第8話 お茶会へ①
しかし、そのお茶会はいつなのだろうか。ふたご座流星群の頃にある、と言っていたのを思い出し、苗はその日をインターネットで調べてみた。二週間後だ。
準備はすぐにでも抜かりなくしておかなくては。
苗は、翌日にはすぐに洋服を買いに出かけた。いくらドレスコードがないと言われても、あまり適当な格好というわけにもいかないから、ワンピースの一つでもここで新調してやろうというわけだ。真っ赤な、あまりかしこまり過ぎていないが上品な、少しレトロなデザイン。
それをハンガーにかけて飾って、満足していた。さあ、いつでも来い、と。
あと二週間の猶予がある、というのか、それともあと二週間も待たなければいけない、というのかわからなかった。
その日を迎えてみても。
それまで短かったのか長かったのかは、何とも言えないのだ。それ以前に、とっくに空は闇色になっていて、月が輝いていても、トリは姿を現さない。
本当に、来るのだろうか。
それでも、着替えて準備をして待っていようか。そう思って、ワンピースに手を伸ばしかけて止めた。
いや、今日とも限らない。ふたご座流星群の頃に、という、曖昧な言い方ではなかったか。そう思い至って、結局は着替えずに、そのままベッドの上にごろりと転がってしまった。
「レディーを待たせるなんて……呼べば来るなんて言っていたくせに」
ワンピースとにらめっこしながら、苗は思わずそう呟いていた。誰もいない、誰も答えてくれるわけはない、独り言のはずだ。
しかし、ふいに紛れ込んでくる声。
「そうですねぇ、それはいけませんね。すみません、お待たせしてしまって。まさかそんなに楽しみに待ってくれているとは思わなかったもので」
「わぁっっっ!」
苗は思わず素っ頓狂な声を上げて、漫画のように飛び跳ねてしまった。また、知らない間にいつの間にかトリがそこにいる。一体どこからどうやって来たのかという疑問を抱くべきなのか、それ以前に、二度も勝手に部屋の中に入ってくることに怒るべきなのか、頭が混乱してわからなくなる。
「なっ……ど……」
「どうしました?」
別に驚くことなど何もない、トリはそう言いたそうに、目をぱちくりさせていた。だから、苗は途端に脱力してしまう。
「どうしていつもそう突然なんですか」この発言は、非常に馬鹿馬鹿しかったと、苗はむしろ反省をした。「そうでした、トリさんに常識というものを求めることこそ非常識。それに……今ははっきりと私があなたを呼んだから……ですよね」
「うん、うん、そう、そう、その通り」
トリは嬉しそうにしているが、苗は理解など何一つしていない。そういうふうに考えて自分を納得させているだけだ。それを、彼だってわかっているはずなのに。
どうして、そんなふうに笑っていられるのだろう。
「どうしてもなにも……あなたがちゃんと理解しているからですよ」
「……また勝手に人の心を読んで……」
苗が咎めるような目で見ると、肩をすくめて見せたものの、おそらく、本当はまったく反省などしていないだろう。
「まあまあ、それでもあなたはこうして、洋服まで新調して待っていてくれたじゃないですか」
「でも、どこかで期待してはいけないと思っていたことも、わかってますよね」
精一杯の抵抗として、苗はそう言ってはみたものの、本当にトリがやってきたことに対して、嬉しい気持ちをどうしても彼から隠すのは困難だ。
わかっているから、彼はくすくすと笑う。
「楽しいお茶会になりそうですね」
「でも……まさか、本当に誰かの家の屋根の上でやるわけでは……」
「だから、あれは冗談ですってば」
「じゃあ、どこで?」
「それは行ってのお楽しみ。それでは、外でお待ちしていますから、どうぞ支度をしてください。せっかく買ったワンピース、ちゃんと着てあげなくてはね」
「はい……」
そして、トリは玄関の戸を開けて部屋から出て行った。普通のことのはずなのに、それが奇妙にも感じている自分がいることに気付いて、苗はすっかり自分の概念というものが侵されているのだと、急に眩暈がしそうになった。
