第14話 新しい体②

 思わず、苗はきょろきょろと辺りを見回してしまった。だが、そんなことは無意味だとすぐに悟る。

「それって、実体がなくて姿が見えないという……あれですよね」

「うん」

「で……でも……私に見つけられるでしょうか」

「すでに何か気づいているんじゃないのかな。おかしなことに」

「おかしなこと?」

「そう、何でもいいから言ってみて」

 急にそんなことを言われても、この家は変なところだらけといえばそうであるし、人形がここまでひしめき合っている中で、何か細かい変化を見つけろと言われても困難だ。

 一瞬だけそう思ったのだが、本当は苗はずっと気づいていたのだ。

 カチコチカチコチ、時計の針の音。

 これだ。確かに、苗はこれに違和感を感じてはいた。

「例えば……この家には時計が見当たらないのに、時計の針の音がします。それは、なんだかずっと気になってました」

「ほら、だから言っただろう」

「え……でもそれって、どこか目につかないところに時計があるだけじゃないんですか」

「いいや、無いよ。言っただろう。時計の針の時間なんて意味がないんだから」

「じゃあ、あの音にみんな気づいてなかったんですか」

 人形師は首を横に振る。続いてトリの方に視線を送って確認するも、同じ反応だった。

「まあ、俺の場合はとりわけ作業に集中していたこともあるんだろうけれど」

 どこか惚けているようにも思える人形師の言葉に、苗は思わず脱力してしまう。

「でも、どうして私にだけ……」

「それはねぇ……彼らのもっぱらの生きがいは悪戯です。僕らでは、悪戯を仕掛けたところで彼らが満足するような反応はできませんからね。ここの家主は制作に熱中して周りのことが目に入らないし、僕は悪戯に悪戯でやり返すタイプなんで」

 だから、自分が餌になったということか、と、苗は憤慨して尋ねようとしたが、しかしそれを今言及したところでどうなるわけでもない。この二人にからかわれて終わりだ。

 それに、そんなことにぐだぐだと時間を費やしている場合でもないだろう。だから、ぐっと堪えて、出かかった言葉を飲み込んだ。

「でも、どうして探す必要があるんですか?」

 一瞬、間があった。きっと、理解できるように説明するのは、言葉を選ばなければいけないのだろう。何せ、常識や理屈というものを全く無視しているこの状況なのだから、仕方がない。

 人形師は、やはり、探りながら話しているようだった。

「今は、彼女は自分が何者なのかを思い出して、ちゃんとここにいる。だけど、またいつか、時間が経てば、すっかり自分を人間だと思い込んでしまうかもしれない。そうならないようにするためにね……。ちゃんと、自分が自分であるって、彼女にはわかっていてもらいたい。そのために、同じ種族の存在は必要だ」

 だが、そこですかさず少女は声を上げた。

「嫌」

 その声には、揺るがぬ意思がある。絶対に譲らないと。だが、人形師も引かない。

「また君に同じ轍を踏んでほしくないからだ。俺を放ってまたどこかへ行きたいのか」

「でも、人間だと思っている自分も嫌いじゃなかった。どの私も、私だから」

「人間になってほしくて、その体を作ったわけじゃない。ただ、そこにいるということを、君自身にも、そして俺にも、ちゃんとわかるようにしたかっただけだ」

「そうだね、私の存在は曖昧だ。だけど、どうして私が人間だと思い込むようになったかもわかるべきだ」

「わかっているつもりだよ。だからこそ、人間になろうなんて思うな、って言っているんだ」

 お互いに、相手のことを思っているからこそいがみ合ってしまう。こういうのを不毛というのだろうか。

 人形の少女は、人形だらけのこの家の中を、ぐるりと見渡す。いくつもの視線が突き刺さってくるのを、正面から受け止めるように。その感覚を、味わうかのように。

「誰にも気づかれるはずないのに、気付いてくれたのが嬉しかったんだ……」

「うん、だから、わかってるって」

「わかってない。どうして。今ここに同じ種族がいても、コトハにはわからない。それなのに、私には気づいてくれた。どうしてだ……」

 どうして。彼女のその問いには彼は答えない。どこかはぐらかそうとしているようにも感じた。

「君が誰かに存在を気づかれることと、人間のふりをして本当の自分を忘れることは、同じことじゃないはずだ。君は、自分が何なのかを忘れちゃいけない。人間にならなくたって、俺はちゃんと君がそこにいることがわかっているし、見つける。それじゃ、駄目なのか?」

