03

 ——訳が、解らない。 

 首元に未だに染み付いて離れない冷たく重い肉の感触。視線を落とすと、襟元から肩までがぬるりとした生臭い液体で濡れていた。


 これは現実だ。夢なんかじゃない。


 体内の熱という熱が、汗と共に毛穴から一気に抜け出していくような感覚。


 信じたくない。信じられない。だが、これは現実だ、紛れもなく現実に起きたことなのだ。


 遅れてやってくる恐怖に全身が小刻みに震え出して、途端に糸が切れた人形のように膝から崩れ落ちる。

 立ち上がろうとしても完全に腰が抜けてしまい、腰から下に全くと言っていいほど力が入らない。


「仕方ない、キミが知り得る常識では現状を処理しきれないだろうからね」

「……なんだったんだよ、今の」

悪霊の集合体レギオンだよ。キミを殺して肉体を乗っ取るつもりだったんだろう」


 末那まな透迦とうかと名乗った魔術師はそう言って、ジーンズのポケットからおもむろに葉巻のような小さな筒を取り出して火を付け始めた。


「ちょっち失礼、またさっきみたいなゲテモノが現れないとも限らないので」


 筒から出た煙は風に乗って瞬く間に病室に充満し、普通のタバコとは違ったほんのりと林檎リンゴを思わせる甘い香りが鼻腔を突いた。


「私が調合したハーブで拵えた紫煙だ。どうかな?これで気分も少しは良くなってきたんじゃない?」

「そう言われると……」

 確かに不思議と匂いを嗅いでいるうちに動悸どうきと震えが段々と収まり、身体が楽になってきた気がする。


「うんうん、これでようやく本題に移れる」

「本題……って何ですか」


 俺の問いに、魔術師はしばらくの沈黙を経て口を開いた。


きさらぎ廉士れんじ君、キミさ、私の弟子というか助手になってはくれないかな?」

「はい?」

「だからさ、助手にならないか?って聞いてるの」


 いきなり何を言い出すんだこの人は。

 ただでさえ混乱しているのに、ますます訳が解らなくなってくる。


「と、いうのもね?廉士君さ、自分がもう普通に暮らせる身体じゃないってことに気づいているかな?」

「普通にって、でもリハビリの経過も体調も良好で退院も近いって……」

「そもそもだよ、自分でも薄々気づいていたんじゃない?自分が一年半前に一度死んでることに」


 悪魔的に鋭利えいりな言葉の刃が、容赦ようしゃ無く俺の唯一まともな思考を一瞬で断絶だんぜつする。


 ——死んでる?

 今、俺が死んでるって言ったのか?


