第5話 鏡をすり抜けて②
それにしたって、腹が立つことに変わりはないが、苗は黙って聞く。そんな彼女の心中を、彼は当然読み取り、勝手に頷いていた。
「別に、狼に対してだけじゃない。誰にだって僕の存在は知られては困るから。わかるでしょう、こんな力を持っているんだから」
「まあ……そうでしょうね。でも、私にはいいんですか?」
「うん、良い質問ですね。……それは、くじ引きで当たったからです」
「はい?」
やっぱり、まともに話をする気などないのか。だが、トリはにやりと笑いだしたので、別の意味で、まともに話をする気がないのだろうか。
「というのは冗談ですが、あなたがこのウサギに気が付いたから、というそれだけのことです。周りなど目に入っていない人や、ウサギごとき、と思うような人にこのウサギを預かってもらうわけにはいかないですからね。まあ、ようするに、あなたが親切な人だったから、ということです」
「言い換えれば、お人好しをいいように利用しようとした、っていうことじゃないですか」
「そんな……僕はそんなことは一言も言ってないですよ」
「言ってないだけで、そこに込められた意味は同じですよね」
「まあ、それはさて置き……」
彼は綺麗に話を誤魔化そうとしている。けれど、そこを言及する言葉遊びは、どうしても不毛で時間を浪費するだけだ。もう、この人とまともな会話をすることは諦めた方がいいのかと悟りつつ、苗は不満げな視線だけ送り、先を促した。
「まあ、ここからが肝心なんですけど……理由はそれだけじゃないですよ。あなたはあの狼がたどりやすい伝手を持っていた。遠いようでそれなりにつながりはある。鼻が利くからウサギの居場所はすぐにわかる上に、おまけに尋ねて行っても不自然のない理由まであると来ている。そうやってウサギを拾ってくれた親切な人のところへあの狼は必ずやってくる。あわよくば、ウサギだけではなく、それを保護したお人好しまで美味しくいただこうという腹積もりでしょう。僕が網を張っているとも知らずに。そう、あなたのあの部屋は、まさに網になっているんですよ」
「どういうことですか?」
トリは、ほとんど何もないような部屋の床に放り出すように置いてある電話のところまで歩いて行き、そしてそれを手に取った。
「この電話、ちゃんと線は繋がっています。あなた、ここから電話をしてください」
「どこへですか?」
「もちろん……警察です」
「え?」
すっ、と、その電話を苗の方へ差し出しながら、彼はにっこりとどこか慈悲深くも見える微笑みを見せ、その笑みとは正反対の言葉をその口は吐き出す。
「獣はおとなしく檻に入っていてもらいましょうね」
なるほど、合法的に対処するということか。
「で……でも、何て……」
そう、不法侵入でもないし、今のところは誰も殺してはいないし、彼女はまだ罪を犯してはない。法で裁けるだろうか。
「そのまま言えばいいんですよ。狼に襲われましたって」
「そんなの警察だって信じるわけ……」その時、苗は彼の真意を理解した。「檻って……牢屋じゃなくて、動物園とか、動物の保護施設の檻の中……」
「まあ、そういうことです。さっきも言ったでしょう。あの部屋にいる限りは、あの人はもう人間には戻れないように、ちょっと細工をしておいたと。警察もあの部屋に行けば信じざるを得ないでしょう。それに、牢屋だったらいずれまた外に出てきてしまうでしょうが、動物として閉じ込めておけば、問題はない。あの部屋から出て物理的には人間に戻れるようになったとしても、狼として一度捉えられてしまえば、もう状況的に人間には戻れないでしょう。分別を失くして戻ったら戻ったで、見世物にされる末路が待っているだけですからね。どちらにしても、彼女の負けです」
「な……なるほど……」
そうして、苗は警察に電話をかけ、そのまま、狼に襲われたことを告げた。最初は不可解そうな様子で、頭のおかしい奴が誤報をしてきたのだと思われているのは明らかだった。そんなオペレーターの声に若干不安を感じたもの、いかにおかしな通報であっても警察としては動かざるを得ない。ちゃんと苗の部屋へと向かってくれたようで、三十分後にかかってきた折り返しの電話で、警察も信じざるを得なくなったことを知り、ほっとした。そりゃあそうだろう。実際にあの部屋に狼はいる。物語に出てくる、狼がいるぞと嘘を付いた、オオカミ少年ではないのだ。
