第6話 捕獲作戦

 さて、現実離れした現実に、これからどう対処していくか。マンションの前に止まっているパトカーが、否応なくそんな問題を突き付けてくる。

 ぺたぺたと、靴を履かぬ足に感じるアスファルトやタイルの感触。痛いほど、地を踏みしめることを感じる。

 苗の部屋は三階だ。エレベーターの扉が開くと、何か異常事態があったのだと告げている慌ただしさと騒がしさが、このフロアいっぱいに広がっていて、隣近所の人までもが、玄関を開けて様子を覗いていた。

 なんだか申し訳ない気持ちになり、お騒がせしてすみません、と、平謝りをしながら、苗は自分の部屋のドアの前まで行った。警察官が二人ほどそこに立っている。一人は男性で電話をしていて、一人は女性。閉まったままの扉を睨むように注視していた。

「あの……」

 声をかけると、女性の方の警察官は振り向く。

「ああ、もしかして……この家の方ですか」

「はい」

 彼女は身分証明のために、警察手帳を見せて来た。

 電話をかけていた男性の方の警察官は、家主が帰って来たようです、と電話で告げていた。

 ドンッ、ドンッ、と、何かが中で暴れまわっている音がする。そして、ドアから伝わってくる振動。狼は、ドアを壊そうとしているのだろうか。

 女性の警察官の顔に緊張の色がにじんでいた。

「管理人さんにドアを開けてもらったんですが……本当にいますね、狼」

「ええ」

「慌てて鍵を閉めて、今はこの通り閉じ込めていますが……飼っているわけじゃないですよね」

「違います……そんな……」

「じゃあ、一体どうやってあの狼は入って来たんですか?ご近所の方にお伺いしても、全く知らないというので」

 トリが言うように、ここは本当のことを話すだけ。信じてもらえるかどうかは関係ない。気が触れている人間だと思われても、致し方あるまい。実際、そうでないとも言い切れないのだから。

 勇気を出して。

「人……だったんです」

「はい?」

「今日は、訪ねてきた人がいて……その人がいきなり狼になって……何言っているのか、わからないですよね。私も、よくわかりません」

 だが、意外にも女性警察官は何かを納得したようにつぶやいた。

「なるほど……ね」

 それでも、その目はじろじろと苗のことを眺めまわしている。よくよく考えてみれば、よれよれになった部屋着で、しかも靴も履いていない。とても人前に出るような格好ではない。

 苗は、急に恥ずかしくなって、自分の体温が一気に上がっていくのを感じた。

「そ……それで、急いで逃げたもので、こんな格好だし、靴を履く余裕もなくて」

「まあ、そりゃあそうでしょうね」

 彼女は横目で電話をしているもう一人の警察官に合図を送ると、苗が話したことがそのまま電話でも伝えられた。電話で話している間、どこか馬鹿にしているような態度が見えなくもなかったが。

 現に、その男性の警察官は鼻で笑いながら電話を切ったのだから。そして、付き合いきれないというように、言葉を吐き捨てるように言う。

「もうちょっとしたら、捕獲チームが来るらしいので」

「そうですか……」

 男性の警察官は、鋭い目つきで、さらに追及するように言ってくる。

「最初からこうなるのはわかっているのに、どう責任を取るかも考えない。飼いきれなくなったなら、素直にそう言えばまだいいものを、嘘までついて……本当に無責任が過ぎませんか?」

「え……」

「我々も暇じゃないんです。こんな身勝手の始末に駆り出されるよりも、解決しなきゃいけない事件は山ほどある」

「嘘って……」

 信じてもらえないだろうというのは、わかっていたことではないか。それでも、こんなふうに言われてしまうと、苗ももうどうしていいのかわからなくなる。そうやってただ狼狽えているだけなのが、相手に苛立ちと不信感を募らせるだけだというのもわかっているのに。

 呆れたようなため息が聞こえてくる。

「それ以外の何が考えられます。小学生だってそんな言い訳に騙されませんよ」

「そんな……」

 どうすれば信じてもらえるだろう。きっとこの人は、どんなに目の前で現実的ではない不条理なことが起こっても、決して認めない、常識的なものが絶対、と思っている人なのだろうというのは、もうこの態度だけで伝わってくる。

 そうして生きてきた人に信じてもらおうと思うのは、苗が傲慢なのだろうか。

 だが、そこで女性の警察官が苗に助け舟を出してくれるように、こう言ったのだ。

「でも、管理人さんの話によると、今日彼女の部屋を訪ねた時には狼などいなかったと言いますし、訪ねて行った時も、彼女に用があるとやって来た人を連れて行ったと言っていましたので……それと彼女の話を照らし合わせてみると、矛盾はないように思いますけどね」

