第9話 お茶会へ②
何度も何度も、執拗に曲がり道を通っていく。いくつの角をどの方向に曲がったのかも、もうわからない。
「あの……」
「何です?」
「帰る時はどうしたらいいんですか?」
どうしたって覚えられない、出鱈目に歩いているような道に対して、そんな不安を抱くのは当然のことであろうが。
「帰る時……ね」なんとなく、嫌な予感がする間があった。また、答えたくないことなのか、答えられないことなのか。答えではない答えを、彼はくれた。「それは、トリさんにお任せしましょう」
「トリさんに?」
「ええ……きっと彼は先に着いていますから」
「そ、そうですか」
「それに、誘ったのは彼なのに、あなたを放っておくというのも、許せないマナー違反をしたのですから、せめて送っていくことはしてもらわないと」
でも、常識が非常識である彼に、そういう一般論は通じないだろう。だから、急にいなくなってしまったのだろうし。
本当に全くつかみどころない人間……いや、存在に、それでもまだ何か期待をしていて、そんな自分に呆れてしまう。もう、あの人の存在自体が、ただの偶然とか、気まぐれとか、そういうものだと思っていた方がいいのだろう。
お茶会だって、本当にあるのかもわからない。こんな奇妙な道を歩いていて。もう、着けなくたっていい。
俯いていて気が付くのが遅れたが、そんなことを考えている時、少し先を歩いていたウサギが急に足を止めた。
「おっと……」
「何ですか?」
「道が……」
突然に途切れている。まるで、そこから先がごっそり削ぎ落とされてしまったかのように。道だけじゃない。そこには何もない。ただ、黒一色。どこまでも続く壁のようにそこに聳えていた。やっぱり、実際にはない道なのだ。どこからどうしてそうなったのかはわからないが。
世界が歪んでいる、というのはこういうことなのか。
でも、行き止まり。道に正しいも間違いもない、ウサギはそう言っていたが、これは明らかに間違いなのではないだろうか。
「これって……先へ進もうとすればどうなるんですか?」
「どこへも行けません。道じゃないんですから」
「そりゃあ、そうですよね。でも、闇に飲み込まれたりとか、落ちたりとか……そういうことって……」
「それはないですけど、強引に進もうとしても、どこにもつながっていない、何もないところをひたすら歩くだけです。無駄にね。そして、どこにも着けないということは、永遠にその無の中を彷徨うことになる」
苗は、思わず二歩ほど後退してしまった。その闇に踏み入らないように。
「もしかして、世界が歪んでいるからですか」
「はい」
「でも、どうしていきなり、今まであったはずの道が、こんなことに?」
ちらりと苗を窺い見たウサギの視線は、どこか冷ややかだった。
「迷いがあるからですよ」
「迷い?誰に?」
混乱して目を白黒させている苗を見て、やれやれ、と、ウサギはため息を落とした。
「私は道案内をしているわけではありません。道を決めているのはあなたですよ」
「え……どこへ行くかも知らないのに、そんなことって」
「まあ、くねくねいろんなところを迷っていたから嫌な予感はしましたけど。あなたは何かを迷っている……というか、そこへたどり着くことに、何か迷いがあるのでは」
ひやりと血が逆流して体温が下がっていくような錯覚。それは、真実をしっかり射抜かれてしまったからだ。
「で……でも……」
「仕方ないとは思いますよ。あなたにしてみたら、わけもわからないことであるし、充分に怪しい上に、一緒に行くのが彼ではなくて私ではね。嫌なら帰ってもいいですよ。帰れるならね。帰るにしても、あなたにはきっと迷いがあって、道は見つけられない。……要は、行くも戻るも覚悟がない。はっきりしなさい、行くのか戻るのか」
自分でも気づいていなかった。もう行ってもしょうがないような気もして、期待するなと自分に言い聞かせたつもりでも、どこかで、このまま終わりにしたくないと思っている。
一体どうしたいのだ。
