第10話 ようこそ、お茶会へ
すっと、ウサギは十メートル先を指さした。
「ほら、あそこ……」
「あ……」
川べりに突然にテーブルと椅子が現れたのは、不自然と言えば不自然だった。それに、勝手にこんなところでこんなことをして、警察に通報されたりしないだろうか。
また馬鹿なことを考えてしまったと、苗は自嘲した。だって、ここへ来るまでの道は苗の意思で造られた。だから、この場所だってそういう場所なのだ。誰か咎めるような人もいないし、常識も非常識もない。
そして、ウサギが言っていた通り、本当に彼はいる。トリは苗が来るところに、ちゃんとやって来てくれたのだ。
彼女は彼に駆け寄って行ったが、彼はまだ気付いていない。お茶会の用意をするのに夢中のようだ。苗は、カップを並べている彼の袖を引っ張った。
すると、ようやくこっちを向く。雲が覆っていた空は、完全に晴れた。
「き……来たんですね」
複雑な感情を拭い去り切れず、少しぶっきらぼうな言い方になってしまったのを苗は後悔をしたが、でも、彼は微笑んだ。
「すみません、迎えに行っておきながら、いなくなってしまって」
「どうしてですか?」
「ちょっと、お腹の調子が悪くて。お手洗いに行きたかったんです」
「それって、単なる表面に着せた仮面の言い訳ですよね」
「そうですね」
あっさりと認める。嘘を付く気があるのかないのか。さっぱりわからない。やっぱり、どうしたって掴むことのできない人だ。
「私もあなたみたいに、人の心が読めればいいのに」
「本当にそう思いますか?なら……ちゃんとわかってください」
「なら、ちゃんと教えてくださいよ」
どこか、その笑みの中に寂しさや虚しさのようなものが混じっているように見えた。何故、そんな顔をするのだろう。
「教えなきゃ、わかりませんか」
「わかるわけ、ないじゃないですか」
ちくりと、罪悪感のようなものが突いてくる。さっき、湊に対して感じたのと同じような。それなのに、素直に謝る気にはなれない。
また、急にいなくなった時のように、突然に放り出された気がしたから、悲しさに囚われて、苗はすっかり忘れていた。この人に対してどういう受け止め方をしたらいいのか、ということを。「あなたのことは、理解しようとしないこと。掴もうったって掴めるものでもないんだから。そうじゃないんですか。それに結局、ここで会えたんだから、もういいです」
ふっと、何匹もの蛍が目の前を通り過ぎていく。すぐ掴めそうな、星の光のように。淡い光が、夢を見ているようにゆらゆらと無数に揺れている。
「そうですか。……それにしても、素敵な場所だ。なかなか趣味がいい」
「それはどうも」
苗は少しばかり得意げになって、ちらりと横目でウサギのことを見た。どうだ、とばかりに。ウサギはそ知らぬふりをしていたけれども。この分では、きっとさっき苗に言ったことも、すっかりどうでもよくなって忘れてしまっているのだろう。
それならば、執拗に拘らず流してあげるのが大人というもの。
苗は自分にそう言い聞かせて、自分もお茶会の支度に加わろうとした。
そこで、不意に肩を叩かれ、必要以上に驚いて跳ねあがりそうになって、苗は慌てて振り向いた。
すると、そこに立っているのは一人の女性。
「どうも、こんばんは」
「あなたは……この間の警察官の……こ……こんばんは」
人狼の件で苗の家まで来てくれた警察官の女性。何故、彼女がこんなところにいるのだろうか。にこにこと、相変わらず人のいい笑顔である。
「こんな素敵な場所で、今日は楽しみですね」
「あなたも……招待されていたんですね」
「はい」
いったい、どういう基準でここに来る人は選ばれているのだろう。疑問にも思ったが、しかし、すぐに一つの仮説が浮かび上がってきた。
「もしかして……あなたも……半分人間ではない……のですか」
彼女は、少しいたずらっぽく、くすりと笑った。
「ここへ来たのなら、もう話しちゃってもいいかな」
苗が三度ほど瞬きをした間に、彼女の腕からはみるみる毛が生えて、手の形も変わって来た。それはやがて全身に広がっていき、目はらんらんと光り、口角は切れ上がる。
