Over Dose《Another Orbit》

やらずの

Silver’s Promise

01

女部田銀おなぶたぎんは電車の扉が開くや否や、他の乗客を押しのけて降りた。吐く息が真っ白だった。階段を駆け上がり、荒々しく改札を抜ける。途中、スーツ姿の男とぶつかったが気にも留めなかった。

 銀が久しぶりにやってきた青田学院大学と駅を隔てる交差点は不運にも赤信号で、試験的に投影されているホログラムを突っ切って自動運転の車が行き交っている。

 ここ《東都》は南関東一帯を襲った巨大な震災を経て、今から六年前――二〇五四年に設立された特別復興指定都市である。

 未曽有の災害と副次的な伝染病の蔓延で大きな傷を負ったかつての東京は、《リンドウ・アークス》という医療産業複合体の事実上の企業城下町となることで隆盛を取り戻した。もちろん復興は終わってなどいない。だが人々の生活は格段に、震災以前を上回る水準で豊かになったことは言うまでもない。

 都市を彩るホログラムや事故率の大幅低下をもたらす自動運転の管制システムなどはその恩恵のうちの一つだ。


「くそっ」


 周囲の学生が怪訝な目を向けるのさえ関係なかった。普段なら三度見して声を掛けるか迷うだろう美女が隣りにいたが、それすらも目には入らなかった。数分で変わるはずの赤信号は、永遠に等しい体感時間をもって銀の歩みを堰き止めていた。

 やがて信号が赤から青に変わる。同時、物凄い勢いで駆け出す。

 大学構内へと飛び込み、五号館と看板の下がる校舎の階段を駆け上がる。もちろん〝走るな〟という注意書きは目に入らない。曲がり角で白衣を着た学生とぶつかった。体格のいい銀に突進されて学生は吹っ飛び、抱えていたプリントが廊下に散らばった。銀は盛大な舌打ちだけして振り返りもせずに走る。

 目的の扉が見えてくる。〝小鷹研〟とホワイトボードに無駄にデコレーションされた文字が書かれていた。

 扉を壊すのではないかという勢いでぶち開ける。入るや否や、扉が蹴立てた轟音を掻き消す銀の怒声が響いた。


「おいこら巧ぃっ! どぉぉおおおおいうことなんだああああっ!」


 幸い、研究室はがらがらだった。危険な物質を多く取り扱うここで、もし誰かが薬品を混ぜたりしていれば飛び上がって大惨事になったに違いない。

 独りソファに腰かけて本を読んでいた青年が驚く素振りもなく、静かに読んでいたページに栞を挟んで顔を上げる。


「やあ、銀。久しぶりにここで会った気がするね。どうしたの、そんな慌てて」


 青年は微笑んで本を置いた。

 犬飼巧いぬかいたくみ。清潔感のある黒髪に、どことなく優しげな中世的な顔立ち。下唇に添えられた品の良いほくろが少年のような彼の表情に色気を増す。着ている開襟のシャツに濃紺のスラックスはそれぞれ几帳面にアイロンを掛けられていて皺一つなく、その性格が窺い知れた。

 巧は銀にとって唯一の親友であり、そして銀が起こす問題をなだめてくれる保護者でもある。そして何より、銀の初恋の相手、犬飼花いぬかいはなの実兄である。

 そんな巧に対し、やはり銀はどこまでも粗暴だった。


「やあ、でもねえし、どうしたの、でもねえっ! 一体何考えてんだお前ぇっ!」


 銀は鼻息荒くソファへと進み、巧の胸座を掴み上げた。決して華奢ではない巧の身体がソファから少しだけ浮き上がる。

 しかしながら、名は体を為すとはよく言う通りに銀色に髪を染めて生まれつきの大きな身体で凄む銀に、巧は慣れているのか全く動じない。


「なになになに。全く事情が呑み込めないって。はい、一から説明して」

「説明も何もあるか馬鹿野郎がっ! お前ぇ、大学院入試受けてねえってのはどういう了見だ? ああっ?」

「何だ、そのことね」


 あまりに平然とした巧の様子に、銀の怒りが沸点を超える。


「そのこと? なあ、お前ぇにとってよ、花ちゃんはその程度だったってことかよっ!」


 銀が拳を握り、躊躇いもせず勢いよく放つ。しかし見た目通りで喧嘩慣れしている銀の一撃はソアの背もたれを打ちつけただけだった。


「落ち着いて。こっちの話も聞こうってば」


 ただ首を傾けるだけで、巧は銀の拳を躱していた。そしてやはり平然とした調子で怒り狂う銀を宥める。巧に調子を狂わされたのか、銀は最後に大声で「くそっ」と毒づいて巧の向かいに大人しく腰かけた。


「聞いてやるよ。だが、聞いて納得できなかったらお前をぶっ飛ばす。いいな?」

「ああ。そのときは返り討ちにするけどどうぞ」


 にこやかな分、巧の凄みは有無を言わせない重圧感がある。

 銀はわざとらしく大きな咳払いをして切り出した。


「んで、何だよ。お前ぇの言い訳は。前途有望な研究者の道を捨ててまで、解毒屋なんかになろうと思ったわけはよ?」

「あ~、そのことね」


 銀は声を潜めるようにシリアスを演じて訊いたのに、巧はあっけらかんと手を叩いて頷く。

 解毒屋――。銀がそう揶揄するのは《東都》のみ存在する解薬士と呼ばれる職業だ。

 震災期に蔓延した様々な伝染病の影響で、安全性を問わない非合法な薬品が大量に流通する結果となった。それらの強力な薬は予期せぬ副作用として人間の遺伝子そのものを変異させるに至り、異形と化した人間による凶悪事件が社会不安を煽った。

