煙る日

まゆげサレン

煙る日

 ゆるりと頭上を旋回し消えた煙が妙に鼻につき、私はつい声を出した。


「なんか臭くないですか」


 えっ、と私の目を見た彼は、鼻からゆっくりと肺へ空気を取り込んだ。周囲の空気を味わうように視線を巡らせたが、特に何も感じられなかったようで、また煙草を口許へ運んだ。再び吐き出された煙は彼の皺のない唇に触れて、私たちの頭上へ消えていく。

 これといってやるべき仕事が見つからなかった私は、軋むソファに腰掛けて彼の口許を眺めていた。煙草を挟んだまま器用にページを捲る指は、小綺麗な見目とは想像がつかないほど使い古され、タコやささくれが目を引く。

 物語が佳境に差し掛かったのか、彼は中途半端な煙草を灰皿へ押し付け、長い脚を重ね組んだ。すると私は気付いた。


 銘柄が違う。


 ただそれだけだったけど、私は身の毛がよだつような嫌な違和感を感じた。

 私は喫煙者ではないから、煙草についての知識などない。けれどあの銘柄は私が好きだった銘柄だった。私が好きだと言ったら、彼はなかなか見せない笑顔を浮かべて、ならこれからはこれを吸おうと言ってくれた、あの銘柄。何故変えてしまったのかなんて言えるわけがないし、そもそもそんなことを問い質す権利など私にはない。彼が銘柄を変えようと、それがどんな理由であろうと、私には関係のないことなのだから。私が勝手に、変に意識しているだけなのだから。

 そんな自分が鼻につき、全身に力を入れて立ち上がった。向かい合って座る彼はピクリともせず物語に入り込んでいる。少し歩いてこよう。あいにく今は仕事がない。何かあればいくらでも呼び立てればいい。苛立ちを隠せないまま、私は冷たいドアノブに手を掛けた。


「煙草買ってきて、いつものでいいから」


 ぶっきらぼうな雇用主からの仕事に、私は聴こえるか聴こえないかくらいの声で返事をした。

 



 関係のない話だ。彼がどんな煙草をいつ吸おうが、私が彼に何を望もうが、関係ない。それなのに、何故、私の心はこんなにも締め付けられ、脚はこんなにも軽いんだろう。


 私はすぐに煙草屋へ走った。

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煙る日 まゆげサレン @mayuge_saren

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