第4話 鏡をすり抜けて①
全身が通り抜けるのは、足の先に狼の鼻先が届くその寸前だった。苗とウサギは、別の鏡から別の部屋に出てきていた。
見覚えのない部屋。あまり物がなく、生活感が感じられない。誰かがここに住んでいるわけではないのだろうか。でも、その割にカーテンはかかっていて、しっかり閉められている。だから、部屋の中は薄暗かった。うっすらと、カーテンの向こう側から漏れてくる陽の光が、少しだけ現実感を与えてくれる砦のようにも思えた。
きょろきょろと部屋を見渡していて、ふと背後を振り返った時に、人が立っていた。苗は驚いて思わず声をあげてしまった。
「わっ……」
トリだ。彼は、驚いている苗を見て、少し愉快そうに笑っていた。
「驚かせてすみません。大丈夫、もう扉は閉じたから、狼は追って来られないですよ」
「あ……」
驚きと安堵で苗は半分放心していた。だから、言葉が上手く出て来ない。彼に会う時はいつもそうだ。この間だって。少しくらいは格好つけて、不思議なことがあったって、恐ろしいことがあったって、余裕だというふりくらいは見せたいのに。
どうして、そこまで見栄を張りたいのかはわからないけれど。それでも、苗はしゃんと姿勢を正して、息を深く吸って呼吸を整えてから言った。
「ここは……どこですか?」
「異次元の世界……」人狼が実際にさっきまで目の前にいるような事態があり、この人からもう何を言われても苗は信じるしかないと思っているので、そんなことを言われてもすんなり受け入れてしまうところだったが、彼は苦笑した。「……だと思いました?」
「え?」
「残念ながら、僕の部屋です」
「もしかして、この間の、あのマンションの?」
「はい。だから、単に、別の空間につながった扉になっている鏡をくぐっただけ、というやつですね。ほら、かの有名な漫画に出てくる、なんちゃらドアみたいなものです。別に、鏡じゃなくても何でもよかったんですけど、偶然そのウサギが鏡の近くにいたもので、呼びかけたら気づいてくれたんですよ」
それを、単なる、と言っていいものなのか。そこで、今は必要ではない好奇心がむくむくと沸き起こってきてしまう。
まさか、ウサギと話が出来るなんてそんなこと……と、苗は言おうとして、それは馬鹿馬鹿しい発言だと気が付いて止めた。ちゃんと常識的な理屈通りなことと、そうでない破天荒なことと、一体どこにその境目があるのかはわからないけれど、きっと、この人には動物と話を出来る力くらいあるのだろう。その場にいる必要さえなく。
苗は何も問いかけてはいない。しかし、彼はにこりと微笑んで、苗の中に漠然と浮かんでいた疑問に答えるようなことを言った。
「言ったでしょう。呼ぶんです」
「呼ぶ……」
「そう、あなただって必要だから、僕を呼んだ」
「呼び……ましたかね」
あの状況で、そんなことも考えられていなかったとは思うが。この人は、一体どこまで本気で言っているのだろうか。
だんだん、ただからかわれているだけのような気もしてくるが。
その時、不意に、ちりりん、と、小さな鈴の音がしたと思ったら、いつの間にか彼の足元にはキジトラの猫がいた。赤い首輪についている鈴が鳴ったのだ。
「その猫は、あなたの猫ですよね」
「ええ」
「もしかして、鳴き声が聞こえないところで猫が呼んでいてもわかるんですか?」
「そうですね。……でも、彼女はあまりお喋りではありませんから、そんなに相手はしてくれませんけど」
「じゃあ、このウサギは……」
説明しなくても、彼はまた苗の心を読んだのだろう。言いたいことを察していたようだ。多くを説明するまでもなく、聞きたいことをそのまま答えてくれた。
「僕のウサギじゃありません。確かに、僕はあの人からウサギを盗みました。あの人は単純に一緒に暮らすために飼っていたわけじゃない。あのウサギは、狼の餌になるところだったんです。だから助けた」
「確かに、御馳走だから返して、って言っていました」