「そんなの約束にもならない」

「約束が必要?そんなの意味があると思う?」

「ただの形だけど……形が大事なのは、私は良く知っている」

 二人は、睨み合った。静かに散る見えない火の粉。パチパチと踊る光に目をくらまされたような錯覚に陥る。

 でも、彼女がここまで拒否をする問題は、もっと別のところにもあったのだ。何故、その人と一緒にいることを嫌がり、彼女がここにいるのか、それをもっと考えるべきだったかもしれない。

 ぽつりと彼女は独り言を呟くように言葉を漏らす。

「それに、あの人はこうやって私が体を持ったことに対して、あまり良くは思っていない。そもそも、気付かれないことこそが、私たちの美徳だって思っているから。だから、ここでずっと私のことを見張っているのもわかっていた。下手をすれば、自分たちの存在を脅かすことになるかもしれない裏切り者を、どうこらしめようかと。私にはそんなつもりが毛頭なかったとしても。だから、私はますます本当の自分が嫌になって、自分が人間であると思いたかったんだ」

「そう……」

「私もずっと、気付かれずにひっそりといろんな悪戯をしたり、時には役に立つことをしたり、そういうものが私達なんだと、そう思っていた。けど、一度人から『そこにいるんだ』ってわかってもらえると、どうにかして、それに対して『ありがとう』って伝えたくなる。それに対してまた『どういたしまして』って返ってくると、さらに何かを伝えたくなる。それを、知ってしまったから」

「うん」

「それに、私に体を与えてくれたコトハの仕事に対して、裏切るようなことをしたくない。私がいつしか自分のことを人間だと思い込むようになるのは、それだけ説得力のあるものを作るコトハの腕が凄いという証拠だから」

「うん」

 彼女の言い分には、苗だって素直に頷ける。

 だが、人形師はあくまでも彼女の言い分を真っ向から否定する姿勢を貫くのだ。たとえ、彼女から称賛の言葉が出ようとも、それを受け取らない。

「真実と思い込みの境がわからなくなることと、どっちが裏切りだと思う。……どうしてそれがわからない?」

「だって……こうしてまた体を作ってくれたのに、私には実体のない存在に帰れっていうことだろう。また、コトハには見えない私に戻れって……私が言葉を伝えられない私に戻れって……」

 この少女は、真剣に訴えている。だからこそ、人形師は呆れたような深いため息を一つ落とした。

「違うよ。それは、君がどこにも行かないためだよ」

「わからない」

 駄々をこねるようにわめく彼女の頭を、ポン、と、人形師の大きな手が繊細な手つきで撫でた。

「大丈夫、どうして俺の言うことが信じられない」

 少しも揺るがぬ自信がそこにはある。人形師のそんな様子に、人形の少女は何かを納得せざるを得なくなったのだろう。それ以上何も言わなかった。最初は、捨て鉢になってあんなことを言ったに違いないが、人形師のこの一言で、彼女の中にある種の安心感も生まれたに違いない。

 人形の少女の顔が苗の方を向き、言ったのだ。

「私は、話したい……だから、見つけて」

「う……うん……」

 苗は、聞こえてくる時計の音に集中して耳を澄ませた。その音は、どこから聞こえてくるのだろう。よくよく探っていく。本当に聞こえている音ではないかもしれないから、そんなことをしても見つからないだろう。現に、音の方角はあちらこちらからで、常に変わっていて定まらない。

 そう、見つからないようにしている。

 でも、きっと本当は。

「本当は、あなただって誰かに気づいてほしいんじゃないですか。誰かに探し当ててほしいんですよね」

 そう語りかける方が、見つかるような気がしたのだ。相手は天邪鬼であろうと予測できるならなおのこと。それに、ここに出てきてほしいなら、呼ぶこと。そう苗には閃いていた。

