第18話 本当の私、本当の僕①

 次に目を開けて、気が付いた時には、苗はベッドの上にいた。でも、毎日寝ていた知っているベッドではない。それなのに、とても居心地が良かった。自分にとても馴染んでいるような。

 窓から射す光の眩しさに目を細める。

 苗はゆっくりと起き上がり、窓の外を見た。向かい側の建物もマンションだ。窓際にいる猫が、見張っているようにじっとこっちを見ているような気がして、苗はパッと目を逸らし、その場から逃げるように部屋を出た。

 間取りが全くわからない。そのはずなのだけれど、勝手知ったる家のように、苗はリビングの場所もわかっていたのではないかと自分で思ってしまうほど、すんなりとそこへたどり着けた。

 そこでは、一人の少年がコーヒーを飲んでいた。そう、湊。彼がここにいることに、不思議と驚きはしなかった。そして、いるのが最初から当たり前にわかっていたかのように、挨拶も普通に交わす。

「おはよう」

「……おはよう」

 でも、その当たり前の感覚と同時に、やはりこの状況が理解できていない自分もいる。だから、それ以上何を言っていいのかわからずに黙っていると、湊は呆れたように溜息をこぼした。

「皮肉だよ。だって、突然倒れるように眠ったから、心配してたんだ。三日間も」

「そ……そう。ごめんね」

「体調が悪いの?」

「そうじゃない……と思う」

 でも、まだ眩暈はするし、どんどん頭は混乱していく。

 やっぱり、どこかで知っている気もするが、ここがどこだかわからない。オーク材のテーブルや椅子、そして戸棚。それに、黒いレザーのソファー。いや、本当に見たことがないわけではないかもしれない。同じように、戸棚やソファーが置いてあったわけではなくて、あの部屋には何もなかったが。

 人狼の襲撃から逃れるために、鏡をすり抜けて行った先。トリの部屋だと言っていたあの場所。ここは、もしかして、あそこと同じ場所ではないのか。

 鏡。苗は鏡を探した。ベランダがある窓の反対側にある壁。同じ場所に、自分があの時すり抜けた鏡を見つけた。

 やっぱり、ここは、あの部屋なのだ。

 しかし、鏡を覗きこんだ時に、目に飛び込んできたものによって、そんな苗のあらゆる思考をどこかへ吹き飛ばされてしまった。

「何……これ……」

 顔のところどころに、毛が生えている。少しくすんだ、緑色の毛。それに、目が、人間のそれではない。白目がない。

「寝ぼけているんだね。変身が中途半端だ」

「変身……」

「そうだよ。まさに、鳥と人の間、って感じ」

 苗はようやく理解した。本来、自分があるように戻っただけなのだと。本当に鳥だったのは、トリじゃなくて苗だ。でも、飲み込んだあの鳥のような、目を奪われる美しく青い姿をしてはいないが。

 だから、鳥を捕まえろ、ということだったのか。

 そして、何もないように見えた鳥を捕まえたあの場所は、このマンションがあった場所だったのだろう。苗はそこに帰って来たのだ。

 こうしなければならなかったはずだ。自分は自分に帰らなくてはいけない。でも、こんな自分の姿を見ていると、涙が知らずに流れて来る。

 やっぱり、人間でいたかったと。まだ未練がましく、どうしようもなくそう思っているのだ。

 気が付くと、いつの間にか苗の正面には湊が立っていた。そして、苗の頬に手を伸ばしてきて、その涙を拭った。

「どうしてそんなに驚いて、悲しむの」

「だって……」

「まさか、自分のことをただの人間だなんて思っていたわけじゃないんでしょう。そんなの探す方が今は大変だよ。もっとも、当の人間たちは何も気付いていないけどね。表向きは、ずっと変わらない人間社会を保とうとしているんだから」

 その説明は、すでにここに来る前に聞いていた。あの時は、苦しさで半分意識が朦朧としていたからそこまでは考えられなかったが、改めてそう聞くと、なんとなく腑に落ちない。

