第3話 狼なんて怖く……なくない
結局自信はないままだったが、本当のところは何の根拠があって湊も苗にウサギの世話をしてほしいと言ったのかは謎のままであるが、彼はウサギの世話の仕方と、必要なものを一通り、それから携帯電話の番号とメールアドレスを教えてくれた。だから、その日の夜に、苗は彼にメールを打って聞いてみようと思ったのだ。本当のところは彼がどう思っているのか。けれど、本当に答える気があるのならば、もうちゃんと答えてくれているはずだろう。
だから、メールを途中まで打って、結局は送るのを止めた。
まだケージも何もないので、ウサギは家の中を好きに動き回っている。
「あなたのお家はどこですか?」
童謡の文句みたいにそう問いかけたところで、答えてくれるわけもないことはわかっているが、つい話しかけてしまう。
あの人を探すと言っても、どうやって探したらいいのだろう。いや、正解としては、探すのではない。呼べばいいのだろう。
そう、彼は言っていた。呼べ、と。だからきっと、そういうことなのだ。
あの人は、ウサギを自分の元に戻って来させることなど、あっさりできるはずだ。でも、敢えてそれをしないのは、このウサギがきっと彼が苗に近づいてきた理由であるのだろう。
でも。どういうことなのだろう。
答えは出ないまま、その日は深い眠りに落ちてしまった。夢を見たのか見ていないのか、それすらもわからない。
ただ、目が覚めたら今日のことは全て綺麗に消去されて、何もなかったかのようになってしまっていたら、どうするだろう。困るだろうか、悲しいだろうか、寂しいだろうか、安心するだろうか、嬉しいだろうか。
どうもしないし、どうもできない。
だが、そんなことを考えるだけ馬鹿馬鹿しい話だった。
翌日の朝起きると、ウサギは苗の足元で丸まっていて、足先に触れる生暖かい感触に、踏みつぶさなくてよかったと、焦ったりもしたが。
マンションの管理人に事情を説明すると、飼い主が見つかるまでなら特別に、ということで、きちんと了承も得られてしまった。もう、このウサギをここで面倒を見る以外の道がない。
休日の日曜日、とりあえず湊に教えてもらったウサギに必要なものを買いに出かけて、一通りそろえた後、苗はずっとウサギとにらめっこをしていた。ウサギはそんなことを意に介してはいないけれど。
子供の頃、考えてみたりしたものだ。動物と話が出来たなら、彼らは何を言うのだろうと。もうすぐ成人する年齢になって、再びそんなことを考えてみるなどとは思いもしなかった。
ただの楽しい空想とは違って、本当に動物が喋ったっておかしくないような、物語のような状況でもあるのだから、逆にあまり笑えない。
答えられたら答えられたで、どうしたらいいかわからなくはなるだろう。
そんな時、呼び鈴が鳴った。インターフォンの映像を見ると、やってきたのはマンションの管理人だ。もしかすると、ウサギの件で何か言いに来たのかもしれない。許可の取り下げであるとか。
内心ひやひやしながら、苗はドアを開けた。そこに立っていた管理人は、怒っている様子でも、何か文句を言いたい様子でもなく、ピリピリとした刺々しい空気でもなかった。
後ろには、見たことのない若い女性が立っていた。年齢は苗と同じくらいの、二十歳そこそこといったところだろうか。品の良いお嬢さん、といった雰囲気。派手すぎず、地味でもなく、トレンチコートにブーツという、どこかすっきりしたお洒落さがある。
しかし、誰だろうか。
管理人は、むしろ少し申し訳なさそうに言う。
「すみません、お休みのところ。ちょっといいですか」
「はい」
「あなたが保護したウサギの件で話をしたいという人がいるんですよ。こちらのお嬢さん……」
管理人に紹介されて、彼女はぺこりと頭を下げた。苗も会釈を返す。
「
「あ……いいえ……三ツ橋苗です」
お互いに挨拶が済むと、管理人はすっと一歩身を引いて言った。
「じゃあ、悪いけど、後は二人で話してくれるかな。私はちょっと用事があるので」
「はい。ありがとうございました」
管理人を見送って、再び彼女が苗の方を振り向き目が合うと、微笑んだ。
「私達の名前……苗と紗枝……なんか、響きが似ていますね。……私は管理人さんと知り合いなんです」
「そうなんですか」
「ええ。それで、あなたが道で迷っていたウサギを拾って預かっているって聞いたんですけど」
「はい、確かに、ウサギを預かってますけど……」
そこで、にこやかな顔のままの彼女の口から、思いもよらぬ言葉が飛び出してくる。
「それ、多分私のウサギだと思うんです」
「え?」
そんなはずはないだろう。でも、トリと名乗ったあの人が、このウサギを自分のものだと言ったことが本当であるという確証だって何もない。この人の主張が正しい可能性だってなくはない。
だから、ここは簡単に判断してしまわないことが大事だ。
「実は、他にもこのウサギの飼い主だとおっしゃる方がいらっしゃいまして……」
