第19話 本当の私、本当の僕②

「世界は……元に戻るのかな」

「わからない。あの時計を僕がいじってしまった事実は変わらないし。もしかすると、これ以上時計をいじることがなければ、戻るかもしれないし」

「もしかしたら、その時計を調べれば、湊くんの正体もわかるかも」

 湊は人の考えは読むくせに、自分の考えを読ませてはくれない。思えば、トリとしてあっている時もずっとそうだった。そう、だんだんと思い出してくる。彼はもともとそういう人なのだ。苗がこうなる前から。

 彼はしばらく黙っていたかと思うと、突然に何の脈略もないことを口走った。

「覚えているかな。あなたが生まれてきて、初めて僕と言葉を交わした時のことを」

 苗は、素直に首を横に振った。

「覚えてない」

 彼はくしゃりと顔を歪めて苦笑した。

「そりゃあそうだよね。誰だって赤ん坊の時の記憶なんてないんだし。だから、僕だって自分のことに関しては同じだよ。どこでどうやって生まれたか、自分の誕生は、そこに証人がいない限りはわからない。……証人である僕が、あなたの話をしようか」少し恥ずかしい気持ちもあったが、苗はそろそろと小さく頷いた。そっと、彼の手に自分の手を重ね握る。彼も頷き返し、静かに話をつづけた。「……やっぱり、最初は言葉なんてわかんない、赤ん坊と同じだったよ。あなたが最初にちゃんと言葉として口にしたのは、僕の名前」

「湊……」

「そう。僕にはちゃんと名前があるけどね。研究所の人はどうしても必要な時以外は僕に近づこうともしなくて、誰も呼んではくれないし、そこ以外で人と触れ合うこともなかったから、僕はあなたがそう呼んでくれた時、初めて僕という人間になった気がした。だから、あなたが僕の存在を証明してくれるものにもなった。そしてね、どうして僕があなたの思考だけは読めるのかって……僕がそう作ったからだよ。僕の一部を分け与えたから。だから、あなたは僕でもあると言えるかもしれない。そう思えば、あなたが自分を半分捨てて、僕の元からいなくなったその瞬間、僕だって僕でなくなってしまったということなんだから、世界が捻じれてしまったって仕方なかったよ」

 苗は、握っている手の力を強くした。

「自分で、自分のことを覚えているのはどれくらいからなの」

「記憶が残っている限りでは、養護施設にいた。きっとそうだね、世間としては記憶障害の人と同じ扱いだったんだと思う。でも、そこも僕の居場所にはならなかった。僕が記憶を失ってしまっただけの普通の人間じゃないことをなんとなく施設の人たちも気付き始めて、僕のことを気味悪がって研究機関に売ったんだ。それから、ずっとそこにいた。でも、調べても僕が異常だということしかわからなくて、でも何が異常なのかはわからない。三十年、四十年、五十年……どんどん研究員たちは老いて行くのに、僕は若返っていく。いつしか、少年になっていたよ。みんな研究員だからね、知的欲求には逆らえなくて、あのままじゃ研究のために僕を切り刻もうとしてもおかしくなかった。でもしょうがないよね。僕の正体を知るために、あの研究所に引き渡されたんだから。表からじゃ何もわからないなら、そうするしかない。でも、僕だって黙ってやられるわけにはいかないから。精一杯抵抗して、思いっきり暴れてやった。そしたら、危険な生き物とみなされて、僕を隔離するようになって、誰も近づかなくなったよ。それが僕のすべて」

 暴れてやった、という一言。これはきっと、オブラートに包んで言っているのだろう。そこまでされるということは、刃物を振りかざして暴れるくらいのことはしたに違いない。

「まあ、確かにその通り」

 苗の想像を読んだ湊は、いたずらっぽく笑ってそう言った。笑っていいことなのかどうかはわからないが。

「それから、ずっと一人だったの?」

 ずん、と、心臓に鉛が落とされたような感覚が苗を襲った。気が遠くなるような長い時間、ずっと誰にも会わず閉じ込められていること。それは、切り刻まれることとどちらが酷なことだろうか。

 生きていたって、何のために、自分がこの世に存在して生きているのか、わからなくなってしまうだろう。

「ある日、ある一人の研究員が、僕の部屋にやってきて言ったんだ。どうしてもあと一歩のところで先に進めない研究があって、僕の助言が欲しい、って。実はね、僕は膨大な時間をどうやって過ごしていたかっていうと、ありとあらゆる本をひたすら読んだし、そこで研究していたことも、一通り知っていたんだ。だから、その問いにはすんなり答えられた。むしろ、何でわからないのかがわからなかった」

