ無言で人差し指を立ててかかってこいと応えた。

 拳を握り込む。低い姿勢で男へ突っ込み、これまでのどんな打撃よりも鋭く、速く、拳を振り抜く。


「ほぅぅううるるるるああああああっ!」


 必中必殺。銀の大きな身体の重さを全て乗せた理想的な一撃。

 だが衝撃は、銀の脳髄を貫いた。


「あがっ」


 視界がぐにゃりと歪む。膝をつき、男を見上げると同時、銀の意識は真っ暗になった。


   †††


 気がつくと、額に冷たい感触があった。遠退いていた喧騒が一気に戻ってくる。銀はそこで初めて自分が負けたことを認識した。

 銀は廃区の地下決闘場コロシアムに訪れていた。むしゃくしゃしたときはいつもそうする。いつもと少しだけ違ったのは、野次を飛ばす方ではなく飛ばされる側に回ったことだ。なぜそうなったのかは覚えていない。だいぶ酒を飲んでいた。記憶は曖昧だったが、戦いの痛みだけが鮮烈だった。

 身体を起こすと額に乗っかっていた濡れタオルが落ちた。銀がそれを拾い上げようとすると、すぐ隣りから声が掛かる。


「起きたの、だね?」


 半音ずれたような、どこかたどたどしい奇妙なイントネーションだった。見ればついさっきまで対峙し、拳を交えていた男が座っていた。

 男の小柄な体躯は、だが数多の修羅場と死線を潜ってきたことを体現するように鍛え上げられている。ウェーブのかかった長髪が垂れ、その隙間からは鋭い眼光が覗く。


「そりゃぁ勝てるわけがねえ」


 銀は吐き捨てるように独り言ちた。この辺りの決闘場では見かけない顔だったが、それでもこの男が常人離れしていることは一目で分かる。よくもまあそんな相手と喧嘩をする羽目になったものだ。


「何か、言ったのだね?」

「んでもねえよ。それはさておき、あんた強えな」

「強くある必要が、あるだけなのだよ」

「そうか。色々大変だな」


 訳ありな風で言った男に、銀は追及しなかった。拳を交えた仲とは言え、ついさっき知り合ったばかりの相手の事情に深入りする気はなかったし、何かを抱えていない人間などいないのだと、他でもない銀がよく知っていた。


「すまなかった、のだよ」


 男が唐突に謝ってくる。銀は何のことかと眉を顰める。


「いや、謝るのも無礼とは思っているのだがね、あの最後の一瞬、私は君を殺すための一撃を思わず放ってしまったのだよ。きっと怖気づいたのだよ。君が、君の拳が持つ、全てを振り切ったような言い知れぬ迫力に、私は気圧されたに違いない、のだね」


 男は申し訳なさそうに言いつつも、どこか嬉しそうだった。必要に駆られて手に入れるしかなかった強さだと男は言っていたが、その強さは男の魂そのものであり生きる目的と同義なのだろう。

 だが銀は気づかないふりをして肩を竦める。


「頑丈なのだけが取り柄でな。あの程度じゃ死なねえから安心しろ」

「君が無事で、よかったのだよ。そして、今日ここに訪れたことも」

「そいつはよかった。俺のほうは、なんだ……まああんたとやり合って多少すっきりしたさ」


 銀は自嘲的に笑う。

 決闘場で喧嘩に野次に明け暮れたところで、現状は何も変わらない。こんな薄暗い地下でどれだけ自分の力を示し、喧騒に身を浸そうと、己の本質たる無力は変わらない。この男のように求めるものも、進むべき場所もない。銀の時間は、ただどうしようもなく空虚だった。

 分かっていても、銀にはどうすべきなのかが分からなかった。

 逃げるように立ち上がった。向かうべき場所はなかったが、いつまでもここにいるわけにはいかない。ここにはここの、流儀と生き方がある。それは少なくとも銀のものではない。


「帰るのだね?」

「ああ。これでも俺は学生なんでな。明日も講義が早えんだ」

「これは……驚いたのだよ」


 男が目を見開いた。その人間らしい表情に、銀は少しおかしくなる。


「ならば最後に一つ。名を、教えてほしいのだよ。この一戦を、私の強さの糧とするために、名をこの魂に留めておきたいのだよ」


 銀は逡巡する。あまり自分の名前が好きではない。親に貰った名だとしても、実に古臭くてカッコ悪い。

 だが結局はぐらかさずに答えることにした。目の前の男が向ける、狂的に強さを欲する真摯で危うい眼差しに、嘘を差し向けるような真似はすべきではないと思った。


「銀。女部田銀だ。あんたは?」

志賢ジヒョン。この界隈では、ガンティエと呼ばれているのだよ。……銀か、いい名なのだね」

「そうでもねえよ。いつも目指すところに手が届かねえって意味だ」


 銀は大仰に肩を竦め、劉に向かってひらひらと手を振って決闘場を後にした。


   ◇◇◇


 日は既に沈んでいた。

 繰り返し明滅する街灯に照らされて、無数の蛾が躍っている。整備されなくなって久しいアスファルトは罅割れ、その亀裂から存在を誇示するように名もない雑草が繁茂する。空はどんよりと曇っていて、星の一片さえ瞬くことのない無窮の闇を広げている。

