第11話 人形の少女

 トリは急に席から立ち上がった。そして、少女の背後までゆっくりと歩いて行く。彼女の背中から語りかけるのだ。闇の中に潜み、鳴き声を上げるカラスのように。

 また、苗の中で嫌な胸のざわめきが増幅していく。

「この景色を閉じ込める……それどころか……よく見てください。あなたの目は、本当にここにある景色を映していますか。さっきの星を見逃したのは、本当にただそこを見ていなかったから、それだけですか。あなたのその手足は、本当に動いていますか?」

「何を言っているの?」

 少女は、その目で何度か瞬きをした。トリは、こんな少女をからかっているわけでも、悪意という斧で切り裂こうとしているわけでもない。それは、見ていて苗にもわかった。

 いつもはぐらかして本当のことを話そうとしない彼だからこそ、真実に触れようとしているのが手に取るように感じられる。

 空気が固まるような緊張感が走り抜け、誰もがお茶を飲む手を止めていた。

 ゆっくりと、少しずつ水の中に落とされる油滴のようなトリの言葉が、そこに広がっていく。

「ただのガラス玉の目、プラスチックでできた手足」

「何を……」

 そう、それは決して水とは交わらない。だから、少女には理解できない。けれど、トリは事実を告げているだけだ。誰の目にも、はっきりわかっていた。苗にだって。

 そう、この少女は人形だ。

 動物になる人間だっているのだ、動く人形だって、不思議には思わなかった。トリにその真実を口止めされるまでは。

 でも、こうなってようやく苗は理解した。彼女は自分が人形であることをわかっていない。だからこそ、あの時トリは口止めしたのだ。

 ずっと胸の奥にあった黒い靄のような不安は、こうなることをどこかで予感していたのかもしれない。

 動揺、錯乱、そんな言葉で片づけられるものではない。じわじわと、苗にも伝染してくる。

「私の手足は、ちゃんとみんなと同じ肉と皮膚で出来ているし、目だってちゃんと……」

 自分の腕に触れた少女は、そこで言葉を止めた。指は、確かめるように何度も腕を這って行き、そして、叩いてみる。聞こえるはずのない音。とんとん、ではなく、こんこん。そう、柔らかい肉ではなくて、何か堅いものに当たる音。

 恐怖から目を逸らして逃れる、そんな言葉を体現するかのように、彼女はぱっと自分の腕から指を離し、そしてわなわなと震え出した。

 でも、トリは逃げることを許さないように、追い打ちをかけることを言う。

「もっと、ちゃんとよく確かめて。今、どんな感触がして、どんな音がしたか。無機質で空っぽな感触と音から、目を背けないで」

「嫌……」

 彼女は必死に首を振った。ちぎれそうなほどに。抵抗すれば真実から逃げられる、そんなことはないのがわかっているはずなのに、それでも、受け入れられない。

 自分が何者か。その根底が覆されてしまう恐怖は、どんなものだろう。世界が音を立てて壊れて行くのにも等しいその感覚は。

 苗も、この少女を見ているのが辛くなって、直視が出来なくなっていた。トリの視線を感じる。言外に、そんな苗を責めているように思えて、そこからも目を逸らしたい。けれど、それはしっかり見ていろ、というサインでもある。

 しっかり見ていなければならない。この少女のためにも。

「この蛍の光。見ているものは、本当にその目で見ていますか。今食べたケーキの味は、どんなでしたか。それは本当にその舌が味わったものですか」

「そ……そうだよ。星も蛍も綺麗だもん。タルトだって美味しいもん。それは、全部全部私のものだよ!」

「そう、あなたのものではあるでしょうね。それを大切にしてください。でも……本物であるとは、どうして言えます?偽物の感覚に頼らないで」

「偽物なんかじゃない……」

 崖っぷちで足元が崩れてしまった彼女の前に残された、ただ一本のロープに、必死に縋っているようだった。でも、それさえも切られてしまったら。

 でも、残酷であっても、それは必要なことなのだ。

「何だったら、今また、そのお皿のケーキを食べてみるといい」

 フォークを手に取り、彼女は皿の上のレモンタルトを口へと運んで行った。もそもそと、それを噛み砕くが、普通の人間にだって、こんな状況では味などわからないのではないか。

 フォークを持つ少女の手が、少しずつ震え出す。

「嘘……嘘なのよ。それなのに、ちっとも味がわからない」そうして、一口、また一口と、何かに迫られるように彼女はタルトを口に運び続けたけれど、同じ言葉を繰り返すばかりだ。「どうして……わからない……わからないの……」

 ほろほろと、少女の目から涙がこぼれる。そう、ちゃんと、彼女の目は涙をこぼしている。だったら、何が本当で何が嘘だというのだろう。

 嘘も本当もない。

 もしかすると、この場で口をはさむべきではないのかもしれない。でも、苗はもう黙ってはいられなかった。我慢できずに吐き出すように言ったのは、ただそうせずにはいられなかっただけの自己満足であるかもしれなくても。