「でも……どうして、そうやって人間の社会を保ったふりをしなきゃいけないの。人間が人間にうんざりして勝手に減っていったのなら、そのまま自然に淘汰されるべきなんじゃないの」

「またその話か……何度しただろうね。……その言い分もわかるよ。でも、自然を壊しながら人間が作ってきた文明を消し去ることは、最早世界を壊すことになりかねない代物になっていたから」

「どうして」

「それは、人間が勘違いしてしまった代償とでも言うべきかね。草花や動物たちまでもコントロールしようとしていたんだから。的確に言うなら……人間であって人間でないものを作ってその文明を保とうとしたのは、人間への皮肉だよ。だから、あなたは僕から出た皮肉」

 湊のもう片方の手も、苗の頬に添えられた。まるで、矢を放ってくるようなその視線から逃がさないようにするみたいに。今彼が苗に突き付けた一つの事実から、目を逸らさせないように。

 すると、苗の口からは自然とこの言葉が出てきた。

「あなたが……その研究者……」

「なんで今更驚くの。そうだよ、あなたは僕が最初に作ったクリーチャー……」

「最初に?」

「まさか、まだ思い出していないの。こうして戻って来たのに、まだ思い出していないままなの。どうしてそんな怯えた顔をするの?」

 じわり、じわり、スポンジが水を吸い込んでいくように、苗の脳が自分の中の記憶をどんどん吸っていく。

 ああ、そうだ、そうなのだ。ひとつひとつを、彼はずっと教えてくれていた。そんな中で、はっきり彼が言わなかったことも、苗はわかってしまったのだ。

 それがわかった時の心のどこかを執拗に締め付けてくる痛みが、蘇ってくる。

「そうだけど……そうだ……それでも……あなたは本当は……」

 ぐっと込み上げてくる泣きたい気持ち。湊のことを思い出してあげられなかった、それをもどかしく思った、あの時に感じたことと似ているかもしれない。

「何?」

「そんなことをして、見せかけの人口を増やしたかったわけじゃないのよね。人を、望んでいたんだ。だから私は……」

 人間になりたかったんだ。この人が本当に望んでいたものに。そうじゃない自分は、どこか出来損ないのような気がしていた。

 苗はようやく、自分が失くしたものの答えを見つけた。

 だからって、この人が作った本当の自分を捨てて、人間であろうと思い込むことが、どこがこの人のためになることだというのだろう。

「ごめん……ごめんなさい」

 謝るようなことじゃないのかもしれない。でも、今はそうする以外にどうしたらいいのかわからない。そっと、湊の小さな手が苗の頭に触れ、三度ほど撫でた。

「僕は異質な存在で、今でも、自分が何者かわからない。誰も知っている者がない。正体不明な存在だからこそ、人工的に人口を増やす研究に駆り出されもした。だから、人口を増やすのに単純に人間の複製を作らずに、人獣を作ったのは、世界への、研究所への、そして自分自身への皮肉。研究所に対しては、純然たる人間とのはっきりした区別のためって言い訳をしているけれど。でも、どこかで思っていたんだ。僕は本当は普通の人間になりたかったんだって。君にそれも話してしまったのがいけなかったかな」

 ずっと、ひたすら射抜くようだった真っ直ぐな湊の目が、ふと、悪戯っぽいものに変わった。とてもよく知っている表情に。

「僕の名前は、鳥越とりごえ湊。だから、あなたを半分は鳥にした」

「鳥越……トリ……トリさん……」

 苗の頭の中で、いろいろなものがつながっていく。だから、トリという人間にあんなに惹かれたのかということも。

「そう、僕はトリなんだ。でも、自分の半分を捨てたあなたに会うのに、『湊』は普通の人間として会いたかった。それでも、あなたにちゃんと思い出してほしいという、矛盾した欲張りな自分がいて。だから、ちょっとズルをした」

「ズル?」

「そう。最初はね、この姿のままで、あなたの親友に近づいて、こっそり遠くから見ていようと思っていたんだ。でも、もうそれだけじゃ駄目だって思って……大人になって、別人のふりをしてあなたに近づいた」