電話を切って、苗は息をついた。
「とりあえず、保健所の人が来てくれるらしいです。詳しく話を聞きたいので帰ってきてほしい、って言われたんですけど」
「ええ、どうぞ」
「じゃあ、失礼します……」そう言って帰ろうとして、苗はふと不安になった。「ふ、普通に玄関から出て大丈夫ですか?」
「ええ、そりゃあそうでしょう」
「そ、そうですよね」
どこまで常識というものを当てはめていいのか、もうわからなくなってくる。家から出るときは玄関から。当たり前のことだ。それすら、疑ってしまうくらいには。
常識は常識としてまだそこに堂々と居座っていることを忘れてはいけない。そうなると、新たな問題が浮かび上がってくる。
玄関へと歩き出していた苗は立ち止まって、彼の方を振り向いて訊ねた。
「……警察の人や管理人さんにはどう説明したらいいでしょうか。私の部屋に狼がいるだなんて、どうにも不自然な要素しかないですよね」
「うん……そこは……どうにか適当に誤魔化しておいてください」
「丸投げですか!」
ちっとも深刻になど受け止めていないかのように、彼はこんなことすらあっさり言う。
「無責任というよりは、そこまで考えていなかっただけです。ほら、僕は常識の外側にいますからね」
「屁理屈じゃないですか」
そんな屁理屈を考えられるくらいなら、人を上手く丸め込めるような、適当な理由などいくらでもこの人の頭からは出てきそうなものだが。単純に、面倒くさがりな人がさぼるためにいろいろ労力を割くのと同じなのだろうか。苗としては、そんなにさぼるために頑張るなら、普通にやればいいのに、と思うのだが。
「記憶操作とか出来ないんですか?」
「無茶を言わないでくださいよ」
「すみません、あなたには何が無茶なのかよくわからないもので」
「そりゃあ、ごもっとも。……では、無茶ではないことの一つとして、お家までお送りしますよ。また、空中散歩をしましょう。くだらない話でもしながら、そんな破天荒なことをしていたら、何か素晴らしい言い訳も思いつくかもしれないですよ」
「……それもそうですね」
「それに、あなたの足……普通に地面を歩けないでしょう」
「あ……」
言われてみればその通りだ。部屋の中からここにいきなり連れて来られたのだから、靴を履いていない。
それに、きっと彼は知っている。苗が本当はまたあの空中散歩をしたいと、どこかで思っていたことを。だから、こんな提案をしてくれたのもあるのだろうかと思うと、ますますこの人がわからなくなる。人をからかっているだけなのか、優しいのか。
そんなふうに苗が考えていることは、やっぱり彼には読まれてしまっている。若干不躾とも言えるようなことを、彼はぼそりと呟いた。
「別に親切でも優しくもないですよ。そうですね、からかっているというのは、少なからず当たっているとは思いますけど」
「そういうことは、口に出さないのが、いい男じゃないですか」
「そういうもんですか?」
「そういうもんです」
彼は首を捻った。でも、そんなことを深く考えてもしょうがないと、直ぐに思考を放棄してしまったらしい。
「まあいいや。それじゃあ、行きましょうか。……とはいえ、近所なのですぐ着いてしまうのが残念ですが。警察も家で待っているので、あまり遅くなるわけにもいきませんし」
「はい、そうですね」
苗は、差し出されたトリの手を取った。
ドアを開けて一歩踏み出そうとした瞬間に、その足は地を踏まず、ふわりとそのまま体を浮かせる。あの時と同じ、ふわふわした、足元がおぼつかなくて、どこか夢み心地な感覚。
そして、あの時と同じように、また頬をつねってみてしまう。どうしても、これは夢ではないのかと確かめてみたくて。
少しくらい宙に浮いたところで、太陽は近くはならないけれど。足元に広がる、ミニチュアのような家々。道を歩いている人も、何人か見かけた。
すると、苗は一つ気になった。
「……誰かに見られていたりしないですかね」
「そんなこと、気にしますか?」
「驚かれるかなって……私が気にするっていうか、トリさんに不都合があるんじゃないかと。狼に存在を知られたくなかったって言うくらいなので」
