02

 やがて冬は過ぎ去り、春が芽吹き、巧は解薬士としての新たな生活を始めていった。

 一方の銀は既に三年時点で留年が決まっており、変わらず学生のままだった。一個下の後輩たちは就活を始めていたが、銀は就活どころか大学さえもろくに行かず、大学近くの廃区に入り浸っていた。

 特に何かをするわけでもない。酒を飲んだり賭け事ギャンブルをしたり。時折、アンダーグラウンドの決闘場に顔を出し、馴染みの顔と一緒に小突き合いをする。飽きればまた酒を飲み、太陽が昇るころに家に帰った。

 昔は違った。銀はいつだって真っ当にではなかったが、怠惰ではなかった。

 大学の学びでは所詮、得られるものは教科書的な延長線上にある正攻法の域を出ない。だが銀にとって手段が何であるかは二の次で、花の青血障害の寛解という結果のみが重要だった。だから銀は巧にはできない方法で、その治療法を模索し続けた。

 正攻法は巧が突き進む。ならばもしかしたらその役に立つかもしれない何かを、たとえ悪徳を積み重ねることになっても掴むのが自分の役目だと、銀は自負していた。

 だがそれはもう失われた。

 巧はいつの間にか異なる選択をし、銀の歩めない正しい道を進んでいった。

 銀にはこの底知れぬ虚無をどう埋めればいいのかが分からなかった。

 ただ時間だけが過ぎた。

 いつまで続くのか分からない虚無が延々と流れ、穏やかだった風はいつしか熱を孕む。

 行き交う人々は茹るような暑さに喘ぎながらも、ここではない何処かを目指して道を行き交う。中空に浮かんでいるホログラムのなかで、ニュースキャスターが記録的な暑さであることを、いかにも涼しげな顔で告げている。


「ったく、まだ六月だぞボケが」


 路傍に座り込み、アイスサプリメントを嚥下した銀が悪態を吐く。それは誰に聞き届けられることもなく、都市の雑踏のなかに揉まれて消える。

 銀は立ち上がり歩き出す。踏み出して早々、向かってきた女と肩がぶつかる。銀は力なくよろめいた。女は小さく頭を下げて何もなかったように歩き去っていく。

 その後も、銀は幾度となく人にぶつかった。別に道が混んでいるわけではない。だが行き交う人の流れに馴染むことができなかった。やがて取り残されるように銀の足が止まる。

 彼らには当然のようにある目的地が銀にはなかった。かつてあらゆる手を尽くして望んでいた道は現実によって断たれたのだ。銀は英雄でも天才でもなければ誰かの救世主でもない。進むべき道を失い、ただ都市を彷徨うだけの亡霊だった。

 再び歩き出す。靴底が寂しげにアスファルトを擦る。

 ニュースは天気予報を終え、今週世間を賑わせた話題の紹介へと移っている。人気女優の結婚報道に一流スポーツ選手の引退宣言。どこかの田舎町で起きた誘拐事件の続報に、政治家のスキャンダル。どれもこれも銀の横を素通りしていく。

 とにかく暑い。銀はハーフパンツのポケットからアイスサプリメントの入ったケースを取り出す。中身は空だった。まるで許しを請うように晴天を仰ぐ。


『……続いて、次のニュースです。先月から立て続けに起きている〈青の吸血鬼事件〉に――』


 はたと足が止まる。

 今度は行先を見失ったからではない。靄がかかっていた意識を明確にニュースのホログラムへと向ける。


『これで〈青の吸血鬼〉に関連する事件は今月に入って既に二件目。今年の春から数えると合計で九件にも上ります。事件の早期解決に向け、〈リンドウ・アークス〉、警視庁はコードαを発令し、解薬士を動員しての捜査を行っていますが未だ明確な手掛かりは掴めていない模様です。……コメンテーターの石島さん、犯人の目的は一体何なんでしょうか……』