「どうして、そんなことが出来たの。それも、あなたの不思議な力?」

 彼は首を横に振った。

「それを力といっていいのかどうかわからない。ただ、あなたが生まれてからの僕というのが、少年の姿をしていた、それだけで、トリとしての僕は、それ以前の僕」

「どういうこと?」

「ずっと普通に成長して歳を取っていってるかと思っていた。でも、ある日そうじゃないことに気づいたんだ。時計の針が、反対に回っていることを知ってしまったから」

「時計?」

 壁にかかっている時計を慌てて確認すると、普通に右回りに回っている。

「ああ、この家にある時計のことじゃない。研究所にある時計なんだけど、どうやら、僕の時間はその時計に支配されているらしいと……年月が過ぎるごとに、だんだんと青年から少年に戻っていっているのが、わかったから」

「それって……ベンジャミン・バトンみたいなこと?」

 老人として生まれ、赤ん坊として死んでいく、そんな一人の人間の物語を苗は引き合いに出したが、彼はちょっと考えるように首を捻った。やがて、一つ一つ探って考えながら言う。

「うーん……正確にはちょっと違うかもしれない。そういうものでもないと思う。そもそも、僕は自分を知らないから。自分に記憶がある限り、僕は青年だった。そのことからして、自分自身を疑ってみるべきだったのに、不思議なことに、僕はどうして自分が生まれたのかさえ分からなくて」

「記憶喪失?」

「さあ……そうなのかどうかもわからない。どこから来た何なのか、どうしてこんな変な力があって、どうしてこんな変な時間の流れ方をしているのか、何もかもがさっぱりわからない。でも、そのことさえも不思議に思ったことがなかった。その逆に進む時計が僕とリンクしている、それがわかった時に、自分の中に初めて疑問が湧いてきたんだ。だから、思い切ってその時計を少しいじってやった。そしたら、僕は大人の姿にまた戻れた。けれど、それはほんの少し時間を戻すこと……僕の時間という特殊な例でいうならば、進めること、ということになるのかもしれないけど……そういうことなので、トリでいられるのは期限付きなんだ。また、巻き戻した分の時間が過ぎてしまえば、僕は元の子供の姿に戻る。だから、僕はトリとしてあなたに会う度にそれを繰り返した」

「あ……もしかして、お茶会の時に私を連れに来たのにどこかへ行ってしまって、湊くんとして現れたのも……人形師の家から急にいなくなって、私がマンホールから出た時にトリさんじゃなくて湊くんがいたのも……」

「そう、時間切れだったんだ」

 そんな理由だったのか。苗の中に、安堵と一緒に、じんわりと嬉しさが湧いてきた。

「良かった……」

 気が付けば口に出していた言葉。それなのに。

「それは良かった……のかな」

 どうして、そこで心中複雑、というような顔をするのだろうか。苗にはわからなかったが、彼は小さな声でこう続けた。

「あなたはこうして戻ってきてくれたし、もうこんなことする必要もないのかなって。トリは……これで終わり」

「え……」

「残念?彼のことが好きだった?」

「そう……なのかもしれないけれど、でもそれはきっと……」

 彼があなただったから。

 そう口に出しては言えなかった。すっかり自分の半分を捨て去ってしまっていた苗がそれを言うのは、なんとなく卑怯に思えたのだ。それがきっと、さっき湊が複雑そうな顔をした理由のように思えて。

 不自然に切れた苗の言葉をそれ以上追及するわけでもなく、湊は話を続けた。きっと、言葉にしなくても苗が思ったことが伝わってしまったからかもしれないが。

「あなたとトリとして初めて会った時に、あのウサギがいたでしょう」

「うん……人狼に食べられそうになっていたから、助けたんだよね」

「確かにそれはそうなんだけど、その時に僕たちは取引をした」

「取引?」

「そう。助ける代わりに、あなたに近づくために手を貸してくれって。それには彼も大いに賛成してくれたよ。彼は僕に言ってきたんだ。責任を取れって」

「責任?」

「そう、世界をこんな風にしちゃった責任」

「それは……狼人間とウサギ人間が混在している世界を作ってしまったこと?」

「まあ、それはそうなんだけど、今までそういった人獣たちも均衡を保ってやって来たのに、こんなことが起こってしまうのは……世界が捻じれて真理を失ってしまったからなんだって。だから、その責任を取れって」

