第17話 青い鳥

 トリは言っていた。苗はここまでの道を知っているはずだと。しかし、こんな扉の存在を知らない。もしかすると、それもまた、自分がどこかへ捨ててしまった自分自身とつながりがあるのだろうか。

「その疑問は、きっとこの扉をくぐればわかることもあるかもしれない」苗の心を遠慮なく読んでいたトリがそう呟いた。「ほら、小さくした意味だってちゃんと納得できたでしょう。そのサイズじゃないと、ここを抜けられない」

 なるほど、それで小さくされたのは納得できた。しかし、わからないことがまだ一つ。

「この扉をくぐって、私は何をするんですか」

「この扉の向こうにいる鳥を捕まえてください。まあ、実を言うと、鳥籠が本当に必要だったのは、そのためなんですけどね。この扉がこんなに小さいのは、普通の人間の大きさでは立ち入れないようにするためです」

 鳥を捕まえる。さっき、危うく鳥に捕まえられそうになった身としては、若干腰が引けてしまう。

「自分でやればいいじゃないですか」

「いや、あなたがやらなければ意味がないんです」

「何故?」

「あなたのことだから」

「私のこと?」

 それは、苗が本当の自分のことを思い出すというのに必要なことなのだろうか。だとすると、ますます及び腰になってしまう自分がいる。

 本当のことを知ることが出来ないもどかしさと、怖さ。その二つが、今苗の中で戦ってまだ迷いを生んでいる。

 そんな彼女に言い聞かせるように、深く落ち着いた声でトリは言った。

「僕は、ただあなたを混乱に陥れるためにいるわけじゃない。あなたが然るべきところへ行けるように、案内するためにいるんです。実は、ちょっと姑息な仕掛けをしてまであなたに近づこうとしたのもそのためです。そして、今のあなたにはその準備が整っている」

「あるべきところへ?」

「ええ。心配することはありません。雀くらいの大きさの小鳥です。きっと、たぶんね」

「多分って」

「僕だってそれを見たことはないからわかりませんが、きっと、とても可愛らしくて美しい鳥だと思いますよ」

 そうは言っても、今の苗がそれくらいの大きさしかないのだから、自分と同じくらいの大きさのものを捕まえなければいけないのは、なかなか骨が折れるのではないか。

 不安な要素はいくらでもある。

 ちらりとトリに視線を送ると、彼は微笑んだ。

「でも、その大きさでいるのはここを通り抜ける時だけでいいですよ。中に入ったら、これを食べてください。そうすれば元の大きさに戻れます」

 トリはポケットからチーズを一かけら取り出して、苗に渡してきた。何の変哲もない普通のチーズに見えるが、本当にそんな魔法のようなことが起きるのだろうか。

「それは鳥をおびき寄せるのにも使える」

「鳥はチーズなんて食べないと思いますけど」

「さっきのカラスは苗さんを食べようとしていたじゃないですか」

「ああ……絶対美味しくなんてないのに」

「でも、味覚は人それぞれですからねぇ」

「どういう意味ですか、それ……」

 トリはただにこにこと笑っているだけで、言葉を濁した。

「何はともあれ、行ってみたらいいんです」

 納得はいかないけれど、これ以上無駄な会話で時間を費やしていてもしょうがない。

「そ……そうですね」

 ごくり、と固唾を飲んで、苗は改めて扉と対峙した。ノブに手をかける。思ったよりも扉は重い。ぎぎぎぎぃ、と、悲鳴のような音を立てて、少しずつ開いていく。まるでそれは、蓋をした自分自身への扉を開けるようで、苗の全身は緊張で堅くなった。

 トリは、小さな苗を弾き飛ばさないように気を付けながら、そっと、指先で彼女の背中を押した。

「行ってらっしゃい」

「はい」

 苗が扉を潜り抜けたのを見届けたトリは、その扉の中に、ギリギリの大きさの鳥籠を推し込めるようにして入れた。

 そこは、目に映る範囲には何もない、風で砂埃が舞っているだけの場所だった。草木も人も動物も建物も、本当に何もない。

「鳥……なんて、どこにいるだろう」

 もしもここにいるならば、どこにも隠れる場所なんてないのだから、すぐにわかるはずだろうが、どこにも何かが見当たらない。そして、この場所がどれほどの広さがあるのかもわからない。