 銀は靴底で地面を蹴った。続く大きな舌打ちに通行人たちが冷ややかな視線を向ける。

〈青の吸血鬼事件〉。その名の通り被害者の血を抜く殺人鬼の事件だ。春に第一七区の廃区で遺体が発見されたのを皮切りに、既に九人もの被害者が出ている。〈青の吸血鬼〉は《東都》設立以降、未曽有の連続殺人犯であると言えたが、世間がそれほど大きく騒ぎ立てないのは、被害者全員が青血障害を患っているからだ。ネットの匿名掲示板なんかでは〈青の吸血鬼〉の行いを英雄視する見方さえ出てきている。

 青血障害は震災期における伝染病の後遺症だ。青血障害そのものに感染力は皆無だが、清潔という美徳を何よりも重んじる医薬至上社会において、青血障害患者は哀れむべき隣人ではなく、遠ざけるべき不穏分子に他ならない。表立った迫害などはないものの、偏見や間接的な差別はしっかりとこの社会にも残っている。


「ったく解毒屋どもは何やってんだよ」


 ニュースキャスターが淡々と読み上げた内容に気を揉んでいるのは、おそらく行き交う人々のなかで銀くらいのものだろう。

 銀はずっと青血障害を克服したいと願って勉強してきたのだ。それがもうの手では叶わないとしても、青血障害患者が偏見を受ける社会など断じて許せない。まして青血障害だからという理由で命を奪われる理不尽など存在していいはずがない。彼らは保菌者キャリアでも大感染パンデミックの温床でもなく、純粋な被害者なのだ。

 もちろんこれは銀の社会性から生まれる義憤ではない。愛する少女が患う困難だからこそ、世間も〈青の吸血鬼〉も許せないのだ。だからこれはどこまでも個人的な感情だった。

 行き場のない苛立ちを抱えたまま雑踏を抜ける。人混みが忽然と開けるとすぐそこには簡素なフェンスで仕切られた区画が見えてくる。

 廃区。復興から切り捨てられた都市の暗部。目覚ましく発展し、移り変わっていく医薬至上社会に包摂されえない者たちが集う必要悪としての廃墟の街。

 銀は傾いたフェンスを押しのけて廃区内へと足を踏み入れる。

 廃区と言えば埃っぽく、粗悪な酒と暴力、そして非認可薬物デザイナーズドラッグが蔓延しているイメージが付きまとうが、銀の暮らす〝梟の巣穴オウルズ・ホウル〟は多少寂れこそするものの、外観は普通の街と相違ない。

 何でもここは《東都》設立当初、反《リンドウ》の旗印であった自然主義――薬などの化学物質を体内に取り込むことを良しとしない思想を持った知識人たちによって《リンドウ・アークス》の主導する復興に対抗すべくつくられた廃区らしい。最終的に暴動にまで発展した自然主義の運動はきれいさっぱり鎮圧され、今となっては過去の遺物にすぎないが、〝梟の巣穴オウルズ・ホウルには他の廃区と異なりどこかインテリ然とした雰囲気が漂っている。

 銀は大通りを横切り細い路地へ。小ぎれいな身なりをした髭面の男に声をかけられるが、どうせ効果のよく分からない非認可薬物デザイナーズドラッグを売りつけられるだけなので無視をする。街の由来が何であれ、ここが所詮廃区であることに変わりはない。

 しばらく歩くと整然とした雰囲気は薄れ、継ぎ接ぎだらけになった廃区らしい街並みが散見されるようになる。銀はどうやって震災を乗り越えたのか分からない古い木造建築の前で足を止める。

 女部田青果店。傾いた看板には掠れた文字でそう書かれている。銀の実家である。

 銀は滑りの悪い引き戸を強引に開ける。案の定だが、客は誰一人していない。それどころか青果店のくせに野菜や果物の並ぶ棚は隙間だらけ。代わりに缶詰や合成食品がちらほらと並んでいる。


「……おや、銀坊。帰ったのかい」


 店の奥から声。隅に置かれた丸椅子に背の丸まった老婆が座っている。白髪だらけの髪を掻きながら、緩慢な動作で銀に視線を向ける。


「おう、ただいま。だがな、ばあちゃん、俺を銀坊って呼ぶの止めろ」

「親からもらった名前をあんまり無碍にするもんじゃないよ」

「いいんだよ。もらったらもう俺のもんだろうが」


 銀は二階へ上がる。階段を上りかけて、何かを思い出したように祖母に呼び止められる。


「銀坊、そう言えばお客さんが来てるよ」

「客?」


 銀は聞き返したが、祖母はそれ以上何も言わなかった。またいつものように店番をしながら昼寝でも始めたのかもしれない。

 階段を上がりながら、自分を訪ねてきそうな人間を思い浮かべてみる。

 巧は忙しいだろうし、卒業してから連絡もまともに取っていない。他にも決闘場で知り合った輩が数人思い浮かんだが、そういう手合いが行儀よく二階の銀の部屋で帰りを待っているはずもない。