でも、気持ちの悪い眩暈ではない。むしろ、子供の頃におもちゃ箱のふたを開けた時のような気分になっている。
あんまり待たせてはいけないけれど、お化粧もちゃんとして、髪もヘアアイロンを使ってしっかり整える。
そして。
苗はワンピースをハンガーから外し、袖を通した。ちゃんと試着して買ったのだから当たり前なのだが、どこも過不足なくぴったり。まるで、自分のためにあつらえられたかのように錯覚してしまうほどに。
いいじゃないか、たまにめかし込んだ時くらい、そんな勘違いをしたって。
鏡に映る自分自身に勝手に満足して、苗は鞄を手に取ると、いよいよ玄関へ向かった。
トリは何と言うだろう。また何かからかうような冗談を言うか、それとも、普通に褒めてくれるのか。
いやいや、そういうことを考えていると、また読まれてしまう。
頭を振ってそんな邪念を追い払い、出来るだけ無心になるように、苗は深呼吸をしてドアノブに手をかけた。
そして、ドアを開ける。
「お待たせしました…………あれ?」
そこに立っていたのはトリではなかった。湊だ。今日もまた、キャップを目深に被っている。でも、そこからわずかに覗く目は、丸く見開かれていた。
「び…………びっくりした。今、呼び鈴を鳴らそうとしていたところだったんです」
「あ……そうなの?」
「はい」ほんのわずかな間があったが、彼は苗のその出で立ちから察したのだ。「もしかして、これからお出かけでしたか」
「うん……そのはず……なんだけど」
あたりを見回してみても、どこにもトリの姿はない。待っている、と言っていたのに。あるいは、本当にただ奇妙な夢を見ていただけだったのだろうか。知らない間にどこかで頭でもぶつけて、おかしくなってしまったとか。
いや、夢ではないことは、何度だって確かめた。
「どうかしました?」
湊が心配そうに尋ねて来る。苗は慌てて笑顔を取り繕った。こんな子供に気を遣わせてはいけないと。
「何でもない……。えっと……湊くんは何か用事かな?」
「あ……えっと……この前のウサギ、どうなったかなって」
なんだか、お互いに言葉がしどろもどろだ。苗は肝が冷えた。正直に言えない、というよりも、あれをどう説明したらいいのかわからない。
トリに関わることは、何だって誰かに話すことは出来ないのだ。いろんな意味で。
「ああ……あれね……もううちにはいないの……大丈夫……多分……」
「そうですか。飼い主見つかったんですね」
「……そ、そうね、そんなところ」
とても曖昧な物言いであったのに、なぜか湊はそれ以上深く訊こうとしてこなかった。そして、ただでさえも帽子に隠れて合わない目を、彼はさらに逸らす。
そうか、もしかすると、人見知りをするようだし、まだ苗と話すことに緊張しているのかもしれない。この前会った時もそうだったのだし。
それなのに、わざわざ来てくれたのか。苗が思っている以上に、湊はあのウサギのことを気にしてくれている。だから、なんとか説明してあげたいけれど、どう伝えればいいのだろう。
あれはただのウサギじゃない。きっと放っておいても立派に生きて行けるし、今までだってそうしてきたに違いないよ。
いや、そんな話で納得はできないだろう。
ウサギって案外強いのよ。
いや、これではあまりに子供騙しが過ぎる。この子は、賢い子だ。それに、子供は案外大人よりも聡い。嘘は嘘だとちゃんと見抜かれる。
そこで、白でも黒でもない、その間の曖昧な答えを苗は言うことにした。
「わざわざありがとう。ちゃんと、帰ることが出来たから」
「そうですか……」
そう、嘘ではない。最終的にどこへ帰っていったのかわからないけれど、姿見の鏡の中から苗の部屋に表れたあの日、ウサギはトリと一緒に帰っていった。もちろん、玄関からではなくて鏡をすり抜けて。
とにもかくにも、苗が保護する必要が無くなったのは事実だし、ちゃんと帰るべきところへ帰って行ったのは確かだ。それがどこだかわからないが。
とりあえず、やっぱりこれに関しても湊は深く追及して来ないのをいいことに、苗は少しずつ話を逸らしていこうとした。
「気になっていたなら、メールをくれればよかったのに」
「だって、連絡が取れなかったから」