「死んでる……って俺は現にこうして息をしてるし、自分の意思で立って歩いているし、痛みだって感じてる!どう考えたって生きてるじゃないか!」

「まぁ、生きてるね」

「は?何言ってんだ」


 訳が分からず、脳内をかいで掻き回されるように激しく混乱する思考。

 自分でも体感したことが無い、熱く激しくうねり狂う感情が洪水のように溢れ出して身体と言葉を加熱させる。


「私が死んでいると言ったのはね、だよ」

「だから、何を……」

「キミはね?失った半分のブランクにことで生き延びたんだ」


 ◆


 目が覚めたときから気になっていた。自分の身体の違和感。

 間違いなく自分の身体なのに、そうじゃなくなってしまったような感覚。身体の中に、もう一人別人が居るような異物感。


 その違和感が、呪いじみた魔術師の言葉を皮切りに一気に膨れ上がる。そして今、ここに明確な形をってあらわれる。


「知り合いの看護師から聞いた話でね、一年半前の事故で運び込まれた際、キミの首元には明らかに何かに噛まれたような傷があったそうだ」

「は、……はは……」


 ——何かが来る。

 自分の奥底から、何かが浮き上がってくるような感覚。

 猛烈な吐き気と焼け付くような喉の乾き。

 恐いくらいに高揚こうようする精神と、痛いほどたかぶる心臓の鼓動。

 燃えだしそうなほど身体中が痛くて熱い。


「ほら、見たことか。キミの魂と肉体が吸血鬼と同化しているのは間違いない。

 少しづつ血肉への衝動が芽生え始めているはずだ、今は抑えているが、あれだけの重傷を負った影響は大きい。衝動に呑まれるのも時間の問題だ」


 意識が、おぞましく強烈な衝動に飲み込まれていく。


 ——身体が渇いて仕方がない。

 今すぐにでも目の前の女の血の通った柔らかそうな肉に今すぐにでも齧り付きたい。その血を啜りたい……。


 それでも俺はなんとかこらえようと血が滲むほど強く腕を噛む。


 そんな俺の様子を実験動物を観察する科学者じみた、それでいてどこかあわれみの混じった視線で眺めながら、魔術師は女神のように優しく微笑みを浮かべて口を開く。


「私がその力の扱い方を教えよう。吸血鬼としての生き方を、超常の世界での生き方を教える。だから。それとも。どちらかを選びなさい」

「俺……は」

「悪いが、はっきり言わせてもらう。それがキミの為だ。平常なんてものを望むな、キミはもう世が言うような『普通』通りになんて生きられないんだから」


 その一言が決定的だった。 

 俺の常識が、陶器とうきが割れるような悲鳴じみた甲高かんだかい音を立てて呆気なく崩れていく。


「……は、ははは、なんだよ……それ」


 時間にすればたった数十分の出来事と出会いは、曲がりなりにも十九年という歳月をかけて積み上げられた俺の常識と日常を笑えるくらいにあっさりと破壊してしまった。


 ただひたすら呆然とする俺に、魔術師は呪文を唱えるような滑らかさで再び言葉をつむぎ出す。


「まぁ選択肢を提示しておきながらこう言うのもなんだけど、後者を選ぶなら私の弟子あるいは助手として命は保証しよう。

 そしてさっきも言ったように、その力と共存していく方法も教える。あ、助手として働いてもらう以上もちろん給料もそれなりに出す。どうかな?悪い条件では無いと思うんだけど」


 そして再び俺の眼前へと手を差し伸べる。


「俺は……」


 嵐のように吹き荒れる混乱の渦の中、不意に脳裏に浮かぶ幼い頃の記憶。

 何故そうなったのかはわからない。ただ、幼い俺には全てが強烈すぎて鮮やかすぎる腥い朱色と動かない、かつて俺の家族だったヒトガタ達。

 その只中に、死にかけのセミのように弱々しく震える鮮血に濡れた母の身体。母は呆然とする俺の頬に手を添えて、残り少ない命を全て吐き出すように絞り出された言葉を思い出す。


「生きて」


 その、母の最期の言葉。脳裏に焼き付いた呪いにも等しいその言葉。ここまで俺を生かした一言が、電流となって神経を駆け巡る。


 その瞬間に、不思議と身体が軽くなっていった。

 体内を血流とともに暴れまわっていた激情の熱がスゥっと引いていく。それに伴い、だんだんとばらばらだった思考が数珠じゅずつなぎに整っていく。


 まだ激しく昂ぶる心臓を握りしめるように強く胸を抑え、息を荒げながら声を搾り出す。


「二つ、聞きたい」

「ん?なんなりと。答えられる範疇はんちゅうならなんでも答えよう」

「お前、この力の使い方を教えるって言ったな?それじゃあ、元に戻す方法も知ってるのか?」


 魔術師は一瞬驚いたような顔をしてから明らかに演技っぽくまゆを寄せて見せ、わざとらしく悩むような唸り声を上げる。


「うん、あることにはある。一応理論上は存在している」

「お前の弟子になれば、俺は人間に戻れるのか」

「どうだろうね?それはキミの努力次第だ。だが、キミがやるというなら私も手を貸すよ?何せ可愛い弟子の頼みだからね」


 俺は喰えない奴だと思いながら二つ目の問いを投げかける。


「二つ目だ。俺が断ったらどうするつもりなんだ」

「そうだな、控えめに言って天にされてもらうつもりだった」


 ——死んでもらう、ということか。

 つまり、最初から俺には選択肢なんて一つしか用意されてなかったという訳だ。


 ——なら、もう答えは決まっている。


「さぁ、そろそろ答えを聞かせてくれないかな。腕が疲れてきたんだけど」


 その声に促されるように俺はゆっくりと立ち上がって、まだ少し震える手で魔術師の手を取る。

 その瞬間に、青色の眩い燐光りんこうを放つ円形と八芒星はちぼうせいをベースとした幾何学紋様きかがくもんようが俺と魔術師を中心として床一面に広がる。


「今ここに新たな師弟してい契約ちぎりが結ばれた。おめでとうきさらぎ廉士れんじ。これでめでたくキミは私の正式な弟子となった訳だ。

 ……そしてようこそ。超常が跋扈ばっこする我らの美しく愛しくも狂おしき世界へ」

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