第12話 人形師
ゆったりとした口調で、彼は言う。
「どうも、こんばんは。……何をやってるの?」
「お茶会です」
トリがそう答えると、人形師はなぜか興味深そうに苗のことを一瞥した。
「へー……だから、ポットだったのか」
そうかと思えば、すぐに苗が抱えていた先ほどの少女のひび割れた人形に、彼の目は向いた。そして、その人形をひったくるようにして抱き上げる。その手つきは、その大きな体からは想像できないほど繊細さを感じさせるものだった。
それが、職人の手先なのだろうか。
「これは俺への歓迎かな」
「ええ……まあ」
そういうことにしておこう。そんなトリの心は、しっかりこの人形師に伝わってしまっているだろう。だが、彼はそんなことは気にしていない。気にしているのは、人形のことだけだ。
「そうか……こんなになっちゃって。しょうがないか。これを作ったのはもういつだか覚えてないくらいだしな。……あいつは、どこに行った」
トリは、先ほど人形師が飛び出してきたティーポットを指さした。
あの少女にこの人形師が体を与えた物語というのがどんなものだったのか、苗の中で好奇心が湧き上がってくるが、無理矢理押さえつけた。人形師は、明らかに安堵した様子を見せていたから。それだけで、どれほど彼にとって大事なことなのかがわかる。そこにむやみに立ち入るべきではないと。
人形師は、ひび割れた人形の頬をそっと撫でた。
「俺はその中を通ってきたはずなのに、あの子を見つけることが出来なかったが……そりゃあそうか。彼女はそういうものだからな。……でも、それならよかった。どこかへ行ってしまって、もう二度と見つけられないと思ったけれど」
「そうならないようにしておきました」
「じゃあ、新しい人形を作らなきゃな」
「だから、来てもらったんです」
「なるほど」
「お礼なら彼女に」
トリは明らかに苗のことを指して『彼女』と言っていた。けれど、苗にはそれがどうしてなのかさっぱりわからない。
それでも人形師は、素直に苗に礼を言った。
「ありがとう」
「わ、私は何も……」
彼はゆっくりと首を横に振った。
「彼女と俺をここに呼んでくれたのは、あなただろう」
「え……私はただ、言われるままにただ引っ張っただけで……」
「無意識に、大きなことではなくても、重要な何かを果たしているっていうことは、往々にしてあるものだ」
「はあ……」
人形師は、抱えていた人形を、もともと彼女が座っていた席に戻しながら言った。
「私が作った人形の中に彼女が住み着いたこともそうだったよ。意図的なことと偶然の間にあるようなもので、人と人との……いや、人に限らず、何かとの繋がりってそういうものじゃないのか」
「うーんと……縁、っていうことですか?」
「まあ、そういうことだね」
「すると、こういうことが出来たことも、縁、だと」
「そう思わないかね?そもそも、この子がここに来た時点で、それはもう縁が出来ているんだろう」
「まあ、わかります、なんとなく」
でも、なんとなく、だ。ただ縁という漠然としたものだけで、こんなことが出来たとは納得し難い。
頭がぐるぐると回転方向を見失いそうになっていると、トリは苗の肩をポンと叩いてきた。
「理屈なんて大事なことじゃない。ただ、納得したいから必要なだけでしょう」
「納得したいから、大事なんじゃないですか」
「でも、何でもかんでも理屈で片づけられるのなら、裁判も裁判所も弁護士もいらない」
「それは屁理屈……」
苗がムッとすると、トリはにやにやと笑いだす。そう、やっぱりまたからかわれているだけなのだ。言葉遊びでもって。
本来はトリの席である椅子に腰を掛けた人形師は、悠然として苗に言った。
「まあまあ、お茶でも飲んで落ち着きたまえ」
「それもそうですね」
いちいちトリの言うことに一喜一憂したり動揺したりしていたら、心臓が持たない。何度自分にそう言い聞かせればわかるのだろうかと、苗は自分自身の愚かさに呆れてしまう。
「一杯いただいたら、工房に来るかい?」
「え……」
人形師の意外な言葉に、苗はカップに伸ばしかけた手を止めてしまった。そんな苗の動揺を解きほぐすかのように、彼は柔らかい声で改めて言う。