 寂しい、というよりもどこか不気味だった。

 銀は僅かに感じた悪寒を紛らわすように、決闘場の露店で買ってきた酒瓶を煽る。粗悪な合成酒だからか、喉の奥が焼けるように痛んだ。

 それでいい。

 痛みだけが生きている証拠だ。

 どこへ向かうことも、どこを目指すことも、その一歩に確かな意味を込めることもできない銀にとって、他には何も残ってなどいなかった。

 路傍の石を蹴飛ばす。街路に虚しく転がっていく石は、不規則に弾かれて細い路地へと飛び込んでいく。

 まるで社会のレールから無様にドロップアウトしていく自分そのものだった。向かう先はただ隘路ばかり。やがて道に迷い、立ち塞がる暗闇に進むことを諦める。


「けっ」


 喉を鳴らし、石ころが消えていった路地を見やる。

 石より先に目に入った光景に、銀の視線は釘付けにされる。身体は硬直し、意志に反してがたがたと膝が震えた。手から酒瓶が滑り落ち、琥珀色の液体を破砕音とともに地面にぶちまける。

 それは少女だった。

 ボロボロに縮れた僅かな青みを帯びる黒く長い髪。本来ならばまだ瑞々しさを残すはずの肌は渇き切って色を失い、まるで砕かれた氷のように罅割れている。服は着ておらず、微かに動くこともない。剥がされた爪の代わりにぬらりと光るのは、青い血。

 銀の体温が急速に冷えていった。


「…………花?」


 張り付く喉でようやく絞り出せたのは掠れた声。もちろん少女は返事をしない。銀の脳裡に今朝方聞いたばかりの凄惨なニュースが過ぎる。

〈青の吸血鬼事件〉。青血障害を患う者を狙い撃ちにした、血を奪う殺人鬼の凶行。

 そんなはずがない。

 銀は震える心で目の前の現実を繰り返し否定した。だがその否定の根拠となるものは何一つない。《東都》に巣食う悪意が自分の身に降りかからない保証など、どこにも存在はしない。

 銀は気づく。

〈青の吸血鬼〉が起こす事件に苛立つ一方で、どこか自分には、花には関係ないだろうと高を括っていた。あらゆる現実から目を背けていた。何もできない自分を棚に上げ、葛藤している風を装うことで満足していた。

 そのツケが、最も大きな喪失として、銀の眼前に突き付けられていた。

 つんのめるように、一歩を踏み出す。

 感情が進むことを拒絶した。だが理性は死んだ少女に歩み寄ることを訴えた。目を背けるな。その無力の証を全身に刻み付けろと叫んだ。

 銀は進んだ。ほんの十数メートル先の少女がひどく遠くに感じられた。手の届く距離に着いたころには全身は暑さとは別の、嫌な汗に濡れていた。

 銀は少女を抱き起こした。ほとんどの血を抜かれたその骸は、不気味なほどに軽かった。まるで青血障害患者の、存在全てを否定するようだった。


「…………花、……………………じゃ、ねえ?」


 うつ伏せに倒れていた死体の顔を見て、銀は呟く。

 確かに背格好は似ていたが、それは花ではない、全くの別人だった。

 だが銀の胸中に安堵は訪れなかった。

〈青の吸血鬼〉の狂気が、いつ花に降りかからないとも分からない。痛感した事実は変わらない。

 不満を漏らし、誰かに縋っていては駄目だった。葛藤したことにして、自分の無力を大人しく受け入れたふりをして、立ち止まっていては駄目だった。

 守りたいものがあるなら。

 失いたくないものがあるなら。

 自分の手で、その身体で、戦わなければならないのだ。

 無力かどうかは関係ない。やれるか? そんなことは知らない。やるんだ。

 花が幸せに生きるために、その道に降りかかる火の粉は全て払いのけるのだ。

 銀は腕のなかで眠る少女の、恐怖と苦痛に見開かれた瞳を閉じてやる。立ち上がり、砕けんばかりに奥歯を噛み締めた。圧力で歯茎から血が流れ、口の端から伝う。

 その双眸には、もう迷いの一片さえなくなっていた。

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