 それに、鳥を見つけた時に捕まえるにしても、この大きさでは埒が明かない。

 苗は、トリからもらった両手で持ってちょうどいいくらいのチーズのかけらを、一口かじった。どんどんと、地面が遠くなっていく。もうどのくらいが本来の視界の高さであったかわからなくなってしまうが、とりあえず大きくなったことだけは確実だ。掌の上のチーズも、すっかり指先くらいの大きさになっている。

 比べられるものは、捕まえた鳥を入れるための鳥籠。それを手に取った時の大きさからして、きっと苗は元の大きさに戻れたに違いないと、少しほっとした。

 さて、一体どこへ向かっていったらいいのだろう。

 闇雲に探しても、きっと見つからない。もう、わかるのだ。見つけるのじゃない、呼ぶのだということを。そう、人形師の家で、目に見えないあの存在を見つけようとした時と同じように。

 苗は、自分の手の中にあるチーズを見つめた。

「このチーズの残り……これが鳥をおびき寄せるのに使える、って言っていたよね」

 でも、チーズだけでも駄目。苗がその鳥を呼ぶこと。頭の中に思い描いてみる。

 鳥って、どんな鳥だろう。幸せを運ぶという青い鳥。その鳥が一体どういうものなのか一切聞いてはいないのに、その鳥をそんなふうに想像した。

 きっと、可愛らしくて美しい鳥だと、トリが言っていたからかもしれない。

 いいものか、悪いものか、幸運か、不運か。そんなことさえもわからないはずなのに。知っていることは、スズメほどの大きさの小さな鳥であるということ。でも、それは何よりも清らかな声で歌うように鳴き、幸せを届けてくれる。

 それは、良い様に考え過ぎだろうか。でも、どうせ捕まえるならば、そういう素敵なものを捕まえるのだと思いたいではないか。

 そう、訪れてほしいものが来てくれる。そんな想像をする方がいい。この場合、その想像というものが、案外馬鹿には出来ないような気がするのだ。恐ろしいものを想像すれば、その通り恐ろしいものがやってくるのだろうし、美しい幸福の鳥だと想像すれば、それがやってくる。

 確信はないが、なんとなくそんな予感はする。

 すると、今までただ空には月と星が雲に邪魔もされず、何の遠慮もなく光り輝いているだけだったが、そこに何かの影が不意に現れた。

 どんどんその影はこちらへ近づいて来る。やがて、その姿がはっきりしてくるほど近づくと、苗は思わず声を上げていた。

 一羽の小さな鳥。

「あっ!」

 暗闇の中でもはっきり見えた。月が歓迎するようにその鳥を照らしていたから。

 本当に、空の青よりも、南の島の海の青よりも青い、自然の中にあるもので今まで目にしてきた中で、一番美しい青。

 苗はすかさずチーズを乗せた手を空に向かってかざした。すると、その鳥は、すいっと優雅な飛行で苗の手の上に降り立ち、チーズを啄み始めた。

 鳥がそのチーズに夢中になっている間に、逃げ出さないようにそっとその手を移動させ、苗は鳥籠の扉を開けた。

 しかし、そこまで心配する必要はなかった。鳥は大人しくそのまま鳥籠の中に入ってくれたのだ。まるで、苗のところに来るべくして来たのだから、逃げる理由などない。そう言っているかのように。