「で……でも……美味しいと、思ったのよね、さっきは」

「うん」

 彼女の目から落ちる涙が、蛍の光に照らされて煌めく。

「それなら……きっとあなたは味をちゃんとわかっていた。美味しさで最後に大事なのは、それを食べた時の気持ちだと思うから」

 じっと、彼女はそのガラス玉の瞳で苗を見つめていた。ただの慰めで言ったわけではない。彼女にはちゃんと感じる心がある。それだけは偽物だとは誰も言えない、彼女がそこにちゃんといるという証拠だろう。

 きっと、トリは苗のそんな気持ちを読んだのだろう。少しだけ、その言い方に責め立てるような緊張感がなくなった。彼女を安心させようとするように。

「あなたという存在そのものが偽りだというわけじゃないのだから、そこまで怖がることはないですよ」

「本当に?」

「ええ。でも、あなたのその体は、ただの入れ物に過ぎない。ただ、その入れ物があなたは人と違うだけ」

「じゃあ、どうしたらいいの?何であなたはそんなことを言うの?」

「何にでも、いつかは壊れる時はやってくるものです。あなたの今のその体も……」

 ぎしっ、と、動かした少女の腕が悲鳴を上げるように軋んだ音を立てた。がくがくとフォークを持っている手も震えて来る。彼女は、たまらずにフォークを皿の上に置いた。それでもまだ、手は震えている。

 そして、また一筋伝っていく涙と共に落とされる言葉。

「終わりなんだ。それは、人間が死ぬのと同じこと?」

「いいえ、そうじゃないです。だって、もともとはあなたには体という概念が存在しない」

「どういうこと?」

「生きるも死ぬも、その器がないんですから」

「それって幽霊みたいなもの?」

「いいえ。幽霊はもともと生きていた人ですよね。だから、そうじゃない。なんなら、また新しい体を用意も出来ますし、別に、そうやって器に縛られずにいることだってできる。あなたは、人間よりもずっと自由な存在ですよ」

 その一言に、人形の少女の震えは少しずつ収まってきたように見えた。そして、表情もほっとしたように緩む。そう、人形でもちゃんと表情がわかる。

「でも、私は、これが私だと思っていた。……体が無ければ、こうして人と話をすることも出来ないし、誰も私のことを知らないままだし、美味しいものも食べられない」

「そうですか。じゃあ、一流の腕前の人形師に頼んでおきますよ」

 彼女の頬笑みもわかる。もう、すっかり安心しているのだ。それがわかって、苗も知らずこもっていた力を抜くことが出来た。

 これは、悪いことじゃないのだ。

「でも、私はどうすればいいの?」

「とりあえず、その体から出ないとね」

「どうやって?」

「それは、僕に訊くことじゃないですよ。知ってるとか知らないとか、そんなことは問題じゃないはず。もうすぐ、時間です」

 そう、何もしなくても、もうすぐその時間がやってくる。人形の体が耐えられる限界の時間が。最後に、彼女はこう尋ねた。

「そっか……出たらどうする?」

「そうですね、とりあえず、このティーポットの中に入っておきますか。そのままどこかへ行ってしまわれると、せっかく新しい体を用意しても、あなたを見つけられないですからね」

「うん、わかった」

 かくかく、と、音を立ててわずかに揺れた彼女の体は、それ以来ぴたりと動かなくなる。そして、ひびが入っていく。本当に、もうこの人形は耐えられなくなったのだ。

 彼女のガラスの瞳から飛び出してきたのは、小さな光。それは蛍の光に紛れる。でも、色が違う。一つの色をしていない。常に変化して、いろんな色を見せている。赤くなったり、青くなったり、銀色になったり、金色になったり。

 これは、魂の色だ。

 トリがティーポットの蓋を開けると、その光は迷わず中へ入っていった。その中で、光っているのが鈍く見える。でも、すぐにそれは消えてしまう。

「えっ……」

 まるで、その命が燃え尽きてしまったかのようで、苗の中に不安がざわめく。しかし、トリの方を振り返ると、彼はまったく動揺していない。むしろ、穏やかにほほ笑んでいるくらいだ。

 彼は、ちゃんと苗の不安を読み取っていた。安心させるように、囁き声で言った。まるで、眠っている人を起こさないようにするかのように。

「大丈夫です。もともとは、彼女はまったく姿が見えないものなんです」

 そう言ったトリは、あまり音をたてないように、そっと蓋をした。

 彼女は、一体そのポットの中でどうしているのだろう。窮屈ではないのだろうか。まるで、檻に閉じ込めるようで気が引ける。でもそれは、もしかすると、人形に入っている時とそう変わらないのかもしれないが。