「いや、来てほしい、と言うべきかな」
「何故です?」
「嫌かい?」
「いいえ……そりゃあ、人形を作っているところを見るのは、興味がありますけど。それに、彼女がこれからどうなるのかも」
「そう。それならば、迷うことはないだろう」
「え……ええ。でも、邪魔じゃないですか?」
「それなら最初から誘うわけがない。どうしてそうネガティブに捉えるんだ」
「……それなら……遠慮なく」
「うむ、そうしたまえ」
苗はようやくティーカップを手に取り、お茶を喉に流し込んだ。ほっとする。もうとっくに冷めてしまっているお茶なのに。
彼女が人形という体から魂が抜けるように抜け出した時、どうにかしたいのにどうにもできない、そんなもどかしさに苦しくもなったし、動揺もしたが。
もう、大丈夫。きっと。
「それじゃあ、行くか」
「はい」
二人が立ち上がろうとした時、思わぬところから異議の声が上がった。
「ちょっと待ってください。せっかくこんなにいっぱい料理を用意したのに、お客さんを連れて行ってしまうなんて。あなただって、ちゃんとお茶会を楽しんでくださいよ」
八木さんだ。それもそうだろう。これだけの料理をせっかく作ったのだから。今度は、眉間にしわが寄っているように見えなくもない。この人は、ヤギでもやっぱり表情がなんとなくわかる。
申し訳なさそうに、人形師はマカロンを一つ手に取ると、それを頬張ってから言った。
「ああ、すみませんね。どうも気が逸ってしまって。でも、私の席はないようだし」
気が付けば、自分の席を取り戻そうと、トリが人形師の座っている椅子に無理矢理座ろうとしていた。彼のお尻をぐいぐいと、どかそうとするように。
意外と、トリにはそういう子供っぽいところもあるらしい。
「君も一緒に来るか?」
「ええ、行きます」
トリは迷いなくそう答えた。けれど、どちらでもよかったのか、人形師は特に興味もなさそうな、そっけない返事をする。
「そう……好きにしたらいい」
「これは、僕にとっても大事なことですから」
「まあ、そうかもしれないな」
当然、苗は気になった。どうして、トリにとって大事なことなのか。でも、もういい加減わかっている。そんなことを訊ねるだけ無駄だということが。どうせ、はぐらかされるだけで本当のことを教えてはくれないだろう。
そして、トリは苗の心を読んでいるのだろうから、苗はしっかり心中でこう付け足しておくのを忘れなかった。
意地悪。
トリは、的確に苗のそのメッセージを受け取って、苦笑した。
「僕にとっては、あなたが意地悪ですよ」
またしても、苗には理解できない答えが返ってくる。戸惑いとともに、いい加減に苗にも苛立ちのようなものが生まれてくる。トリは苗の思考が読めるかもしれないが、苗にはトリの思考は読めないのだ。何か望むことがあるなら、ちゃんと言ってもらわなければわからない。
そんな思いが弾けそうになって、思わずきつい調子で言葉になってしまう。
「あの……言いたいことがあるならはっきり言ってください」
「言ってどうにかなるものなら、言ってます。どんなに言葉で言っても、どうしようもないことなんです」
「じゃあ、どうすれば……どうすれば、私はあなたにそんな顔をさせずに済むんですか」
問題を解消するどころか、ますますトリを困らせているのが手に取るようにわかって、ますます苦しくなる。もどかしいとは、こういうことを言うのか。
そこで、助け舟を出したというわけではないのだろうが、人形師が突然に口を挟んできたことで救われた部分はあったかもしれない。
「人間関係だって作品だと思うよ」
「え?」
もう一口、冷めた紅茶を悠然と飲みながら、人形師は語った。
「関係とは作るものだ。だから、人形を作ることにもどこか似ているから、なんとなくわかるんだよ。ああでもない、こうでもないって、考え過ぎて迷うことがね。もちろん、技術的な知識としてわかってなきゃいけないことはあるけれど、何かを生み出す時の作り方なんて、何度何を作ったって何が正しいかわからないもんだ。それは、作りたいものによって一つ一つ形が違うから。人間関係だってそういうものだろう」