 まあ、それはあまりに都合よく考えすぎかもしれないが。

 苗はしばらくその鳥に見惚れていた。そういう都合のいい考えが浮かんできてしまうの無理はないくらいに、奇跡が舞い込んできたような感覚に、目が奪われてしまう。

 いつまでそうしていただろうか。ふとした瞬間に我に返った時に、苗はぶんぶんと頭を振って、自分の目を覚まさせた。

「いけない……戻らなきゃ。あ……でも、どうやってあの扉から出ればいいんだろう」

 苗は、鳥籠を覗きこみ、思わずその青い鳥に問いかけてしまった。

「ねえ、どうすればいいと思う?」

 当然、返事など期待してはいなかった。だが、鳥が最後のチーズのかけらを啄んだ後に、声がしたのだ。あの鳴き声と同じ声だと確実にわかる声が。

「何で、彼はあなたに元の大きさに戻れ、って言ったんだと思う?」

「……えっ」

 苗は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。いまさら、言葉を喋る動物に驚くこともあるまいが、しかし、まさか、この鳥の美しい声が、人間の言葉を紡ぐとは思ってもいなかったのだ。

 動揺してしまって、苗は鳥の質問に対して答えることが出来なかった。それでも、青い鳥は、怒るでも苛立つでもなく、至極落ち着いた声で苗を諭すように言うのだ。

「考えてみて。私を捕まえるためだけに戻るのは、あまり建設的な考えではないでしょう。私はあなたが呼べばやって来るし、逃げもしないのだから」

「まあ、そうかも……」

 答えにたどり着けるのを、鳥は待ってくれていたのだろうか。しばらく間があった。だが、苗にはわからない。トリが苗に突き付けることは、いつだって不条理なのだ。真っ直ぐに考えても理解できることじゃないことを、どうしてそんな瞬時に判断できるというのだ。

 戸惑う苗に、鳥はそっと囁くように言った。それが、答えなのかどうかもわからないが。

「私を、食べて」

「……な、何を……」

 苗は自分の耳を疑った。そりゃあ、生きるために毎日何かしらの生き物の肉を食べて生きてはいる。けれど、それらの生き物たちだって、本当は食べられたくなんかなかったはずだ。人間に食べられるために自分が生まれてきただなんて、そんなことを思ってもいないだろうし、思いたくもないだろう。

 それなのに、自分を食べろ、と自ら申し出る生き物を目の前にして、どんな反応をしていいのかわからないし、そう言われても、わかりました、と二つ返事が出来るわけがない。

 それでも鳥は歌うように繰り返す。

「だから、私を食べるの。あなたはそのために私を捕まえた」

「食べるって……どうやって……」

「お好きにどうぞ。焼いても煮てもいいけど……そんなこと、ここじゃ出来ないでしょう」

「そ……そうね」

「それなら、丸飲みにするしかないわね」

 よりにもよって、丸飲み。心理的な抵抗もあるが、物理的にも不可能ではないか。いくらスズメほどの大きさの小さな鳥と言っても、それをまるまま飲み込むなど、喉を通って行くわけがないだろう。自分は蛇ではないのだし。いや、それでも、小さいままよりは、今の大きさの方が飲み込める見込みは大きくなるが。

 ……だからなのか。

 一つ、ここでピースが填まり合点が行った。

「ま……まさか、ここで元の大きさに戻れ、って言われたのは、そのため?」鳥は、頷いたり、そうよ、と返事をする代わりに、チチチ、と数回小さく鳥らしい声で鳴いた。苗はそれを肯定と受け取って、問うた。「あなたはそれでいいの?」

「いいも悪いもないわ。本来のあるべき姿に戻るだけ」

「それって……じゃあ、あなたはもともと私の中にいたもの……そういうことなの?」

 この鳥は、自分の一部なのか。自分というものを勘違いしているのは、この鳥を自分から捨ててしまったからなのか。だからこそ、苗が思い描いた姿でそこにいるのだろうか。でも、そんな理屈をあれこれ考えていてもしょうがない。

「そこまで親切に教えてはあげない。説明するよりも、私を飲み込めばわかること」

 四の五の言わずに、飲み込め。そういうことなのだろう。

 苗は鳥籠の扉に手をかけた。扉が開かれると、鳥は自ら苗の手の中に飛び込んできた。暖かい。とくとくと血が巡り、脈打っている。生きている感触。これを飲み込むなんて、出来るのだろうか。