 ひび割れた人形を、苗はそっと抱き上げた。これは、彼女の抜け殻なのか、それとももともと魂などない子供の遊び道具か置物か。まるでさっきまで動いて喋っていたのが嘘のようだ。でも、そこに伝っている涙の痕が、真実だと証明している。

「人形でも、表情もあるし涙も流すことが出来るなら、もう人間と変わらないのに」

「涙に見えるものは、飲んだ紅茶でしょう」

「そんな……」確かに、よく見るとその涙は無色透明ではなくて、茶色だ。「結局、彼女は何なんですか」

 トリはティーポットをテーブルの上に置きながら言った。

「彼女は、実態を持たない存在なんです。ほら、感じることがないですか、何も見えないけど何かがいる気配」

「ああ……ありますね」

「あれです。まあ、そういうのを幽霊なんて呼ぶこともあるかもしれないですけど、幽霊が本当にいるのかどうかは私にはわかりません。大体が、彼女たちですね」

「でも、何で彼女は人形の体を持っていたんですか」

 彼は少し困ったように眉尻を下げた。

「さあねぇ……まあ、これで本当の自分を彼女は取り戻せたでしょうけれど、そこにどんなドラマがあったかまで知りようがありませんし、真相は霧の中……。自分を普通の人間だと思い込むような何かがあったには違いありませんけど」

「でも……あなたは人の心が読める……」

 またしても何かを誤魔化されたと苗は察したのだが、彼は首を振ってそれを否定した。

「本当のことを言いましょうか」

 妙にかしこまったその様子に、苗は思わず少し身を引いてしまった。

「な、何でしょう」

「本当は、僕は誰の心でも読めるわけじゃなくて、読めるのは苗さんの心だけなんです」

「わ、私だけ?」

「はい」

「どうして?」

 また、トリの顔に寂しそうな影が落とされる。でも、やっぱり何が彼にそんな表情をさせてしまうのか、苗にはさっぱりわからなかった。そして、曖昧に微笑むだけで、やっぱり本当に答えてはくれずに、まったく別の話を始める。

 それでは、わかろうと思ったって、わかるわけはないのに。

「まあ、それはともかく、それじゃあ早速人形師のところへ行って、彼女の新しい体を作ってもらいましょうか」

「心当たりがあるんですか?」

「まあね。だから、呼びましょう」

「呼ぶ?」

「ええ」

「それって、やっぱり……私が、ですか?」

「ええ、大丈夫。このポットの中に手を突っ込んでみればいいだけですよ」

「え?」

 トリは、さわやかな笑顔でさっきあの人形の少女から抜け出したものを閉じ込めたはずのポットの蓋を開けた。

 そんな出鱈目な話があるか。

 苗が躊躇っていると、トリはすっと、目に鋭い光を宿して言う。まるで、苗を厳しく律するように。

「あの少女にまた、体を与えたくはありませんか」

 きっと、彼女はそれを望んでいる。それならば、理解などできなくてもやるしかない。意を決して、一体どうなっているのかもわからないそのポットの中に、苗は手を入れてみた。その中は、まるで無限の空間が広がっているとでもいうように、底に当たることがない。

 どうなっているのかと思わず覗いてみたくなるが、見ようとしたその瞬間、 不意に、苗のその手は何かを掴んだ。これは人の手だとわかったのは、それが苗の手を握り返した時だった。

「ほら、引っ張って!」

 そう言うトリの声に、反射的に苗はぐっと引っ張っていた。掴んでいるその手も抵抗するどころか、ますます強く苗の手を握ってくる。まるで、そこから出たいと言っているかのように。

「でも、こんなところ、人が通り抜けてこられるわけが……」

「いいから、ぐっと、それが出て来るまで引いて」

「は、はい!」

 物理的な法則からすると、出て来られるわけがない。しかし、このポットの中には人間がいること自体からして、現実的な物理法則など存在しないのは明白だ。

 もう、気にしていても仕方がない。

 さらに力を入れて引っ張ると、掴んでいたその手をポットの外にまで引き出すことが出来た。もし、そこからちぎれてバラバラになってしまったら、などということも頭を過ったが、とにかくもう破れかぶれで、さらにそこから引っ張ってみると、ぐにゃりと歪みながらそこから人間の全身が本当に出て来ることが出来たのだ。

 ポットから出てきて、歪んでいたその体が元の形に戻るまで、十秒ほどはかかっただろうか。

 苗は、おそるおそるトリに尋ねた。

「この方が、人形師さんですか」

「ええ」

 アイロンで伸ばされたように体が元に戻ってくるとわかる。ずいぶんと背が高く、大柄な男だ。身長は二メートル近くあるのではないだろうか。それ故に、迫力はあるが、しかし、それほど威圧感はなかった。纏っている空気が、どこか柔らかい。年齢は見た目からは想像がつかない。若そうにも見えるし、どこか落ち着いてどっしり構えている雰囲気が、年齢をある程度重ねているようにも見える。

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