そうして、やがて灰色の毛で覆われた猫の姿となったのだ。
「ね、猫……っていうか、トリさんの家にいた、絹江さん……」
彼女が変化した猫の姿は、苗が鏡をすり抜けてトリの部屋へ行った時にいたあの猫の絹江であった。妙に人間臭い名前だと思ったら、半分は人間だったというのなら、頷ける。
すると、あの人狼の騒動で警察として彼女が苗の家へ派遣されていたのも、トリが仕組んだことだったのか。
まったく、どこまでが彼が書いたシナリオ通りに物事が運んでいるのかわかったものではない。
そう苗が考えていると、絹江は悪戯っぽく光る眼を苗に向けてくる。
「そう、本当はいろいろとトリさんから頼まれていただけだったんです。でも、迫真の演技をするためには黙っておかなきゃいけないですからね。だからね、私は人狼というものがいることも知っていましたし、実は、見かけてもそんなに驚きはしないです。今まで黙っていてごめんなさい」
「な、なるほど……」
「案外いるんですよ。人間と動物、両方の遺伝子を持つもの。実は、警察のお偉方にもね」
「へぇ……。そ……そうだったんですか」
「だから、あの人たちは保身のためならいくらでももみ消しますからね。あの人狼のことも、何もなかったようにちゃんと伏せられています。問題は、あの頭の固い先輩をどう納得させるかですけど。変な正義感を出して、警察の不正を暴くんだ、なんて言い出しかねなくて。でも、そこは結構単純なところもあったりするから、うまく言いくるめることで今のところ何とか抑えてますよ」
「どうやって?」
「実は、ドキュメンタリー風の映画を撮影していただけで、本当の事件じゃないって。リアリティーを出すために、私たちには内緒にしてたんだって。だから、ドッキリみたいなものですよって」
「信じますか、そんなの」
「あの人なら、人狼がいるという事実よりも、そっちのほうがまだ納得できる現実だと信じます」
「……それならよかった」
妙に頑なな現実主義者というのは、そういうものなのだろうか。それはともかく、どこからどう見ても、三毛猫の姿になっている彼女をもう一度見て、苗は思うのだ。
狼人間に、ウサギ人間に、猫人間。だとすれば。
テーブルにサンドイッチを並べようとしていたトリの方を、苗は振り向いた。
「もしかして、トリさんも人獣で、鳥……だったりするんですか」
彼は、ふふっ、と、笑う。
「ええ、そうですよ。ドードー鳥です」
「あの絶滅したっていう?」
そこで、一瞬妙な間が空いた。彼の笑顔も、固まったようにそのままだ。そして、彼から発せられた言葉。
「冗談です」
「え……」
またか。またからかわれたのか。だが、そんなことでいちいち肩を落としたり、恥に思ったりしていては、この人との会話はきっとできないだろう。
苗は自分にそう言い聞かせた。
「トリ、というのはただの名前であって、あなたが三ツ橋苗という名前であるのと同じ、というだけです。僕が鳥人間というわけではありません」
「じゃあ、何なんですか?」
「何でしょうね」
やっぱり、誤魔化される。取り繕うことをあまりしないと思ったら、これだ。真相に触れさせることは、決してない。
「教えてくれないんですか」
「さっきも言ったのに」ぽそりとつぶやいたトリの表情に、また微妙な影が落とされる。「わかろうとしないんですね。……それより、早く準備をしてしまいましょう」
「そうですね」
わかってほしいのなら、ちゃんとわかるように話すべきではないのか。それなのにわかれだなんて、少し傲慢だ。
そんなことを思う苗自身にも、きっと努力が足りないし、傲慢なところがあるのだろう。
悟ったふりをしてみたり、そのくせいちいち落ち込んでみたり。自分でも馬鹿みたいだと苗は思う。
それよりも、このお茶会を楽しもう。
気を取り直して、苗は茶器や食器を並べ始めた。ワンポイントの控えめなバラの柄の入った白いティーカップとティーポットは揃いのものだ。銀のスプーンとフォークも、傷ひとつなくピカピカ。
そこへまた料理が運ばれてくる。スコーンに色とりどりのマカロン。
「美味しそう」
「でしょう。誰が作ったと思います?」