 でも、やるしかない。

 口をめいいっぱい開けて、押し込むように鳥を入れた。少し乱暴で申し訳ないとも思ったが、そうでもしないと入らなかったのだ。

 そして、口の中で鳥が暴れて苦しむのを想像していた。

 だが。

 どういうことなのだろう。口の中にその鳥を入れたのに、その口の中で身動きをする様子もなければ、羽毛の感触もない。そう、何かが口の中を、そして喉を通り過ぎて行くのは感じた。だが、それは物理的な感触とはまた違う。

 急激に、腹の芯が熱くなっていって、腹の底の方にすとんと落ちて行くのがわかる。その時に、また、理屈じゃなくて直感とも言うべきもので察した。脳が、理解した瞬間だった。自分が失くしたものが戻ってきたことを。

 嫌だ……。気持ち悪い……。

 同時に拒絶がそこに生まれ、飲み込んだはずのものがせり上がってきて、吐き出しそうになる。たまらず、苗は地面の上に倒れ、のたうち回った。

 自分が捨てたかったものを、どうしてまた受け入れなければいけないのか。

 でも、自分は自分であることを捨てることは出来ない。それも、ちゃんと飲み干して認めなければいけない。

 そう、苗は人間じゃない。それでも、人間でいたかった。あの人形に宿った彼女と同じように、私が人間でいたかったのは……。

 トリさん……。

 何故、トリの顔がそこで浮かんでくるのか。飲み込まなければいけないという意思と、飲み込みたくはない意志と、その間で戦いながら、苗は自分の中にあるもう一つの不思議な感情を見つけていた。

 私は、本当はあの人に……。

 なんだろう。何かが浮かびかけているけれど、苦しさに邪魔をされて掴めない。

 その時、実際に苗の目に映ったのは、トリではなくて、湊の姿。のたうち回る苗を、しゃがみ込んで見つめていた。いつの間に、こんなところに現れたのだろう。どうやってあの扉をくぐってきたのだろう。人間が普通には入り込めないようにあの大きさの扉になっていると、トリは言っていたのに。

 そんな疑問を考える力もなかった。

 吐き出そうとする自分と飲み込もうとする自分との間で、苗はまだ必死に戦いながら、息も切れ切れに、独り言のように彼に語り掛けていた。

「湊くん……私……呼んだつもりもないのに……もしかしたら、どこかで君のことを呼んでいたのかな……」

 湊は、そんな苗の問いかけに答えようとはしなかった。もっとも、本当に彼が目の前にいるのかどうかもわからない。これは、苗の見ている幻覚かもしれないのだから。

 苗を見つめる彼の目は、どこか悲しそうでもあった。どうして、そんな顔をするのだろう。

「苗さん……あの鳥を、飲んだんだね」

「うん。でも……嫌なの。またこのまま吐き出したいとも思ってるの。私は、人間でいたいの」

 縋るように、苗は少年に手を伸ばした。だけど、彼はその手を取ろうとはしない。

「何で?」

「何でって……」

 まだ、わからない。その答えは見つからない。さっきは伸ばした苗の手を取ろうとしなかったが、今度は彼が苗の頭に手を伸ばしてきて、そっと頭を撫でた。苦しんでいる苗を気遣うように。

 でも、彼が発する言葉は、子供とは思えないほど重く冷たい。

「前にも言ったでしょう。純粋な人間は、ほとんどいないんだって。本当はね、人間社会は人間のものだったはずなんだ。でも……人間がどんどんいなくなったんだ、しょうがない」

「どうして?」

「単に、繁殖能力が弱くなっていった。パンダみたいにさ。人と一緒にいることを鬱陶しく思う人が増えたから……って言われているけど。人間が一緒にいるとどうしても諍いが起こるからね。だから、人は人と関わることがだんだん嫌になって来たみたい。おかげで、人間は増えずに減る一方。そうすると、人であって人でないもの、そういうもので、この人間社会を補填する必要があった」