「まさか、彼女に用があると言ってやって来たその客が、狼になったとでもいうのか?」

 しん、と、一瞬場が静まり返る。吹き付ける風がひやりと肝を冷やす。それにも関わらず、その問いに彼女は頷いた。

「そういうことなんじゃないですか?」

「お前は馬鹿か?」

「あなたこそ、もしも彼女が言っていることが本当のことだった場合、そうやって全く話を聞き入れなかった責任をどう取るつもりですか」

「そんな馬鹿なことがあり得るわけがないだろう」

「嘘であるとか、取るに足らない些細なことであるとか、そうやって切り捨ててきて、後で大事になった事件が、一体いくつあると思っているんです」

 心当たりがないわけではないのだろう。男性の警察官は、すこしきまり悪そうにしていた。

「仮に、嘘を言っていないとして、お前はその不条理にどう対応する。狼に変身した人間は、人間なのか、それとも狼なのか?人として裁くべきなのか、狼として捕獲するのか?」

「よかった。ちゃんとまともに考えてくれるんですね」

 その言葉は、彼には皮肉に聞こえたのか、ムッと顔をしかめた。

「例えばの話だ」

 しかし、その問題に対して答えが出る前に、保健所の職員が到着した。相変わらず、時折狼が扉に体当たりしているの音が聞こえてくるのを、保健所の人も少々驚いたように聞いていた。

「すみません、お待たせしました」

「いいえ、わざわざありがとうございます。しかし、せっかく御足労願ったのに、もしかすると、狼として捕獲するべきではない可能性も出てきまして」

「え、でも……中にいるのは狼なんですよね」

「狼であり、狼でない」

「どっちなんですか」

「だから、悩んでいるんです」

「悩んでいる?」

 保健所の職員は、疑問符を浮かべた顔をして、戸惑っていた。そこで、男性の警察官がぼそりと提案する。

「とりあえず、開けるべきだろう」

「そうですね」

 その場にいた四人ともが息を飲んで、意を決した。保健所の職員がドアノブに手をかけ、捻る。ゆっくりと、おそるおそるドアを開けた途端に、狼が飛び出してくる。

「うわっ!」

 一番に声を上げたのは、男性の警察官だったが、それも致し方あるまい。狼は扉の前に立っていた保健所の職員を弾き飛ばして、彼をめがけて飛んできたのだから。もしかしたら、一度扉を開けて確認した時に何かをやらかして、この狼を怒らせたのかもしれない。

 だが、彼に掴みかかる直前で、咄嗟に彼は狼の脇腹を蹴りつけ、跳ね飛ばすことが出来た。そうして転がって壁に当たると、その衝撃からか、狼の姿は急に変わった。女の人間へ。

「……う……ぐぅ……」

 痛みに腹を押さえて、狼だった女は唸り声を上げる。

「ほ……本当に……人間……」

 だが、流石は警察官というべきか、ただ驚いて茫然としているわけではない。彼は素早く、人の姿になった紗枝の腕を捻って地に付させて取り押さえた。そして、保健所の職員に向かって叫ぶ。

「早く、また狼に戻る前に、麻酔銃を」

「え……あ……」

「早く!」

「は、はいっ!」

 パンッ、と、乾いた音が響き渡る。麻酔は紗枝の肩に見事に命中した。それにも関わらず、普通の人間でも狼でもない彼女には、直ぐには効かないのか、なおも暴れている。苗を睨み付けながら。

「ふざけないでよ、この中にいる間、人間に戻れなかったわ。……あなた一体何したの?」

「何って……」

 私がしたわけじゃない。苗はそう言おうとしたが、それでは彼女にも警察官達にもトリのことが知れてしまう。

 考えなくてはいけないそれらしい言い訳は、彼女に対してだったのかもしれない。

 そんなことすら考えている場合ではないと、苗は頭を必死に働かせたが、その前に、紗枝の意識は混濁したようだ。へにゃりと力を失って地面に突っ伏した。

 全員が、我知らず、ほっと大きく息をつく。

「とりあえず、檻の中に入れておくべきですかね」

 女性警察官の問いに、男性警察官は慎重に答えた。

「いや……でも、きっと今まで人間として暮らしてきたんだろうから、人間としてその扱いは……それに、人間として逮捕するにしても、何も罪は犯していないから、拘置所に入れておくのもな。かといって、狼をそのままにしておくわけにもいかないし……いっそのこと狼の姿のままでいてくれた方が、こちらも躊躇いが無かったんだがな」