 そんな状況で登場したのが他でもない解薬士。自らも特殊調合薬カクテルと呼ばれる薬を用いて超常的な力を手にし、遺伝子変異した過剰摂取者を薬の呪縛から解き放つ都市の守護者。彼らは医薬至上社会の要とも言える存在だった。


「簡単なことだよ。最善の夢じゃなく、最良の現実を選んだんだ」

「……あん?」


 やはり銀にはうまく伝わっていなかったらしい。だが銀はその持ち前の動物的な勘で、巧が妹である花を度外視した選択をしたわけではないと理解する。


「花が患う青血障害は震災期に起こった伝染病の後遺症で、血中のヘモグロビンがヘモシアニンへと変異する障害だ。ヘモシアニンは酸素と結合することで銅イオン由来の青色に変化する。だから青血障害。ヘモシアニンもヘモグロビン同様に酸素と結合し、体内にそれを運搬するわけだが、問題が一つ。ヘモグロビンは一つの鉄原子が一つの酸素分子と結合するんだけれども、ヘモシアニンの銅原子は二つで酸素分子一つと結合する。つまり何が問題かと言うと、ヘモグロビンがヘモシアニンに変異することで体内に運ばれる酸素の量が半分になるなわけだ」

「んなことは知ってる」


 銀は唸る。花が患う青血障害を治したいと思い、無数の専門書を読み漁った。いい医者がいると聞けば可能な限りで赴き、治してくれと懇願し続けてきた。そもそも銀が青田学院大の薬学部に進んだのだって花を治す勉強をしたいと思ったからだ。だからその程度の知識は改めて言われるまでもなく知っている。

 だが巧は説明を続けた。つまり巧の選択の真意を伝えるために、この説明が必要ということだった。


「そういうわけで青血障害は鉄欠乏性貧血や酸素欠乏症を引き起こす。鉄分を摂取してもヘモグロビンが作られる先からヘモシアニンに変わっていくんじゃ意味はないし、外空気ではなく体内の問題だから酸素を吸引する措置を取っても効果は薄い。つまり現状では有効な治療法がない。暫定的な対処法として〈レッドピル〉を常用し、青血障害の症状を抑制するしかない」


 巧は触れなかったが、青血障害を患う花は《東都》から出ることを許されない。表向きの理由は治療に最適な環境が《東都》であるから、とのことだが、実際は得体の知れない後遺症の持ち主を安易に外に出したくないだけだ。

 花を自由にする。それが巧と銀が共に抱える至上命題だった。


「だから巧、それを見つけるんじゃなかったのかよ」

「ああ。そう思っていた。だが僕は天才じゃなかったんだよ。そりゃ、妹の病気を救うために研究の道を進むっていうのは響きがいい。だけど僕がそれをやるんじゃ時間が掛かり過ぎる。ならば別の誰かが道を見出してくれるのを待つ方がいいんじゃないかって」

「だからって何で解毒屋なんか――」

「第一分類に属する薬の優先無償提供が受けられるんだ」


 巧の言葉は銀を黙らせた。その声と表情は悲痛さを帯びていた。

 銀は気づく。巧がこの決断を容易に下しているわけがないのだ。銀にとって花が初恋の人として大事である以上に、巧にとってはこの世に生きる唯一の家族なのだから。

 花はレッドピルを常用しなければ生きてはいられない。だが薬は無償タダではない。青血障害は第一分類、つまり震災期の伝染病として復興支援機構からの補助金が認められる後遺症である。だが両親を含めた親類を震災で失っている巧たちにとって、些細な負担であっても十分な重荷となる。本来ならば薬学の権威である星慶大学や帝城医科大学でも合格できたはずの巧が、銀が努力しては入れる程度の大学に甘んじているのは学費免除の特待生制度のために他ならない。

 巧はずっと花の病気を治すために賢く立ち回り、可能性を広げるために努力してきた。

 その巧が選んだ選択肢ならば、それはきっと最善とはいかなくとも確かに最良なのだろう。

 それにね、と巧は付け加えた。


「あいつももうすぐ中学生だ。それに僕なんかよりずっと賢い。だから自分の存在が僕の足枷なんじゃないかと気に掛けている。もちろんそんなことはない。だけど他でもない僕が花を治したいというエゴは回り回って僕らの負担を大きくし、結果として花を悩ませる。だから銀、お前ももっとやりたいように生きろよ」


 もう銀が口を出す余地はなかった。巧の選択は正しい。作れるかも分からない新薬の開発に賭けるより、堅実に進行を抑制する薬を手に入れる手段を選ぶ。それは現実的で、花を守るための一番の方法に違いない。

 だが銀は、自分でも正体の分からない喪失感に苛まれていた。


「安心しろ、銀。これでも昔っから正義感と身体の強さだけが取り柄だろ? 問題ない。解薬士が使う特殊調合薬カクテルの適性だって悪くない。きっとうまくやるさ」


 そう言って微笑んだ巧の表情があまりに寂しげに思えて、銀は返す言葉を見繕うことができずにいた。

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