「私は、その補填された、人であって人でないもの……」

「そうだよ。そんな状況で、どうしてあなたは人間なんかでいたいと思うの」

 ぼんやりと霧の向こうのことを見るようであるけれども、そこから透けて見えるものはある。

「私は……きっと人間に憧れていた」

「ふーん……何で?」

「そんなにいろいろ聞かれても……」

 また、体が強引に飲み込んだものを吐き出そうとして、苗は嘔吐いて咳き込んだ。

「そりゃそうだよね。だから、あなたは本当の自分も知らないし、いらないと思っている」

「……でも、ちゃんとそれを受け入れなきゃいけないのもわかってる。きっとそれは、私の罪だから。だから、君もトリさんも、私に思い出させようとしているんでしょう」

 今ならわかる。自分の罪をちゃんと受け入れるために、思い出せ。彼らはそう言っているはずだ。自分の胸の中でずっとざわついていた黒い影が、今もそう囁いている。

 けれど、そんな苗にどこか呆れたように、湊は言う。

「どうして、罪になるの。仮にそうだとしても、どうして僕や誰かの判断であなたを断罪する権利があるの。あくまでも、苗さんは自分のために思い出すべきじゃないの」

「自分のために……」

「そう、自分のために。じゃないと、本当に大事なものを失くしちゃうよ。自分を作った大切な思いも、何もかも。あの人形を依代にしていた子みたいに。ねえ、思い出してよ……」

「大切なもの?」

 ほんの少しだけ、彼の表情が悲しそうに揺れた。彼は一体苗の何を知っているのだろう。もう、見た目の通りのただの子供だとは思わないけれど。

 苗は、この顔を知っている。そう、トリ。彼にも何度もこんな顔をさせてしまった。そしてまた、この少年にも同じ顔をさせてしまうのか。

 ふい、と、彼は苗から顔を逸らした。

「ごめん、苗さん自身のために、なんて言ったけど……僕のエゴかな。思い出してほしいって思うのは」

 苗には心を読む力はない。でも、彼が全身で訴えていることを感じる力は、人並みにはあるつもりだ。

 つまり、彼は苗に思い出してほしがっているのだ。自分のことを。苗の目の前にいる少年のことを。彼はきっと、苗が捨ててしまった自分の中にいる。

 苗は、自分の胸の前でぎゅっと両手を握った。こみ上げてくるものを、押し留めようとするように。これを、ちゃんと飲み込んで自分の中に帰さなければ。

 それは、どんなに手を伸ばしても届かないものを掴もうとするもどかしさにも似ていたかもしれない。湊というこの少年は、隣にいるのに届かない。

 思い出したい。そんな衝動が本当に湧いたのは、これが初めてだったかもしれない。今まであったのは、義務感だった。そこにあるかもしれない、見えない十字架のために、思い出さなければいけないと思っていた。

 でも、今は、思い出したい。そういう、願いに変わった。

 どうして、そんなふうに思うのかはわからない。きっとそれは、苗の中で閉じ込めてしまった何かが、トントンと叩いて教えているに違いない。

 もう一度、苗はよく彼の姿を眺めてみた。自分の鼻先くらいの背丈、帽子のつばに隠れた、どこか大人びている切れ長の瞳、まだ小さな手。

 でも、わからない。

「君は……誰?」

 でも、その言葉は却って彼を傷つけるだけだった。彼の目から、涙が一筋こぼれ落ちて行く。それを隠すように、彼はますます帽子を深く被った。

 そして、押しつぶされそうな、掠れた声がする。

「ごめん……ごめんなさい。本当は何が幸せかなんて、苗さんにしかわからないのに」

 その声が、ずっと喉元を行き来していた飲み込んだ青い鳥を、ぐっと腹の底まで押し込んでいった。

 吐き出したい苦しさは消えたが、今度はぐるぐると目が回る。まるで、もっともっと深い谷底へ落ちて行くように。湊の姿が歪んでぼやけ、やがて暗闇の中に消えて行く。

 この眩暈は、自分をどこへ連れて行くのだろう。

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