いや、どうしたい、ではない。感情で考えて分からないことならば、本能が訴えていることに従うしかない。ずっと、苗の心は言っている。虚しさもあるし、何があるのか不安で怖いという思いもあるけれど、やはりそこへ行ってみたいと。
そんな本能を制止しようとする、どこかいじけた心と戸惑いをきっぱりと追い払うように、苗は言った。
「い……行きます」
「ほう……」
少しだけ、先の道がふっと現れる。でも、ほんの五メートルほどで、また行き止まりになっている。まだ、苗の中に迷いがあるということか。
自分の心というのは、本当には自分でどうにかできるものではないのかもしれない。
ウサギは、自分のこめかみを人差し指でとんとんと叩いた。まったく進行方向のわからない苗に、手招きをしてくれようとするかのように。
「場所は決まっていない……私は以前あなたにそう言いましたよね」
「はい」
「それはあなたが決めることだからです」
それもきっと、世界が歪んでいるからだろう。不条理なことは、すべてその一言で納得できてしまう。もう、何が本当のことで、正しいことなのかというのを考える方が最早不条理であるのではないかとさえ思うくらいには、頭のスイッチがどこかで切り替わってしまっていたのだろう。
だから、ウサギが言うことも素直に聞き入れられた。
「もっと、どこへ行きたいかイメージすることです。どうせなら、出来るだけ楽しいことの方がいいでしょう。酷いところへ行きたいだなんて、誰も思わないでしょうし。なんなら、口に出して言ってみてください」
「それは、お茶会がどこで催されるか、ということですか」
「もちろん、そうです。何でもいいんですよ。それこそ、この間言ったように、人の家の屋根の上とか」
「いや、それはいくらなんでも……」
「あなたが本当に行きたい場所、それをちゃんと思い浮かべることです。たとえばそれは、本や映画で見た場所だっていい。あるいは、宇宙だって。どこだってあなたの自由です。道に本当も嘘もないように、今あなたがここにいることにも本当も嘘もない。あなたがすることにも、あなたが行く先にも、嘘も本当もない。だから、どこでもいいんですよ。それはたとえば、誰か会いたい人がいる場所であるとか」
「会いたい人……」
道のないところを自分で道を作ってまで会いたい人。そんな人なんて……。パッと思いつくはずもない……はず……。
「もしかして、トリのことを考えていたりしましたか」
どきりと、苗の心臓は跳ね上がった。勝手に。
「いや、そうじゃないですけど」
その否定の言葉を、きっとウサギは半信半疑で聞いていたのだろう。いや、半分どころか三割くらいしか信じていないだろう。
「なるほど、それならそれで、彼がどこにいるのかを、想像すればいい」
「だから、別にあの人のことは……」
どこか言い訳じみている、強がりのようにも聞こえなくもない。実際、会いたい人と考えた時にトリの顔が過らなかったか、と聞かれれば、完全に否定はできない。
でも、自分の中でそれを認めてはいけない気がした。きっと、あんな掴みどころのない人のことを追いかけても、虚しいだけだ。
ふいに、ぽつり、ぽつり、と、空から一粒二粒と水滴が零れて来る。瞬く間に、その雫の数は増えていく。そうして、傘を持たない二人を濡らしていった。
ぽそりと、雨が降り注ぐ音に乗せてウサギは言う。
「雨……ですね」
「何で急に……そんなに天気も悪くなかったのに。それに、これじゃふたご座流星群も見えない」
あっという間に出来た水溜りに、空から降る水滴がぶつかり、波紋となって輪ができるのをぼんやりと見ながら、苗はそう言った。
ウサギは、そんな苗をどこか哀れなものでも見るような目で見ている。
「悲しくなったんですか」
「え?」
「まったく、手のかかる人ですね。星が見えるも見えないも、月が見えるも見えないも、太陽が出るも隠れるも、すべてはあなた次第なのに」
悲しい。そうなのか。そうはっきり口にされて自覚すると、さらに気持ちがずっしりと重くなる。雨の降りは一層激しくなり、濡れた髪やら洋服やらで体も重くなる。雨の水の重さ、そして、体中のあちこちに当たる感触は、嘘偽りない。現実だと苗に思い知らせる。
ああ、せっかくの新しいワンピースが……。