「え……そんなわけは……」
苗は鞄から携帯電話を取り出した。圏外になっている。何故だ。いつからだろう。ちゃんと、料金は払っているはずだ。
もしかすると、ここら一帯が不通になっていたりはしないだろうか。
「湊くんの携帯は?」
「僕のは……」湊は鞄の中から自分の携帯電話を取り出した。ちゃんとつながっている。「苗さんの携帯、故障しているんじゃないですか」
「そうかなぁ。でも、まだ一年くらいしか使ってないんだけど。落としたりとかもしてないし」
無意味に携帯を振ってみる。そんなことしたって、繋がるわけはない……と思っていたのに。急に電波が入り出した。振ったせいではないだろうが。
「あっ……繋がった……」
「よかったですね。じゃあ……僕は帰ります。ウサギのこともわかったし」
「え……」
くるり、と、湊は苗に背を向けてから、首だけこちらに向けて言った。
「だって、苗さん、これから出かけるんでしょう」
「え……う……うん」
そのはずだが。もう一度辺りをきょろきょろと見渡してみても、やっぱりトリの姿は見当たらない。もう待ちくたびれて、どこかへ行ってしまったのだろうか。
せっかく買ったこのワンピースを着てあげなければ、と言ったのは彼なのに。
もともとあってないような約束だ。出鱈目な話だ。だから、傷つくなんていうのはおかしいだろう。それでも……。
自分の馬鹿さ加減に、苗は呆れてしまう。
背後にいる苗に向けていた首を正面に戻し、湊はぺこりと頭を下げた。
「それじゃあ……また」
「うん、バイバイ」
小さな背中がどんどん遠くなっていく。やがて、階段を下りて見えなくなってしまう。苗は、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。もうあるかどうかも、約束だったかもわからないものに、わざわざ来てくれた人を追い返してしまうようなことになって。
でも、どこかでまだ苗は期待していた。ひょっこりとトリが姿をまた現すことを。
階段を駆け下り、外の通りまで出て、探してみた。やっぱり、トリの姿は見当たらないし、どういうわけか、もう湊の姿だってどこにもない。まだ、この辺を歩いていてもおかしくはないのに。
わざわざ来てくれたのに、ごめんなさい。ありがとう。
おそらく、湊が歩いて行った方の方角に向かって、苗は心の中でそう呟いた。気が付けば、しばらくそうしてその場に立ち止まっていた。
ちゃんと、それを本人に伝えられなかったことが、悔やまれた。
心の中の靄は、そのまま大きくなっていく。トリのことに対しても。このまま待っているだけ無駄なのだろうか。じわりじわりと、悲しみと不安と失望がないまぜになったものが、胸の内に広がっていく。
どうしよう。
苗は、改めて自分のワンピースの赤いスカートを見て、その裾を少しつまんだ。そして、今度はそのスカートに謝る。
ごめんね。せっかくこんなに華やかにしてくれているのに。
しわになってしまうのを気にすることも出来ず、ぎゅっと握り締める。もう部屋に戻ろうか。そう思った時に、背後からふいに声がした。
「お待たせしました」
「え……」
苗は振り返った。
「……そうは言っても、あの少年が帰っていくのを待っていたのはこちらですが」
全く見覚えのない男。もしかしたら、自分に声をかけたのではないかもしれないと思い、苗は辺りを見回してみたが、今この通りには他に誰もいないし、彼は確実にこちらを見ていた。
背丈は成人女性の平均身長くらいの苗とそう変わらない。男性にしては低い方だろう。三つ揃えのスーツは、皺ひとつない。
「あ……あなたは?」
「わかりませんか?」
「初めてお会いしたと思いますけど……」
「そんな……声を聞いてもわかりませんか?」
「えっと……あっ」言われて気が付いた。そういえば、聞いたことのある声。どこか、威圧感がある物言い。「あの時のウサギ……」
「ええ」
「人間……だったんですか」
そうか、人狼がいるように、ウサギ人間がいたって不思議はない。そして、だからこそ、あのウサギは人間の言葉を喋っていた。いろんなことが、苗の中ですとんと腑に落ちた。