「そんなはずないです。その人は嘘を付いているんです。だって、もともと盗まれた私のウサギだもん」
「盗まれた……」
「そうなんです。ある日、家に帰ったら突然にいなくなっていて……勝手に逃げ出したわけはないんです。窓も全部閉めていっていたし、あまつさえ、ウサギはケージの中に入れて出かけたんですよ。泥棒に盗まれたとしか思えない」
あり得ない話ではない。あの人の不思議な力ならば、人の家から気付かれずにウサギを盗んでくることも出来そうだ。
出来そうではあるが、人の家からウサギを盗んでどうするというのだ。
「で……でも……どちらの話が正しいのか……」
その時、ぞわりと苗の背筋に寒気が走った。一瞬にして、紗枝を取り巻く空気が変わってしまったからだ。怒り、苛立ち、そして、それらが誘発する、抑えきれぬ殺意。
目が、見たこともない光を放っている。ギラギラと、溢れ出る感情や欲を包み隠すことを忘れてしまっているように。
唸るような声。何かの獣の声のようにも聞こえる。
「いいから……そんなことどうでもいいから……」
「え……」
「返してちょうだいよ……ウサギ……」
彼女の腕が伸びてきて、苗の両肩を掴んだ。痛い、というのを通り越して、骨が軋みそうだ。振りほどくなど、とんでもない話だ。容赦なく襲ってくるのは力だけではない。彼女の殺気も、遠慮なく向かってくるのだ。
恐怖と焦りとで、頭が働くことを拒否しているように、苗は何もできない。
すると、苗の肩を掴んでいた手の力のかけ方が、急に変わった。その手は、苗のことを押したのだ。その力に勢い余って尻もちをついてしまう。
紗枝はそのまま家の中に入って来て、ドアを閉め、しっかり鍵までかけた。
「な……」
「私の御馳走だったのに……」
御馳走。それを言葉通りに受け取るのであれば、この女はウサギを食べようとしていた、ということだろうか。たしかに、日本ではウサギを食べる習慣はないが、国によってはそういう国もあるが。
いや、冷静に考えれば、そういう問題でもないだろう。すぐに答えはわかった。どんどん、紗枝の爪は鋭く伸びて来る。そして、徐々に顔の形も歪んでいき、全身から毛が生えてくる。
そう、人間ではない。
もう、その姿は完全に人間ではなく、狼になっていた。威嚇するように、大きく口を開けてその牙を見せつけて来る。
獣が低く唸る声。
狼男、というのは物語の中でよく見るが、狼女、というのは聞き馴染みがない。そりゃあ、狼男がいるのならば、狼女がいたってまったくおかしくはないが。それに、ああいうのは満月の夜に変身するというのが定番であり、今はまだ夕方になろうかどうかという時間帯であるし、今日は満月でもない。
一体何が引き金となって変身したのだろう。
そんなこと、ゆっくり考えている場合ではないし、今は問題はそこにはない。
部屋の中でおとなしくしていたウサギが、こちらを見ているのが苗の目に映った。駄目だ、このままでは、自分が何とか食い止めなくては、このウサギは食べられてしまう。
狼の鼻と目は、もうウサギを見つけていた。
「だ……駄目……」
でも、どうすれば。
ウサギはウサギで、本能でもって危機を察知したのだろう。ピョンピョンと跳ねて部屋の中を逃げ回ろうとしていた。でも、この七畳のワンルームという箱の中では、どこにも逃げようがない。
苗はとっさに狼の前足を掴み、それ以上ウサギに近づけないように止めた。こんなのは、大した抑止にはならないだろうが、でも、それ以外に方法が思いつかなかった。
ほんの数分命が伸びるだけかもしれない。ごめんなさい、こんなことしかできなくて。
いや、まだ方法がある。それでも、数分が十分になるだけかもしれないけれど。
ウサギをクローゼットの中へ隠しておけば、狼のままでは簡単には開けられないし、少しくらいは生き長らえることが出来るかもしれない。
苗は、走り出せる体制を整えながら、考えていた。狼の足を食い止めているこの手を離して、果たして狼より早くウサギのところへたどり着けるか。
いや、出来るか出来ないか、ではなくて、やらなくてはいけない。
ぴょん、と、ウサギは姿見の鏡の前まで跳ねて行き、そこで止まっていた。何を思ってそこで止まったのかはわからないけれど、おとなしくしてくれている。行くなら今しかない。
思い切って、苗は掴んでいた狼の足を離すと同時に、ウサギの元へ走り出した。狼の唸り声がすぐ後ろで聞こえてくる。
間に合うか……。あと三センチ……。
苗は精一杯手を伸ばした。そこでなぜか、ウサギはぴょんと鏡に向かって跳ねて行く。まるで、体当たりでもしようとしているかのように。あるいは、そこからどこかへ逃げようとしているかのように。
いや、かのように、ではない。実際に、ウサギは鏡に飛び込んだのだ。水面のように鏡面は揺れ、ウサギをそこから通してくれる。ウサギに向かって伸ばしていた苗の手も、一緒に鏡の中に飲み込まれていく。
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