 苗は、トリと出会ってからこれまでの記憶を、一つずつ探ってみた。本当も嘘も正しいも誤りもない。絶対的な真理など存在しない。だから、理屈の通らないめちゃくちゃなことが起こるし、自分が道を作るしかない。

「世界がそうなったのは……あなたが……」

 彼は静かに頷いた。

「そう。僕のせい。僕が、自分の時計を捻じ曲げてしまったから。それで、世界が捻じれてしまったんだ。僕にとってはあの時計こそが自然の摂理であり、それを無理やり捻じ曲げるようなことをしたからね」

「なるほど」

「でも、そもそもあなたが……あなたが僕を忘れてしまったからなんだ。……なんとか、あなたに思い出してほしかったこと、ただそれだけだった。あなたの喪失で僕の中に空いた穴は、自分で思っているよりもずっと大きかったことを知ったから」

「それって、どういう意味?」

 湊は急に口を噤んでしまった。どことなく、空気が気まずくなる。はっきりとはわからないが、湊の動揺が苗にも伝染してきているからだろうか。

 彼は、ぼそぼそと口の中で呟くように言った。

「あのウサギは、きっとそれを見抜いていた。だから、僕に責任を取れというのは、あなたを取り戻せ、そういうことだって気付いたんだ。僕は、そのために自分の時計を狂わせてしまったんだから。何も知らずに、それで世界を歪ませてしまったんだから。それからは、あなたには何としても、戻ってきてもらわなければいけない、そう目的が切り替わった」

 苗から逸らされていた湊の目。それと再びしっかり向き合うために、苗はじっと彼を見据えた。彼は戸惑ったように目を逸らしたけれど、そうさせないように、苗はしっかり彼の顔を両手で掴んだ。

 伝われ。ただ、心に思っていることを読まれるだけじゃなくて、ちゃんと言葉で。

「私は……ただ、あなたがそこにいたいっていう場所に、そういうものになりたくて……だからこそ、人間でいたいと思ったの。人として、あなたがそこにいられるように、私もちゃんと人間になりたかった。でも……やっぱりそうじゃない。それじゃ駄目だったんだって……わかったんだよ。あなたが、あの人形の女の子でそれを教えてくれたんじゃない」

「うん、知ってる」

 苗を見つめたままの彼は、少し困ったように苦笑した。

「そうよね、あなたは人の心が読めるんだから」

「僕はあなたのそういう気持ちを知っただけで、嬉しさが血と一緒に体中を巡って行って、それだけで充分だと思ったのに、あなたはそれなのにどうしてか僕を置いて行くような道をたどってしまった。あのお茶会へ誘ったのは、あの人形の少女に会ってもらって、あなたにそのことをちゃんと思い出してほしかったからなんだ。……でも、僕だってあなたとそう変わらないのかもしれない。あなたは人間としての僕の居場所を作ってくれようとしてのことだったから、僕もあなたの前では人間でいたかった。だから、自分を偽ろうとしてトリになったのだから」

 心が読めても、すれ違ってこんがらがることがある。トリがそう言っていたのを思い出した。どんな手を尽くしても、完璧な意思疎通なんて、違う生き物である以上無理なのかもしれない。だから、面倒な回り道をしてしまう。

 人間は、それを面倒だと投げ出そうとして、どんどん減っていったのだとしても、湊も苗も、それがこうして繋がった瞬間の喜びを知っている。

 だから、人間でいたいと思った。

 それが結果、世界を捻じ曲げてしまうようなことにまでなってしまったとしても。

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