 実際に狼が人間になったのを目の当たりにしたら、彼も最初のように冷酷に切り捨てる態度を取れなくなったのか。

 深刻な面持ちで悩んでいる警察官二人に、保健所の職員が恐る恐る提案した。

「で……でも……ここはやはり、安全を一番に考えて、いったん保健所で預かっておきましょうか」

 いろいろ考えても、結局はその結論しかないだろう。二人の警察官は各々頷いた。

「そうするしかないですかね。目を覚ました時に暴れられても困りますし」

「とりあえずは……そうしますか。処遇については、上に相談してゆっくり考えましょう」

 そうして話がまとまると、男性警察官はまた電話をかけ、上司と連絡を取っていたのだろう。その間に、保健所の職員は紗枝を担ぎ上げて運んで行こうとした。

 だが、ちょっと待て、と、電話をしていた男性警察官が身振りで制し、ごく短い会話をした後に電話を切ると、彼はこう言った。

「眠っているうちにいったん警察に連れて来いとのことで……彼女はこちらで預かります」

「え……そ、そうですか。じゃあ、このままパトカーまで運びますね」

「はい、お願いします」そして、男性の警察官はくるりと苗の方を振り向く。「それから……あなた」

「は、はい……私、ですか?」

 彼は確実に苗の方を見て言っていたのに、思わず訊ねてしまった。何をわかりきっていることを、と、どこか苛立ったように、彼の片方の眉がピクリと動いた。

「そうです。いろいろお話を伺いたいので、署まで来てください」

「は……はい」

 明らかに怯えている苗に、ますます彼は苛立ちを募らせたようだ。だから、どう言ったらいいのかわからなかったのだろう。そう心配することはない、ということを。説明の言葉は、酷くぶっきらぼうだった。

「あなたの言ったことは本当だともうわかりましたから。何も、あなたを糾弾しようというわけではありません。人狼がやって来た時の詳しい話を聞きたいだけです」

「そ、そうですか……わかりました」

 こら、と、小さい声で言いながら、女性警察官は男性警察官の脛を軽く蹴った。

「いたっ!」

「こちらが頼んでいるんだから、もっとそれらしい態度っていうものがあるんじゃないですか。ぎりぎり平成生まれのくせに、先輩みたいな昭和を引きずっている人は、それが正しい警察官の在り方だと思っているのかもしれないですけど、だから、警察は高圧的で、何様なんだと、嫌われる側面があるんですよ」

 じろりと彼女に睨みつけられて、彼は咳払いをすると、改めてこう言った。

「お願いします」

 意外と可愛いところもあるのだと思ったら、苗は思わず笑ってしまいそうになった。けれど、必死に堪える。ますますこの人を怒らせるようなことをしてはいけないし。

 パトカーの車中では、運転をするのは男性警察官、助手席には意識を失っている紗枝、後部座席に女性警察官と苗が座るという、不思議な座席配置になっていた。

 警察署までは車で五分ほどだ。発車してから三分ほどは経ったと思われるけれど、会話は一言もない。きっと、男性警察官はさっきの一言が不本意で、怒るというより拗ねてしまったのだろう。それをわかっているからこそ、女性警察官も何かを言ってこれ以上彼のへそを曲げないようにと、口を閉ざしているのかもしれない。

 けれど、ようやく心が落ち着いて来た苗は、ある瞬間に、女性警察官に言わなければいけないことを、とうとう口に出して言った。若干、藪から棒であったかもしれないが。

「あ、ありがとうございます。ちゃんと、話を聞いてくれて」

「いいえ。私たちはいろんな人と関わることがあるからこそ、あり得ないことをあり得ないと決めつけてはいけないと思うだけです。そんなこと馬鹿馬鹿しい、って聞き流していると取り返しのつかないことになることもあるので。……でも、先輩は嘘や本当にくだらないことにも相手をさせられているからこそ、信じられないことを簡単に信じないのかもしれないけれど」そして、彼女は子供のような、悪戯っぽい笑みを見せる。「まあ、そういう建前を取っ払うと、私はただ、そういう不思議な話が好きなだけだし、信じているんです。その方が、人生が面白いでしょう。人生とは一つの物語なのだって」

「人生は、一つの物語……」

「そうですよ。どんなに平凡でつまらない生活を送っているように見える人だって、撮り方によっては、壮大なドラマの映画になり得る。とりあえず、深みのある声の詩的なナレーションと、壮大なBGMでもあればね」

 しっかり二人の会話を聞いていたのか、赤信号で車が止まったのを機に、男性警察官は口を挟んできた。

「ずいぶん安い映画だな」

「人生は、そうやっていくらでもドラマチックに出来るっていうことを言いたかっただけです」

 彼はちらりと左隣に目をやった。まだ眠ったままの紗枝。狼だった彼女に襲われかかった記憶の恐怖から逃れようとでもするかのように、信号が青になってアクセルの踏み具合を間違えてしまって、急発進になってしまう。

 そして、彼はぽつりとつぶやいた。

「でも、今のこの状況、ドラマチック過ぎないか?」

「まあ、そうですね……」

 その後の二分間、また会話がないままで、パトカーは警察所に到着した。

 どうやって、トリのことを話さないようにあの状況を説明できるか。どこかで夢み心地だったのが、急に現実味を帯びてきて、苗はそのことをきちんと考えられていなかったことに焦りを感じた。

 とりあえず、警察からの質問に対しては、どうにか家から逃げ出して友人の家へ駆けこんだ、ということにしておいた。もし裏を取られそうなことがあったら、真紀に頼んで口裏を合わせてもらえばいいだろう。

 あの女性警察官に対して、本当のことが言えないのは若干心苦しくもあったが。

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