 思った通りに、苗のそんな言葉に答える声がした。

「そんなわけない。ただちょっとからかっただけだ」

 なぜかその言葉はトリの口から発せられていた。どこかわざとらしく重々しい調子で。

「え……」

 苗も人形の少女も、驚いてトリの方を振り向いた。わずかに、彼の口元が歪む。けれど、いつものどこかおどけたような笑い方ではない。これは、例えて言うなら悪役の笑み。

「また……からかっているんですか」

 苗の問いかけを、彼は鼻で笑った。

「からかっている……そりゃあそうだがね。この男がからかっているわけじゃない。私だ……会話をするのに不便だから、ちょっとこの男の体を借りた」

「そ……そんなことも出来るんですか?」

 苗の問いかけに、トリは頷いた。正確には、トリの中に入っている人が、だが。

「でも、そんなことしても何にもならないから、滅多にしない。誰かになり替わるなど、何が面白い」

 けれど、まだ半信半疑だった。トリが何かおかしな気の利かせ方をしてそういう演技をしているだけかもしれない。

「その顔は、信じていないな」

「え……そりゃあ、だってそんな話簡単には……」

 苗は急にそれ以上喋れなくなってしまった。どうしてだか、声の出し方、ひいては体の動かし方すら突然に忘れてしまったかのように。まったく、自分の体が思い通りにならない。

 どうして。

 焦りばかりが募っていく。そして、じわじわと広がっていく、自分が自分でなくなってしまったような恐怖。

 その間、外側から苗がどのように見えていたのかはわからない。だが、他者が見ても不振には思うような何かがあったのだろう。

「どうした?」

 そう人形の少女に尋ねられて、ちゃんと自分の言葉で答えようと思ったのに、苗の口は自分の意志とは全く関係なく言葉を発していた。

「どうもしない。ただ、体を変えただけだ」

 その時わかった。探していた人は、本当にさっきまでトリの体を乗っ取っていて、今度は苗に乗り移ったのだ。自分が自分ではないような感覚、それもそのはずだ。もうこれは、納得するしかない。

 トリが苗の代わりにそれを言葉にしてくれた。

「この人の言っていることは本当ですよ。さっきのは僕じゃないし、今喋っている苗さんも彼女じゃない。でもね、それは人の部屋にノックもせずに土足で入り込んでくるようなものですよ。無礼にもほどがある」

「私が人間の間で勝手に作った礼儀など気にすると思うか。まあでも、何でもいいのだよ。あんたたちが信じさえすれば」

「じゃあ、ここにいくらでもある人形のどれかにしてくださいよ」

「そいつらは癖が強くてな。意思がないように見えるかもしれないが、人間よりも強固に己は己だと言っているから、どうも乗り移れない」

 そういえば、人形師は言っていたではないか。こんなに人形がたくさんあっても、これらは彼女のために作られた体でないと、彼女は住み着けないと。それは、人形がそうして拒んでいるからだったのか。苗は自分の内側でそう納得していた。

 満足そうに、人形師は笑っている。

「そりゃあそうだろう。俺がちゃんと魂を込めて作っているんだから」

「そこまでご自分に自信があるのは非常に羨ましいです」

 トリの言葉の丁寧さが却って嫌味を演出していたのだが、人形師にはそんなものは通じない。

「まあ、そりゃあな。俺は天才だから。その中での一番の傑作はコトハの体だ」どこか茶化しているような笑みを見せていた人形師は、不意にその表情を真剣なものに変えて、苗のほうを向いた。正確には苗を見ているのではない。苗の中にいる存在を見ているのだ。そして、言い放つ。「だから、コトハには俺が必要だ」

「はっ、馬鹿か」

 苗はそんなことを言うつもりはなかった。しかし、やはり口は勝手にそう言っている。だが、その言葉で人形師が傷つくようなことはない。

「そうだね、馬鹿と天才は紙一重だと言うし」

「やめて、本当の馬鹿は私だ」

 そこで、ぴしゃりと人形の少女が言い放った一言にすらも、苗の意志に反して鼻で笑うということをしてしまう。

「まあ、確かにそうだな。体と名前をもらい、存在をそこに示そうとするのは、私たちの生態系に反することだ。私たちは、形のない、見えることのない、信憑性のないものとしてあるものだろう。通り過ぎる風、噂話、そんなものと同じだ。そこを捻じ曲げて人間の真似事などするから、自分を捨てなければいけなくなる」