「そうでしょう。そりゃあね、生き物である以上、何かを食べて生きていかなければいけないのだから、あの狼が悪だとは言いません。ただ、ウサギにも生きる権利はある。抵抗できないものに力を貸したかった……というのは建前で、本音を言うなら、彼らのやり方は下品で好きじゃないんです。童話の赤ずきんやら、三匹の仔豚やら、ああいうのに出てくる狼のイメージは、そんなに間違ってはいないです」
「まあ……そういうイメージがなくても、単純に怖いですけど」
「猫には長靴、ウサギにはチョッキ、彼らはお洒落だ。だけれど、狼ときたらどうだ。何かに変装するにもセンスのかけらもない。食事をする時だって、目をぎらつかせて大きな口を開けて、よだれを垂らしながら、きちんといただきますの一言さえ言わない」
「でもあの人……人間の姿の時は、とてもおしゃれで上品そうに見えましたよ。それが演技だとしたら、変装の名人だし、素だとしてもそう下品ではないということでは……」
「人間としてはね」
「彼らは一体何で変身するんでしょう。物語だと、満月の夜っていうことになっていますけど、堂々と真昼間に変身しましたよ」
あまり狼について深い話はしたくないのか、彼の眉間にはうっすらと皺が寄った。
「狼男も狼女も、まとめて人狼って言うんですけどね。物語とは違う。べつに、何かの条件があって変身するわけじゃなくて、彼らの意思で好きに変われるんですよ。人間にも狼にも。だから、あなたが懸命に考えて、クローゼットの中にウサギをかくまおうとしたのは、残念ながらあまり意味はなかった。……本来ならね」
「そうですか……」
あの場では、それが精いっぱいのできることだと思った。一分一秒であっても、生き長らえるために。そう、でも、あのままでは遅かれ早かれ、辿る運命は同じだった、そう言われればそれまでだ。
結局、何も役にも立たなかったんだろうか。そう考えると、落ち込んでしまう。
それは、表情に出ていてもいなくても、彼には伝わってしまうのだが。そして、案の定、慰めの言葉をかけさせてしまうことになってしまう。
「でも、そう落ち込まないでください。あなたの勇気は称えられて然るべきです。結果を見れば、あなたが踏み出したから、ウサギもあなた自身も助かったんじゃないですか」
「え……そ……そうですか」
「誰も褒めてくれないなら、せめて僕と彼……この猫くらいからは褒めさせてください」にゃあ、と、猫は何かを語り掛けるように一声鳴いた。そのくりくりとした大きな二つの目を、苗に向けながら。「これは、慰めでも気休めでも同情でもないですよ」
まだ苗が信じていないのを読み取った彼は、念を押すようにそう言った。もう、認めざるを得ない。
「じゃあ、有り難くその言葉を受け取っておきます」
「そう、素直が一番です」
なんだか少し照れくさい。それを誤魔化すかのように、苗はわざと話題を変えた。
「それはそれとして……あなたはどうしてそのウサギを自分で保護しなかったんですか。自分のウサギだなんて嘘までついておきながら」
「その点に関して、あなたが僕に対して胡散臭さを感じるのは致し方ないです。ただ、僕の行動に常識的な整合性を求めてはいけないこともわかって来てもらえているようではありますけど。それでも、ちゃんと説明しなくてはいけませんね」
「ええ、是非」
彼の視線は、足元に座っているキジトラの猫に注がれた。
「どうも、この猫……
はぐらかされた。彼は、本当のことを言っていないのは、心を読めない苗にもわかる。嘘が下手だとかいうことではなくて、本当のことを話す気がないのだというのが、ありありと伝わってくる。
落胆、失望、そういう気持ちをどうしたってトリからは隠しようがないので、苗はあえて不満げな視線を投げかけた。
彼は、苦笑するだけだ。
「それで……私に一度このウサギの面倒を見てほしかったから、あの時私をわざわざ呼び寄せたんですか」
「まあ、そういうことです。あの時、あの場でそれを説明してしまったら、こういう危険に巻き込まれる可能性は大いにあるわけですから、あなたは当然嫌がるだろうと思ったんで、言えなかったんですよ」
「なるほど……と、うなずけるくらいには、論理的ではあります」