「え……まさか、トリさんが?」
「いいえ、違いますよ。ヤギさんです。言ったでしょう、ヤギさんの主催だと」
ということは、ヤギ人間なのか。まあ、もうどんな人が現れてもそんなに驚くこともないだろうと、苗は妙に落ち着いてこれから来るべき事態に心を備えていた。
この感覚は、果たして、強く成長した証なのか、それとも狂っているだけなのか。どちらかわからないけれど。
案の定、右手にアップルパイを、左手にシフォンケーキを持ったヤギがやってくる。焼きたての香ばしく甘い匂いと共に。
苗と目が合うと、ヤギの目元が僅かに動き、笑みのようなものを見せる。
ヤギでも、微笑むとわかるものだということを、苗は知った。いや、おそらくは、人間でもあるから、なのかもしれないが。純粋なヤギに笑顔があるかどうかはわからない。
「ああ……どうも、ヤギの八木(やぎ)です」
女性の声だ。人間の姿はどんな人なのだろう。おっとりしていて、上品そうなイメージが浮かんでくる声だが。そういえば、あごの下に髭がない。
ヤギの八木さんがいるのなら、鳥のトリさんだっていてもいいのではないか、と苗は思うが、それでも、本人が違うというのだからそうなのだろう。
そんなことを考えながら、苗はぺこりと会釈をした。
「こんばんは……三ツ橋苗です」
「知ってます、知ってます」
「え?以前にお会いしたことありましたっけ。……その……人間の時に」
「いいえ、でも、彼から聞いていますよ」
テーブルの上にアップルパイとシフォンケーキの皿を置いて、ヤギはそう言った。彼、とは、トリのことだろうとは思うが。人に苗のことを話したりしているのか。
一体何を……。
彼女に訊こうとしたが、そこで、ふらりと一人の少女がやって来た。十歳かそこらくらいか、もう少し上だろうか。まるで、苗の着ているものと色違いであるかのような、よく似たデザインの白いワンピースを着ている。
もしかして、この少女もお茶会に招待されているのだろうか。テーブルは六人掛けだ。ということは、あともう一人いるはずなのだ。きっとそうだろう。
しかし、きょろきょろと辺りを見回していた彼女はこんなことを言うのだ。
「あの……何をしているんですか?」
知っていて来たわけではないのか。その割に、この二足歩行で喋る動物たちがいることに、あまり驚いてはいないようだが。
ちょうど六つ目のカップを並べながら、トリが彼女に向って言った。
「お茶会ですよ。よかったらどうですか」
「いいんですか?」
「ええ」
何か、おかしい。
苗は、二度三度瞬きをしてみて、よく目を凝らした。そうすると、はっきりと見えてくる。彼女もまた、人間ではないと。
でも、今までの人たちとも違う。
「あ、あなたは動物じゃなくて……」そこで、苗の言葉を遮るように、トリが苗の頬を引っ張って来た。「な……何するんですか」
トリの方を振り向くと、彼は人差し指を自分の口元に当てて、黙っているように、と言外に訴えた。
苗が小さく頷いたのを見ると、彼もまた頷く。
そんな二人の様子に、少女は不思議そうに首を傾げた。
「何ですか?」
「いいえ、何でもありませんよ」
それ以上は、彼女も気にする様子もなく、もう関心は他のことに移っていた。
「そうですか。……どこに座れば?」
「席は決まっていません。お好きなところにどうぞ」
すると、彼女は一つずつゆっくりと席を回って、どこがいいか吟味し始めた。そして、最後に止まった場所。
いわゆるお誕生日席だ。今日は両側に二つあるが、そのうちの一つ。川に向かっている方だ。
「ここがいい。なんか、特別っていう感じがするから」
「じゃあ、これはあなたのお誕生日ケーキということで」
クリームたっぷりのスポンジケーキにイチゴがぎっしり乗っている。それを、その席の前にトリは置いた。
わずかに、少女の目が輝きを増したように見える。喜びを隠せないように。でも、ごく控えめに言うのだ。
「お誕生日じゃないけれど」
「まあ、そうじゃなくてもそういうことにしちゃえばいいんです」
「でも、それじゃあ、特別なことが特別じゃなくなっちゃう。特別は特別だから特別なんだ」