 結局、答えを思いつくより先に部屋に着いた。そして前衛芸術さながらに布団が引っくり返っているベッドの上に座る少女を見つけて言葉を失う。


「な、へ、はぁ?」

「……やほ、女部田。おかえり」


 頭の高い位置で左右に結んだ紺青の髪。閉じ気味になった眠たそうな双眸。見紛うはずもなく、その少女は巧の妹、犬飼花いぬかいはなだった。

 花はベッドから腰を上げ、てきとうに胸のリボンを整える。そして見せびらかすようにプリーツの入ったスカートを広げる。


「なんだよ?」


 久しぶりの再会と突然の奇行に、銀は部屋に入ることさえせずに言う。


「制服」

「んなのは見りゃ分かる」

「見せようと思って。春から、中学生になった」


 花の真っ直ぐな瞳に、銀が抱いていた苛立ちも気がかりも驚きも溶けるようになくなっていく。


「そういやそうだったな」


 銀は溜息を吐くように言って部屋へ入り、扉のすぐ横にある椅子に腰を下ろした。


「感想は?」

「ちょっとスカート短すぎねえか? そんなんだと男子にパンツ覗かれんぞ」

「最低」


 ぐさりと刺さる刃物よりも鋭い一撃。だが花は尚も感想を求めて銀を見つめている。これは答えないと終わらない奴だ、と銀は理解する。


「んだ、まあ、その、いいんじゃねえの」

「ん」


 花は満足気に口元を歪め、再びベッドに腰を下ろした。

 二人の間に沈黙が降りる。

 久しぶりに会ったからこそ、銀は何を話すべきかが分からない。花はベッドに座りながら窓の外を眺めている。花は少しだけ大人びた表情に、銀の胸は鈍く痛む。

 こうしていると花はどこにでもいる普通の女の子だ。ふと油断すれば死んでしまうような病気を患っているようには見えない。だがきっと今この瞬間も彼女の身体は青い血に侵され、その愛しくも儚い命は病魔に蝕まれているのだ。

 そのどうしようもない現実を突き付けるように、沈黙を破ってアラームが鳴る。

 花は端末のアラームを止め、ベッドに投げ出したスクールバッグから銀色のケースを取り出す。中には無針の注射器が収められている。


「薬の時間、だから」


 銀がぼうっと見ていると、花が気まずそうに言う。銀は何も返せない。

 花はまともに小学校に通うことができなかった。花が学校に行けば、青血障害を理由に生徒たちから遠ざけられ、親からは苦情が入った。加えて教師さえも助けてはくれず、腫物に触るように差別をした。自分を汚れた空気のように扱う学校に、花は自然と行かなくなった。

 世間の目が変わっていない以上、花を取り巻く状況にも変化はないのだろう。

 そして年齢を経るとともに《東都》の状況と自分の病を認識するようになった少女は、自らの病を、あるいは病を患う自分の存在を、忌むべきものだと思うようになった。

 花は制服の袖を捲り、細く白い腕に注射器を当てる。空気の抜ける音とともに薬液が注入される。花の顔が僅かに苦痛に歪み、注射器が腕から離れる。花は慌ただしく注射器をバッグへと仕舞いこむ。


「うち、そろそろ行くね」


 花がバッグを抱えて立ち上がる。青血障害のせいで走るなどの運動ができない花の腕を、銀が引き留めるために掴むのは簡単だった。


「気にすんな。ここにいろ」

「…………っ」


 だが花は銀の腕を振り解き、可能な限りの早歩きで階段を下りていった。

 部屋には銀だけが取り残された。


「……くそっ」


 吐き出された感情が消えることはなく、向かうべき行先を失った銀のようにいつまでも部屋に漂っていた。

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