「半信半疑だけど?」
「はい」
素直な返事に、あははは、と、声を上げて彼は笑った。
「まあまあ、僕だって、こうなる可能性を考えていなかったわけじゃない。だから、いつでもあの鏡を通れるように準備はしていました。ウサギにはそのことを伝えてありましたし。それに、あの狼は、一度狼になるとあの部屋にいる限りは人間には戻れないように仕掛けもしてありました」
「……そうですか」
結果的にはこうして助かったのだし、それでいいと言えばいいのかもしれないが。でも、どうにもうまく丸め込まれているような不信感はぬぐえない。
それに、一つの事実に気が付いてしまう。
「……っていうことは、さっきの私に対する誉め言葉っていうのは、思いっきり皮肉ですか。勇気がどうのこうのって言ってましたけど、結局はその勇気が徒労だって……」
トリはわざとらしく苗から視線を逸らし、ついでに話題も逸らした。
「まあ、信じろと言っても無理なのはわかりますよ。それに、逃げられただけで、あなたの部屋は狼がうろついているままですからね。このままお帰りください、というわけにもいきませんよね」
「どう……するんですか。まさか、殺すとか……」
すっと、彼は目を細めた。まるで、矢の狙いを定めるように。
「自分の命を奪おうとしてきた相手がいて、生きるか死ぬか、の場合でも、相手の命を奪いたくない……。じゃあ、あなたが殺されますか?」
「だからって……」
確かに、甘い考えではある。今まで、そのように生命の危機に瀕したことがないからだ。だからといって、それを許してしまうと、自分もまた獣になることになるだろう。そのことが恐ろしいのか。
あれこれ巡らせた考えは、彼にそのまま筒抜けになっていることを、この時苗はすっかり失念してしまっていた。
気が付いた時には、彼はにやにやと笑っている。
しまった、からかわれただけだ。
「冗談ですよ。こう見えても僕は平和主義者です。だから、ウサギも助けた。それに、自分の気に食わない相手をこの世から消し去りたいと思うほど、傲慢でもないつもりです。地球は僕を中心に回っているわけじゃないですからね。それに、彼女一人をどうにかしたところで、あちこちにゴロゴロしている人狼たちは、また同じ騒ぎを起こすだけだ」
「やっぱり、他にもいるんですか?」
「そりゃあね。この世に彼女一人っていうことはないでしょう」
「そりゃあ、そうですよね。でも……絶滅危惧種とか。ニホンオオカミみたいに」
彼は首を横に振った。そして、何やら意味ありげに、絶滅危惧種……ね、と、つぶやく。
「それなら、動物園にでも連れて行って保護してもらいたいところですが、そうじゃないんですよね。……どうやってあの狼を追い払い、二度と近づけなくさせるか。知恵の見せどころですね」
「あなたの力なら、ズルをすることも可能なのでは」
「実のところ、そうなんですよね。でも、なんだか特殊能力よりも、知恵で勝る方が格好良くないですか」
「そうでしょうか……」
「そうですよ」
不思議な力を持った人がこういうことを言うのは、感心する。しかし、そう判断するのは、あまりにも自分は単純すぎたと反省する羽目になるだけであった。
彼は見たことのない、邪悪な闇の商人とでもいうような顔をしていた。
「知恵でも力でも、完膚なきまでに叩きのめさなければ」
「え……」
「その布石はすでに打ってあります。あなたがここにいることでね」
「私が?」
ほんの少しであるが、彼の様子に苗は違和感を感じた。視線が彷徨い始めたからだ。苗は、厳しく追及するように、それを許さず、じっと視線を送り返す。すると、観念したのか、彼はぽつぽつと語り始めた。白状、とも言うのか。
「そうです。本当のところは、それがあなたにウサギを預けた目的でもあったんですが……それを言っちゃったら、あなたは怒りますよね」
「だから、さっき誤魔化したんですか」苗は詰め寄った。きっと、すでに怒っているのはもう充分に彼には伝わっているだろう。たとえ心が読めなかったとしても。「あなたはやっぱりずるい人です」