「……へ、へぇ」

 それは、その人も気を悪くしたのではないか。

 そんな思いが過って、苗は笑ってごまかすしかできなかったが、ちらりとでもそんなことを考えてしまうと、湊には伝わってしまうのだ。

 彼はくすくす笑っている。トリであった時の面影を見せて。

「それどころか、喜んでいたよ」

「おおらかな人だったんだね」

「っていうか、ただの研究馬鹿でしょう。ちっぽけなプライドよりも、自分が知りたいことにたどり着ければ、それが一番の満足であるっていう」

 そうだった。トリだった時は、にこやかな顔をしながらも、辛らつな言葉も時折吐いていた。それに、さっき苗が目を覚ました時も、皮肉の言葉をくれたりもしたのだし。この人は基本的にはそういうところがある人なのかもしれない。

 すっかり忘れていたけれど。

「だから、それがきっかけで僕の頭脳が買われて、今度は人口を増やすための研究員として使われるようになったんだ。都合よく人をあしらったり利用したり、本当に勝手な奴らだって、僕だって呆れたさ。それでも、ただ危険なものとして隔離されているよりは、必要とされているならなんだっていいじゃないか……そんな気持ちが勝ってしまったから。それに、別に、彼にそんな悪意があったわけじゃないのはわかっている。だからこそ、僕は彼のことをただの研究馬鹿、って言うんだ」

 でも、考え方を変えれば、その人が湊に何かきっかけを与えてくれなければ、自分はこの世に生まれてこうしてここにいることもなかったのだと考えると、その人のこともまた、自分の親と言えるのかもしれない、苗はそう思った。

「その人が一度だけ、自分の研究室に僕を連れて行ってくれたことがあった。そこで見つけたんだ。針が逆に進んでいる時計を。こんな時計、ちゃんと時間を指してないんだから意味がないだろうって言ったら……彼は言ったんだ。それは君のためのものだから、君にあげる、って。僕のためのもの。その意味は直ぐにわかったんだ。僕が少しずつ若返っていることと、この時計の針が逆に進んでいることが、ぴったり重なっていることに。だから、これは僕の時間を進めている時計なんだと」

 それはつまり、そんなものを持っていて、そんなことを言ったその人は、湊が何者なのかを知っていたということにはならないか。そして、湊ならば、それをわかっていないわけではあるまい。でも、その人に自分の正体を尋ねることを湊はしなかったから、今も自分のことを知らない。

 何故だろうか。知りたくはないのか。

「それは……怖かったから。僕がこれ以上彼に近づけなくなるのが。彼が僕に告げる話によっては、もう傍にいられなくなる気がして。もしかしたら、僕はあなたのことを彼の代わりのように、ただそこにいてくれる人が欲しかっただけなのかもしれないから……ずっと申し訳ないと思っていたんだ。それでも、僕はあなたに縋るためにこうしてわざわざ呼び戻したりして……本当に馬鹿だと思う。ごめんね」

「これはきっと、どっちが悪いとかじゃなくて……二人とも馬鹿なのよ」

 苗が無理やり笑ってそう言うと、ふっと湊の表情も緩んだ気がした。

「だから……そうだね、本当にあなたに謝りたいなら、僕は僕のことに向き合うべきかもしれない。あなたにそうしろと言っておきながら、自分は自分から目を背けるわけにはいかない」

 それでも、ぽそりと落とされたその声は、力がなく、ふらふらと彷徨っているようだった。やるせなくなるくらいに。

 苗は、ゆっくり頷いた。きっと、その人だって湊にちゃんと自分と向き合ってほしかったから時計を彼に渡したのだろう。

「その人は……今はどこに……」

「もういない」

「え……」

 今度は、湊の方が苗の手を握る力を強くした。

「ただの人間だもの。寿命は来る。僕はその時に、彼の研究室にその時計を置いてきた」

 何と言っていいのかわからない。湊にとってその人がどんな存在だったのか、どんな別れだったのか、何一つ知らないのだから、気軽に何も言えない。

 だけれど、湊の人生において、ずっと心の中を大きく締めている人であることは確かだ。閉じ込められた檻の中から出してくれた人なのだから。

 そんな人を失うこと。それは、苗が湊を失うことと同じではないか。自分は自分を半分捨てて湊のことも忘れてしまったくせに、そんなことを考えるのは身勝手であることもわかっているし、考えたくないことではあるけれど、湊はあえて言葉として口にする。

