満喫の時間

大野葉子

満喫の時間

「ご乗車ありがとうございました。次は終点○○、○○。□□線各駅停車はお乗り換えです。」

 手前の駅を発車してすぐに流れる車内アナウンス。このアナウンスが聞こえたら降車の準備をする。このアナウンスの三分後には自宅最寄駅に着いて車両のドアが開くからだ。

 普通車両に乗っている日ならば通勤バッグから取り出しているのはスマホくらいのものなので降りる準備など何もないが、今日は通勤グリーン車。座席のリクライニングをおもいっきり倒し、付属のテーブルにはあと少しで空になる缶ビール。その脇にスマホと文庫本。ジャケットも脱いで荷物かけに引っかけてある。本当はハイヒールも脱ぎ捨ててしまいたいところだが、公衆の面前でそこまでやるのはさすがにはしたないので自粛している。

 遅くなって疲れた日は通勤グリーン車に限る。

 自分に与えられたスペースをおもいっきり自由に使って目一杯くつろいだ山城やましろめぐみはスマホで時刻をチェックした。

 二三時一一分。

 スーパーはまだ開いているな、明日の朝食用のパンを買って帰ろう。

 そんなことを思いながら文庫本とスマホをバッグに戻しジャケットに袖を通す。缶ビールを窓の前の机がわりになるスペースに移すとテーブルを畳む。バッグを膝の上に抱え直して窓の外を見遣る。

 暗い夜空の下、住宅街の屋根が続く。

 明るすぎて星は見えないが、天高いところに月は見える。満月が近いのか、月はだいぶ膨らんでいた。

 ガタンタン!ガタンタン!とレールの継ぎ目を渡る規則正しい音が大きく響き、車両が横に揺さぶられる。


 就職してもう八年。フレッシュなお年頃はとうに過ぎ去った。

 仕事ではそこそこキャリアも積んで一丁前に部下も抱える身になった。

 彼氏はいない。学生時代から付き合っていた男とは就職したその年のうちに破局。しばらくして付き合い始めた男には「おまえ仕事ばっかりじゃん。おれのこと大切じゃないじゃん。」と言われてさようなら。

 大学受験を機に上京したので家族とも離れ離れ。盆と正月に帰るだけ自分はマシなほうだと思っている。会社の同期には十八で家を出たきり、干支が一巡しても一度も帰っていないなどというツワモノもいる。

 親しい友人とはもっぱらメッセージのやりとりだけ。直接会おうにも仕事の忙しい恵と家庭に入って子育て中の彼女らでは使える時間もお金も違い過ぎる。話題も合わなくなってきてしまった。寂しいことだ。

 人のぬくもりのようなものが恋しくないわけではない。と思う。

 ぬくもりから離れてだいぶ経つのでそこはちょっと自信がない。

 でも人間のぬくみを感じることが減っても今の自分には心安らぐ場所も時間もちゃんとある。

 そう思わせてくれるのがこの時間。通勤グリーン車を降りる前、乗車時間最後の三分間だ。

 恵は通勤グリーン車では判を捺したように同じ過ごし方をする。

 駅ナカで買っておいた缶ビールを座席を確保するとともに空きっ腹に流し込み、本を読むことで頭から仕事を完全に抜く。そうして本の世界に没入してとことんリラックスし、終点を知らせる車内アナウンスをきっかけに三分かけて徐々に現実に帰ってくる。

 荷物をまとめ終えたらその場で小さく伸びをする。車窓に広がる夜の風景を眺めながらゆっくり呼吸をしているとなんだか無性にいい気分になる。


 私は人生を満喫している。


 自然とそう思えるのだ。

 ただ単に酒に酔っているだけかもしれないが、そうだとしても良いではないか。仕事で疲れて帰っても自宅には誰もいないのだ。ぶつけるところのない疲れは家まで持ち帰らない。この電車の中に置いて帰る。

 それは生きていく上でのコツのようなもの。

「まもなく○○、○○。お出口は右側です。今日も□□快速線をご利用いただきありがとうございました。」

 電車がゆっくりと右にカーブをとる。間もなく減速を開始して駅に着くだろう。

 恵は座席のリクライニングをグッと元の位置に戻した。

 窓の向こうにホームが見え、電車は急激にスピードを落とした。そしてゆっくりと停車する。

 キンコーン!キンコーン!

 電車のドアが開く合図のチャイムと同時に恵は立ち上がり、左肩にバッグをかけて右手で残り僅かとなった缶ビールを持った。そしてその場で喉に流し込む。今感じている「いい気分」そのものを飲んで腹に収めるかのように。

 ごくっと自分の喉が鳴る音を聞き、フーッと「ごちそうさま」の一呼吸。そのまま通路を歩いてグリーン車のデッキへ。

 デッキのゴミ箱はたいていの場合先客たちの残していったモノで満杯だ。でも空き缶のひとつくらいならねじ込む隙間もたいていは残っている。

 今日も例によってギュギュッと缶を押し付けるようにして投入に成功。

 そう、嫌なものは絶対に持ち帰らないのだ。


 私は人生を満喫している。


 ホームの床をコツコツと鳴らし、恵は家路を急いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

満喫の時間 大野葉子 @parrbow

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