この人は、一体何年生きて、何年人形を作り続けているのだろうか。見た目では、きっと三十代くらいではないかと思うが、そんなことで判断してはいけないだろう。おそらくは、普通に老いて行くただの人間ではない。
うんざりするほどの果てしない時間、人形を作り続けてきたに違いない。それでも、正解などわからないという。それならば、何か物を作ることなどない、たった十九年しか生きていない苗にはわかるわけもない。少なくとも、理屈では。
この人形師には、何か当人たちには見えていないものが見えているのだろうか。
どこか縋るようにそんなことを思った苗であったが、人形師が次に発した言葉は期待とは違ったものだった。
「ちゃんと同じところを見ることは、考えていることがわかるのわからないの、そんなことは問題じゃない。わからないからこそ、わかりたいのにすれ違う、それもまた人間の心の妙だよ。……それに、今の問題は、君たちの心の行き違いじゃなくて、その人形を作り直すことだ」
「それもそうですね……」
そうだ。彼の言うことはもっともだ。すっきりしないままだとしても、今すべきことは、トリと喧嘩をすることではない。
でも、本当にこのままうやむやにしてしまって、後悔はしないだろうか。
余計にわからなくなってきてしまった苗の肩を、ぽんぽんとトリが叩いた。
「まあ、ごちゃごちゃ言っていても仕方ありませんから、とりあえず彼の工房へ行きましょう」
「は、はい」
そこで、いつのまに詰めたのかわからないが、ヤギがケーキやサンドイッチの入ったバスケットを渡してきた。
「じゃあ、これを持って行ってください」
「あ、ありがとうございます」バスケットを受け取った苗に、彼女は笑みのようなものを見せる。だが、一つ問題が。「でも、いったいどうやってそこへ行くんですか」
そう、ここまで来た道はあってないようなものであり、出鱈目だ。だから、工房まで行く道だってあるのかどうかわからない。
だが、苗がどうしてそんな疑問を抱くのかも理解不能だと言わんばかりに、人形師は当然の理であるかのように言うのだ。
「道があるとかないとか、そういう問題じゃない。俺がどうやってここに現れたかを考えれば、どうやってそこまで行けばいいかもわかるだろう」
「ま……まさか」
ティーポットの中に入っていくというのか。苗が一瞬怯むと、トリは落ち着かせるように、柔らかい声で言った。
「ああ、そうじゃないです。このティーポットの中には彼女がいますから、これを持って行かなければいけない。だからもっと他に適当なものを……ああ、ティーカップの中なんてどうですか」
「どうですかって……そんな適当な話でいいんですか」
「適当なんかじゃないです。道なきところに道を作る芸術です」
「それこそ屁理屈……」
どうやって入るのだろう。この人形師がティーポットから飛び出してきた時のように、体をしわくちゃに歪めなくてはいけないのか。
「まあ、そういうことですね。ティーカップだと、もっと入り口が狭いですから、より……こう……くしゃくしゃっとね」
そう説明するトリは、ごみを丸めるような手つきをして見せる。もう、苗は苦笑するしかなくなる。はたして痛いのか、気持ち悪いのか。骨が軋みはしないか。
いろんなことが頭を過って行くが、人形師がまったく平気そうなのを見ると、そう恐れることでもないのか。
ちらりと人形師の方に視線を送ると、不意に、彼はまた一つ星が流れていく空を見上げてつぶやいた。
「うん、ここはいいね。……あの子はちゃんと星を見られたかな」
「はい、見てましたよ。嬉しそうに」
「そうか。よかった」
話声の他は、音がしない。足音さえも。だから、時折空を走っていく星が音を立てそうだった。そこへ、トリがパンッと手を打ち鳴らした。
「それじゃあ、行きますよ」
「はい……」
もう覚悟を決めるしかない。
「いってらっしゃい」
ひらひらと、彼女は前足を振った。苗も手を振り返す。猫の警察官にも、ウサギにも。警察官はぺこりと頭を下げて挨拶をしてくれたが、ウサギはふいと目を逸らしただけだった。礼儀には厳しそうなイメージを勝手に抱いていたが、意外とそうでもないのかもしれない。