「僕が特殊な力でズルをして物事を見抜く超能力者とすれば、あなたはホームズ並みの鋭い観察力でもって物事を見抜く探偵ですね」
「超能力者……」
「まあ、そういうことにしておいてくださいよ」
その不思議な力を、超能力という言葉でまとめれば、なんとなく腑に落ちる感じはする。なるほど、と、何か一つ納得して満足しそうになって、苗は我に返った。
危うく騙されるところであった。いけない。
「……なんか、さりげなく話を逸らされた気がしますが。……それで、本当は一体何を企んでいるんですか」
「うーん……聞いても本当に後悔しませんか?」
まるで、親切な気遣いを見せているような言い方に、苗は若干苛立ちを感じた。ただからかわれているだけとわかっているのに。
「しません!」
「絶対?」
「しつこいですよ」
「怒らないと約束してくれますか?」
「出来ません!」
「じゃあ話せないなぁ……」
「子供ですか!」
「大人だと思わないでください」
「開き直らないでくださいよ……」
苗は脱力してしまった。こんな言葉遊びをしている場合なのだろうか。ここは、大人だと思うなという言葉をそのまま素直に受け取って、苗が大人になるしかあるまい。
ため息とともに、彼女はこう言った。でも、譲歩ではあっても完全には譲らずに。
「わかりました……出来るだけ感情的にはならないように気を付けますから」
「そうですか。……じゃあ、お話しますね。僕が立てた作戦はこうだったんです。この力を使ってウサギを逃がすことは出来ても、逃がすだけしかできない。それに、このウサギ一匹をどうにか助けることが出来たところで、食欲というのは生きていくのに必要な欲だし、無くなることはないから、また別の何かの生き物があの狼の餌になるだけだ。だからといって、さっき言ったように、こちらの一方的な都合だけで相手の命を奪うのは、傲慢でしょうし、狼を殺すような能力は僕にはない」
「そうなんですか?」
「はい。殺傷能力ではないんですよ。たとえば、口から炎を出したりだとか、電撃を食らわせたりだとか、そういうことは出来ません。もともと、そういうための力じゃないので」
「そういうための力じゃないなら……何のための力なんですか?」
「それを説明していると話がものすごく長くなってしまうので、今は止めましょう」
また、はぐらかそうとしているのがはっきり感じ取れたが、彼の言う通りでもある。今気にするべきところはそこではないだろうと、苗は頷いておくことにした。
彼もまた頷き返し、話を続けた。
「そこで考えたのが、こういう図式です。……まず、僕の仕業だと気付かれないようにこっそりウサギを盗んで、そのウサギを誰かに拾ってもらう。つまり、泥棒の罪をその人に擦り付けるわけですけど……」
「それが……私ですか」
ふつふつと怒りが込み上げてくるが、苗は一度それを自分の中に飲み込んで、何とか押さえつけた。だが、思わずぐっとこぶしを握り締めてしまう。
「ええ……ええ……出来るだけ感情的にはならないと、先ほど言っていたじゃないですか」
「そうですね……」ひきつった笑顔をしていたのは、苗は自分でもわかっていたが、それくらいは許してほしいものだ。「それで……私にその罪を擦り付けて、どうするつもりだったんですか」
こほん、と、彼は咳払いをした。ますます嫌な予感がする。
「勘違いしないでもらいたいのが、僕はあの狼に正体を知られるわけにはいかないんですよ。だから、そうやって誰かに代わりになってもらうしかなかったんですよ」
「信じるとでも?」
「信じてもらわないと話が進まない」
それはそうだ。本当に信じるか信じないかは別として、そういうことにしておかないと、あの狼をどうにもできない。
万が一、ただの作り話だとしても、きっと、それでも何かの意図はそこにあるのだろうから。彼の発言の信憑性については疑うことがあっても、彼のすることに対しては、疑うことはない。何故だかわからないけれど。
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