確かに、ちょっと浮かれていたのかもしれない。今日の日を待っていたから、こんなものまでわざわざ用意して。でも、どこへ行けばいいのだろう。
「どうすれば、この雨は止むでしょうか……」
うつむいた苗とは逆に、ウサギは顔を上げて空を見上げた。
「悲しむのを止めることでしょうね。そりゃあ、常に機嫌よくいろというのは無理でしょうけれども。自分で気付かないうちにどこかに打ち付けて痣になっていることだってあるんですからね。でも、わざわざ自分で台無しにすることもないでしょう。……とりあえずは、あの人は……あなたが行くところには来ます。そう考えなさい」
「それは、私が行き先を決めれば、ということですか」
「そうですね」
「それでなければ、あの人だってどこへ行ったらいいかわからない」
「そうですね」
空は晴れていない。どんよりとした厚い雲が覆っている。それでも、ちょっとくらいは心が軽くなっているのが、苗も自分ではっきりとわかった。
そして、空から打ち付けるように振っていた水滴は、やがて静まり、そして無くなる。まるで、駄々っ子が泣き止んだかのように。
「雨は止みましたね。結構。うん、いい傾向だ。何もかもが」そう独り言のようにつぶやいた後、ウサギは改めて苗を見て言った。「……それにしても、あまりいい趣味とは言えない」
「え……この服ですか」
「何もかもがですよ」
「そんな……じゃあ、うんとセンスがいいって言われるようなところへ行ってみせます」
売り言葉に買い言葉で、そんなことを言ってしまって、苗は少しばかり後悔をした。そんな大きな口を叩いて、どこにも行きつけなかったら。
でもいけない。そんな迷いが、道を閉ざしてしまう。
ウサギは、ふっ、と笑った。
「いい心がけです。たとえば?」
「そりゃあ、この上なく幸せな場所。他の誰も手にしていない、私だけの幸せ」
口から出まかせ、そんなような言葉であったけれども、でも、すんなりと抵抗なく出てきて、すとんと落ちていく。
また、ほんの少しだけ道が伸びた。でも、まだどこかへ繋がってはいない、切れた道。
「酷く抽象的ですね。それはどんなものですか」
具体的には、苗の中にもちゃんと形を成していない。だから、未だに道は出来ない。そこへ、小さな光がふらふらと不安定に宙を漂いながら目の前を通り過ぎていく。
この光は……。
「蛍……そう、蛍が飛んでいる、川べりの……」
それが幸せな場所、というのかはわからない。でも、記憶の奥底にある。緑と水の匂いの中のたくさんの光。大切な人がそこにいて、一番幸せな記憶。
でも、そのイメージがどこから湧いてくるのか苗にはわからないし、もうそれを思い出すことしか出来ないし、そもそも本当にある記憶なのかどうかもわからないのだから、どうしてそれが幸せなのかはわからない。それ以上の幸せは、これからあるかもしれないのだし。
それでも、苗の中で思い浮かぶ、一番の幸せはきっとそれだ。
後押しするように、ウサギも頷く。
「なるほど、それならば、もしも流星群が見えなくてもいいかもしれないですね。星の代わりに蛍が光ってくれますから。……行きますか」
「はい」
まるで、その一匹の蛍が導いてくれているようだった。どうしてだろう。まったく季節外れであるのに、蛍が現れることには疑問も持たないし、蛍がいる川べりに行けることもすんなり信じられた。
途端に、道はどこかへ繋がっていく。やがて、同じような顔色の家が立ち並ぶ景色から、徐々に塀や建物が減っていき、緑が増えていく。道の脇には草花がみずみずしく生い茂っている。川が見えてくるまでにそう時間はかからなかった。
川が流れる音がする。さらさらと。ざあざあと。あの時と同じ音。そして、同じ匂い。同じ川ではないのだろうけれど。
でも、あの時とはいつのことだ。誰との思い出なのだ。
まったくわからないし、心当たりもないけれど、腹の奥底の方が熱くなって、駆け出したい。きっと、いる。今なら、何の根拠もなくてもそう思える。
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