「ああ……でも、空を見上げて歩くようなロマンチストなら、こうやって宙を浮いている人間も歓迎してくれるんじゃないですかね。滅多にいないとは思いますが。憂鬱そうに下を向いて歩く人ばかりだし」
言われてみれば、通り過ぎる人は誰も頭上を気にしていない。そういう理屈にしたって、少し不自然なくらいに。もしかすると、彼は何か細工をしているのかもしれない。
彼はどこか誤魔化しているように、話題をすり替えた。
「そんなことより、あなたの部屋に狼がどうしているのか、上手い言い訳は思いつきましたか?」
「そうでした……どうしましょう」
踏ん張らなくていい脚が、思わずふらついてしまう。歩くことは踏みしめることだと、それが当たり前だと、重力の中で生きてきた人間には、染み込んでしまっているのだ。
それを、トリが支えてくれた。
「まあ、でも本当に出鱈目でいいと思いますよ。そもそも、常識からしたら出鱈目なことが起きている状況なんですから、何を言っても冗談のようで説得力はないんですから」
「いや、でも、そういうわけにも……」
「生真面目だなぁ……。三匹のこぶたの話でもしておけばいいのに。あながち嘘でもないでしょう」
言われてみれば、確かに全く的外れというわけでもないかもしれない。しかし、いくらなんでもそれは警察を馬鹿にしすぎだと、逆鱗に触れてしまうのではないか。
「どうせ信じてもらえないなら、本当に本当のことを話したっていいんだろうし」
「え?」
「訪ねてきた人間が狼に変身したんだって」
「い……いいんですか、言っちゃって」
「だから、言ったでしょう。何でもいいんだって。話を聞いているほうにしてみれば、何を言われても信じるしかないし、何を言われても馬鹿馬鹿しくて信ぴょう性がないから信じられない。だから、何を言おうが、あまり大した影響はないっていうことですよ」
だから、彼にしてみれば最初から考えるまでもない問題であったから、あまり関心がなかったのか。
苗は脱力してしまいそうだった。思い悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しくて。もう、あまりあれこれ考えずに、空の散歩を満喫しよう。
そう気持ちを新たにしたというのに。
気が付けば、もう苗の住むマンションは見えてきていた。本当に、あっという間だ。時間にすれば、きっとあと三十秒。
トリは、やっぱり人に見られることを気にしていない。警察が待ち受けている苗のマンションのすぐ傍まで連れて行ってくれたのだ。
そして、地に足を付けると、彼は苗の手を離した。
「ここまでです」
どこか、耳から聞こえてくる音ではないような、もっと近いところにある声。
この時、苗は思い出していた。初めて彼に会った時のことを。突然に意識が遠のいて、まるですべてがリセットされてしまったようだった。この青年の存在が、幻であったかのように。
今回もまた、そうなるのだろうか。
その前に、聞いておかなければならないことがある。苗は急いで声を絞り出した。今のこの時間が消えてしまう前に。
「あの……」
「何でしょう」
彼はちゃんと答えてくれる。相変わらず、その声はどこから聞こえてくるのかわからない響きをしていたが。
「……この間、言ってましたよね。呼べばいつでも会えるって。今日も私が呼んだからだって」
「ええ」
「それって、どういうことなんですか」
「そのまんまですよ」
返事は期待したものではなかった。それでは、何も答えてもらえていないのと一緒だ。でも、しつこく食い下がっても、これ以上の答えは得られないだろうということはわかっている。苗の思考を読んでいるのに、それしか言ってくれないのだから。
「他に何か訊きたいことは?」
だから、そう訊かれても、こう答えるしかない。
「……いいえ、ないです」
「そうですか。それでは、僕はこれで失礼しますよ」
さようなら、も、ありがとう、も、言う間もなかった。瞬きをしているその一瞬で、彼の姿は見えなくなる。
でも、あの日のように、ブラックアウトして、この空中を漂った時間が無かったことにされるようなことはない。
「何だ……普通にいなくなることも出来るんだ」
そんなつぶやきが、夜空に虚しく響き渡る。最早、何が普通なのかはわからなくなっているのかもしれないが。
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