「僕だって、いつまでこの世にいるのか、それは未知数だよ。明日にはいなくなるかもしれないし、あるいは僕をこの世から消す方法なんてないのかもしれないし。あの時計がいつまで僕を動かし続けてくれるのかもわからない。もし、あったなら……」

 嫌な予感がする。そこで湊が言葉を切ってくれてよかった。その続きは聞きたくない。終わらせる、であっても、終わらせられる、であっても。

「大丈夫。ただ、それなら僕にも終わりがあるって言いたかっただけ。それがちょっと普通の人間と違うだけで。でも、自分で命を絶つことを選んだりはしないくらいには、自分の人生にはまだ未練があるし、研究所の人たちは僕のことを終わらせようなんてしてない。利用価値があるうちはね」

 それは、素直に安心していいとは言えないだろう。

「なんだか、本当に勝手な人たちね」

「彼らに限らず、人間なんてそんなものだよ。だから、人間が人間に嫌気がさして減っていった。それでもどうして、僕たちはこんなに人間というものに憧れているのだろう」

 苗の理由は単純だ。それは、湊が人間に憧れているから。人間の中にいたいと思っていたから。彼がそれほど孤独の中で漂っていたのを、知っていたからではないか。

 またちょっとずつ、苗の中でいろんなものが戻って来る。

 湊が人間になりたいのは、きっと、その孤独を埋めたかったから。

「そうなのかもね」

 ぽそりと、湊は言葉を落とした。心臓がギュッと締め付けられそうになる。結局、居場所というのは自分が自分を認められる場所のことなのだろう。どんなに苗がそばにいようとも、その孤独を決定的には、今のままでは埋められない。湊が自分を認められるようになるには、自分のことを知るしかない。

「ねえ、その時計以外に、その人が残したものって、何かないの?その人の研究室とかに」

「うん……そうだね」

 なんとなく、湊の表情が曇った気がした。苗が思いつくことなど、湊だってとっくに思いついていて、だからこそ、逆に進む時計の針をいじったりしたのだろう。もしかすると、この提案は無意味なのかもしれない。

 あるいは、考えたくはないが、自分の正体を知った時にどうするか……あまりよくない結論を考えているのではないか。自分の命を終わらせようと思っているわけではない、と言っていたけれど。

「大丈夫、そういうことじゃないよ。まだどこかで知ることを怖がってる自分がいるだけ。本当に化け物だったなら、どうすればいいのだろうって。……でも、苗さんが一緒ならいいよ。行こう」

 彼が心を読める人で良かった。本当にそう思ったのは初めてだっただろう。

 苗は頷いた。そのために、きっと自分はまた戻ってきたのかもしれない。そんな風にも思いながら。湊が自分のことを知るための背中を押すために。

「そういえば、研究所ってどこにあるの?」

「誰も知らないところだよ」

 また、人を惑わすような妙な道を通っていくことになるのだろうか。相変わらず、世界はねじ曲がったままで。

 少しばかり苗が警戒していると、彼は面白そうに、にやっと笑った。

「大丈夫、ちゃんと普通に道があってたどり着けるところだよ。確かに、一般的に人目に触れるのを隠すために、わかりにくいところにはあるけどね」

 それは、ここから遠い山奥なのか、それとも、こういう都市部の地下にでもひっそりあるのか、どういう場所なのか、さっぱり見当もつかない。

 勝手に想像できるのは、そこにあるのはいろんな実験のための器材と機械。それが、無機質な白い部屋に置かれている、そんな景色。

 月並みな、乏しい想像力だ。

「私は、研究所のことを何も知らない」

「知らないんじゃないよ。覚えてないんだよ。まだ記憶が完全に戻ってないだけ。だって、あなたはそこで生まれたんだもの。そして、そこで暮らしていたこともある。……でも、行くのはちょっと待って。夜中に忍び込みたいから」

「うん」

 そりゃあ、家探ししようというのに、人がいる時に堂々とは行けまい。そういう単純な理由だと苗は思っていた。

 でも、そんな理由ではないことを、後に知ることになる。

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