「人間が本当か、ウサギが本当か、そんな真理はないですよ。自分がどっちを本当かと思うか、それだけです」
「あなたは、どっちだと?」
そこをはっきりしておかなければ、この人をウサギと扱っていいのか、人間と扱っていいのか、わからない。
「そこは都合よく使い分けています」
「そ、そうですか……」
それが、草食動物が生き抜くための知恵とでもいうのだろうか。力が無ければ、上手く立ち回らねば、というわけか。やはり、人間というよりウサギの本能なのか。
それはともかくとして、ここにこのウサギがいるということは、もしかしたら、近くにトリはいるのかもしれない。再び、苗の心は期待が脈打ち始めた。
「ところで、トリさんはどこに?」
「ああ、彼は……先に行ってしまいました。だから、私が代わりにお茶会へご案内します」
「そ、そうですか。よろしくお願いします」
結局、お茶会には連れて行ってもらえるのだからいいではないか。
そのはずなのだが、それでもまだ、苗は何か自分の中で手放しで喜べない何かを感じていた。そんな自分の気持ちを誤魔化すように、彼女は笑って見せた。
だが、ウサギは鋭く察する。
「ご不満でも?」
「いえ、別に」
そうですか、と言って、ウサギ男は普通に道を歩き出した。苗はそれを後から付いて行く。普通の人間のように、普通に歩く。それでも、もしかすると、彼もまた、トリのように人の心を読む能力を持っていたりするのだろうか。
実際に心を読んだわけではないのだろうが、ウサギは実に的を射た言葉を投げかけてくる。きっと、ただ苗の落胆があまりにもわかりやすかっただけであろうけれども。
「ああ、そうですよね。私が代わりに来たと言っても、結果、彼はあなたを放り出して行ったようなものだ」
「……そんな、はっきり言わなくても」
ぐさりと、とどめを刺されたようだった。歩く足が、なんだか重たく感じてしまう。でも、苗のそんな落胆を、ウサギはまったく気にしていない。
「それに、私は彼のように宙を舞ったりはできないですからね」
「そうなんですか?」
「ええ。獣人というのは、別に特殊能力はないです。ただ、人間と動物の間を行ったり来たりするだけ。だから、彼のようにあなたの心を不躾に読んだりはしません」
「そ、それはよかった」
毎日通る、良く知った道から、ある角を一つ曲がったところから、どんどん知らない道へ入っていく。トリが住んでいるあのマンションまで、このウサギに連れていかれたあの時のように。
でも、なんとなく、あの時の道とはまた違うような。はっきり覚えているわけではないけれど、本当に全く初めての景色のように思えた。
これといった特徴のない、似たような家が立ち並ぶ。まるで、それが規則で定められているかのように。そういえば、大学からの帰り道、駅で同じ学校の学生たちを見ていると、それを流行というのだろうが、まるで制服であるかのように似たような格好をしている人が多い。それを見た時と同じような、ある種の気持ち悪さを感じた。
同じである必要などないのに、どうしてみんなわざわざ同じ顔をしようとするのだろう。
「どこへ行くんですか?」
この質問に、ウサギはまともに答えたくはなかったのか、ピントのずれた答えを返してくる。
「この道は、何も特徴がないでしょう。だから、道が全く分からない」
「ええ」
「それは、世界が知られずに歪んでしまっているからです」
「世界が歪んでいる?」
「ええ」
「ここは……私も知らない道ですが、本当にある道なんですか」
「道に、本当も嘘もありますか。ただ、どこへ行きたいか、それだけですよ。世界が歪んでいるとは、そういうことです」
いや、もしかすると、答えたくない、というよりは、答えられないのかもしれない。たとえば、トリが自分の生まれた場所をどの言語でも言えないのと同じように。この世の理屈では説明できないような、そういう何かがそこに生まれてしまったことが、世界が歪んだということなのかもしれない。
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