「ふむ……何か理由が必要なわけですか」
こくり、と、少女は頷いた。トリは、うーん……と、しばらく悩んでいた。彼女のことを何も知らないのだから、それも当たり前……一瞬そう思ったけれど、そうではない。トリは、人の心が読めるのだ。きっと、彼女の望むものを、誰よりも的確に見つけることが出来るだろう。それがマナー違反であるとしても。
だが、彼はわずかに眉を顰めた。良くないサインだ。
「じゃあ、今夜はふたご座流星群の日だから、ということではどうですか」
「いいね」
少女も了承した。
でも、何故だか、苗の中ではざわざわと何かが騒ぐ。きっと、彼女がここにいるということが、あまり喜ぶべきことではないのではないかという予感。どんな真実がこのお茶会には隠されているのか、改めて不安とも小さな恐怖とも呼べるようなものが押し寄せて来そうになったが、苗は無理矢理それらの黒い靄を追い払った。
「さあ、どうぞ座ってください」
トリのその言葉に頷いた彼女は椅子を引き、そしてそこに座った。
それを見届けてから、彼は六つのカップそれぞれに紅茶を注いでいく。もうテーブルの上には並びきらないほどのお菓子や料理。そして、それを彩る星と蛍の光。
どう見ても、楽しいパーティーの始まりだ。そのはずだ。
「よし、準備も出来ました。それじゃあ、皆さん席に着いて、始めましょうか」
猫に変身したままの女性警察官も、ヤギも、ウサギも、それぞれ好きな席に着く。苗は少女の左手の席に、トリは苗の隣に座っている。そして、少女の右手の席はヤギ、その隣がウサギ、そして、少女の向かい側のもう一つのお誕生日席には、猫。
好きな席に座るようにしたわりには、もめることもなく、すんなり決まった。逆に言うと、席順くらい、そんなにもめるほどの拘りも、皆無いのかもしれないが。
何にせよ、まずそこで混乱が起きなくて苗はほっとしていた。何が暴発のきっかけとなるかわからない。この少女に何が起こるのかも。
これが上品な婦人方の午後のお茶会だったとしても、テーブルの下での戦争というのはしばしば起こるもので、ただでさえも非常識なこのお茶会は気が抜けないことを、何故だか今になって変に意識してしまう。
ちらりと少女の様子を窺いながら苗がレモンタルトを食べていると、彼女は不意に訊ねて来た。
「それ、美味しいですか?」
「うん、美味しいよ。取ってあげようか?」
彼女は、こくん、と頷いた。そう、このタルトの甘酸っぱい味は、紅茶とよく合う。何の不満もなく美味しいタルトを、苗は一切れ皿に取った。少女も嬉しそうにそれを受け取る。
さわやかな酸味もあり、甘く優しい。そう思えるはずなのに。それでもまだ、どこかでざらざらした不穏な手触りを感じてしまう。
それを誤魔化すように、苗は言う。
「これ、全部八木さんが作ったんですか?」
苗のそんな質問に、またしても、ヤギの目元が笑みのようなものを作ったように見えた。
「ええ、そうですよ」
「すごい……」
「いやぁ……照れるなぁ」
蹄を頬のあたりに当てて、ヤギは恥じらった様子を見せる。人間臭く恥じらうヤギ。少女はそれを興味深そうに見ていたかと思った。だが、不意に叫んだ。
「あっ!」
その目は空を見ている。全員で、一斉に頭上を仰ぎ見る。ひゅうっ、と、空を駆けて行く星が、一つ、続けてもう一つ。
今までになく少女の目が輝いた。そして、熱を帯びた声で言うのだ。
「見た?」
熱心に訊ねてくる彼女に、苗も少し興奮気味に頷いた。
「うん、うん、見たよ。何かお願い事はした?」
「出来ない。こんな短い時間じゃ」
そんな二人の様子に、くすくすと笑いながら、トリは空を指さした。
「あ、また星が流れましたよ」
「もう過ぎちゃったよ」
悔しさを飲み込むように、少女はぐいっとお茶を喉に流し込んだ。そして、もう見逃すまいと、彼女は空を見上げる。目の前を通り過ぎる光は、星ではなくて蛍。
少女は、空を見たまま、ふとつぶやいた。
「どうすれば、この景色を閉じ込めておけるかな」
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