「けれど、あなただって私にそれを忠告したくて、私に気づいてほしかったのだろう。だから、私の気持ちがわかるはずだ。気付いてほしいという気持ちが。ここにいるのにわかってもらえないもどかしさが」

「別に、気付いてほしいとは思っていなかった。ただ、お前が我々の存在を脅かすことがないように見張っていただけだ。だから……お前が自分自身を捨てて、すっかり何者か忘れてしまったなら、それはそれで構わないさ。愚かだと笑ってやるだけだ。いいじゃないか。お前にいらぬ欲を与えたその人間のことも、すっかり忘れてしまったって」

「駄目だ。それだって、私が私じゃなくなるのと同じことだ。だって、どうして私がコトハという名前なのか、どうしてコトハと出会い、一緒にいるのか、それがわからなくなっていた。人形の体が古くなって限界が来てしまったその時まで。このままでは、きっとまた、この体で私は同じことを繰り返すことになる。もうそんなことを繰り返したくはない」

「それでは、その体も名前も捨てることだ。それが嫌だというのはただの我儘だろう」

 どこか威圧感のある物言いに、苗は自分に向けられた言葉でもないのに委縮してしまう。だが、人形の少女の態度は変わらない。

「だけど、私は人間のようでいたいと思う自分も捨てられない。それだって、本当に悪いことじゃないと思うんだ。人間だと思っていた自分は確かに幸せだった。人間でいられた自分が好きだった。それもまた、私だった」

「お前は、贅沢なんだ」

「わかっている」

 緊張感のようなものが、二人の間に漂っていた。どちらも引かぬ、優位の奪い合いをしているような。睨み合ったまま、どれほど時間が過ぎただろうか。

「それで、私にどうしてほしいっていうんだ」

 人形の少女が何かを答えようとしたのを、人形師が制止して代わりに答えた。

「俺ではできないことをしてほしい。きっと、彼女が自分を捨てなければいけないほど人間でいようとするのは、俺が引っ張りすぎるからなんだ。そう、突き詰めれば俺のせい。だから、そうなってしまった時の、抑止力になってほしい」

 考えるような間があった。もちろん、素直に了承するわけがないとは思っていたし、ある意味当然の返答が、やがて苗の口から勝手に発せられた。

「どうして私がそんなことをしなければならない」

「わかってないのかな。きっと、あなたはあなたでコトハのことが大事だったんじゃないのか。だから、こうしてここにいて見張っていた。自分たちの存在が明るみにされることじゃなくて、単純に彼女のことが心配だったから。本当は、そうなんだろう。コトハが自分を捨ててしまう姿を見て、ショックだったしもどかしかったはずだ。何かしたくてもできなくて。あなたたちの種族の間にだって、愛はある。コトハがそれを教えてくれた」

 自分の中に入り込んでいるものが何を考えているのかはわからないけれども、体の反応で、苗にはわかる。じわりと奥底から湧き上がってくるもの。それは、涙につながっていくもの。そういうものを、必死に堪えているのが。そして、体を持たぬこの存在は、そんな感情に対する体の反応に戸惑っているのも。

 出る声が、震えることにも、どうしたらいいかわからずに。

「ひとつ言っておく。お前らは二人とも本当に馬鹿だ。どちらのせいとかそういうことじゃなくて、どちらも馬鹿だからそうなる」

「わかっているよ」

「だから馬鹿を救える私が必要だ。そういうことなら、引き受けないでもない。お前らがずっと私に頭が上がらないようにな」

「はいはい、お願いいたします」

「どうも真剣さが感じられない」

 苗の口を通してそう不満が述べられると、人形師はふっと微笑んだ。

「本当は、こういう軽口を言い合いたかったんだ」

「は?」

「ただ、こうやってちゃんと話をして、あなたにもそこにいてほしかっただけなんだよ。ちゃんと、わかった上でコトハの傍にいてほしかった。人間の俺では無理なことが、あなたにはできる」

「余計なお世話だ」

「それは失礼しました」

 張りつめていた空気が和らいだ。その瞬間のことだった。

 急にそんな気の抜けるような会話をされて、ふふふ、と、思わず笑ってしまった苗の声は、ちゃんとそこに響いていた。

「……あっ」

 やっと、自分の体が自分の思い通りに動くようになった。声が、ちゃんと自分の意志と同じ言葉を紡げる。

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