一緒に生死の境を潜り抜けた仲であるのに。
ああ、でもそんなことは、何十年も何百年も前の遠い昔のことのようにも感じられる。これだけ目が回りそうなくらい奇妙なことが起こった後だから。だから、このウサギがどんな人であって、どんな態度をとっても、もう大した問題ではないかもしれない。たとえ、そっけなかったり、失礼であったとしても。
ふと、トリの方を見ると、彼は口元を手で覆って、笑うのを必死に堪えていた。また勝手に苗の思考を読んだのかもしれない。
けれど、今はまださっきのことが中途半端なままなので、いつものように軽口を返すことも気まずくてできない。
すると、またトリの顔に寂しそうな色が浮かんでくる。それでも、彼は微笑みながらこう言った。
「ほんの一瞬ですから。上手く出られないようなら、僕が先に出て引っ張りますよ」
「はい……」
苗が人形とティーポットを、そして、トリが料理のたくさん詰まったバスケットを持ち、いざ、ティーカップの中へ飛び込もうとしたのだが。
「どうすればいいんですかね」
「どうするも何も……こうやって……」
すっと、トリがティーカップの中に手を入れると、ぐしゃぐしゃと縮まり、まるで掃除機に吸われているかのように、彼はそのままあっという間に引き込まれてしまった。
「そんなことって……」
「ほら、ぼーっとしていないで、行くぞ」
人形師も同じようにして消えていく。苗もそれに続いて、おそるおそるティーカップの中に手を突っ込んでみると、掃除機で吸われる……いや、空き缶がプレスされるみたいだ。ベコベコへこんでぎゅっと圧縮される感覚。自分自身が、ぎゅうぎゅうと自分に迫ってくるような。
ぐしゃぐしゃに丸められていく感覚とはこういうものなのか。今度から、何かを捨てる時は、捨てるとは言えどもそれなりに気を遣おうと、苗は思ったものだ。それでも、特に痛みもなければ、苦しいだとか、目が回ったり吐き気がしたりなど、気分が悪くなることもないのだが。
気が付いた時には、真っ暗な空間の中にいた。まるで、果てのない宇宙のような。しばらく呆然としていたけれども、そのままただここにこうして浮いているわけにもいかない。でも、どこへ向かって行けばいいのだろう。圧縮されたままのこの体で自由にどこかへ行けるのかもわからないけれど。
「こっちです」
どこからか、トリの声が聞こえてきた。そして、急に暗闇の中から、にゅっと一本の腕が生えてきたように現れた。これは、トリの手。
わかりたいのにわかりあえなくても、ちゃんと、この手を信じられる。初めて会った時から、何の根拠もなくそう思えていたんだから、今だってそうなのだ。それは少しも変わらないのだ。
苗は、自分の手を伸ばし、トリの手を取った。しっかりと握られた次の瞬間に、ぐっと引っ張られる。すると、今度は吐き出されるように、ひゅっと突然に暗闇から抜け出していた。
いや、夜なので相変わらず辺りは暗かったが、しかし、周りに何もないただの黒一色ではなくて、木々がそこにあって取り囲んでいるし、月や星も空に浮かんでいる。
また、ベコベコベコと音を立てながら、今度はぐしゃぐしゃになっていた苗の体が少しずつ元に戻っていく。最終的には、ワンピースもしわがなく元に戻ってくれたので、一安心だ。
一体どこから出てきたのだろうと思ったけれど、誰かがずいぶん前にここにどうしてか置き去りにしていったようである、古びた長靴があった。おそらくは、これから出てきたのだろう。
少し冷や汗が出るが、あまり、余計なことを想像して考えてはいけない。
見なかったことにするように、顔を上げてトリと目が合うと、彼はいつものようにやさしく微笑む。
「ほら、着いた」
そう言った彼が真っ直ぐ指を指した先には、一軒の小さな家。童話の挿絵で見るようなログハウスだ。暗くて他のものは良く見えないのに、その家だけはなぜかはっきりと目に映る。そこに明かりが点いているわけでもないのに。
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