02

 俺が昏睡から回復して八日目の昼。


 今日も一通り診察だ何だを済ませた俺は医師の許可を得て気分転換のために病院の周囲にある小さな歩道を歩いていた。


 歩いていると未だに動作の端々はしばしに若干のぎこちなさを感じるが、特に不自由とは思わない。

 リハビリを始めて一週間。思っていたよりもかなりキツかったが、その分だけ効果は目に見えて発揮されていた。


 歩道の両脇にはピンクや紫、そして青色と鮮やかに咲いた紫陽花アジサイや深緑を枝いっぱいに広げた木々が立ち並ぶ。

 更に視線を移すと、遠目に雨合羽を着た子供たちが元気に水溜りを走り回る様子がうかがえる。


 大気を満たす濡れた植物と土の香気にスポンジのようにたっぷり水分を含んだ空気。そして穏やかに過ぎていく時間の流れは、ここが東京都内であるということを忘れさせるほど豊かで、どこか異界じみている。


 ——しばらく歩いて、久々の外の空気も十分に味わったのでそろそろ病室に戻ろうかと元来た道へ振り返ると、一人の女性が立っていた。


 年齢はおそらく二十代半ばから後半。

 ゆったりとした袖にフリルが付いた輝くように白いリネンのシャツに、すらりと伸びた脚を包む濃紺のジーンズ。

 風を含んで揺れる髪は一本ずつ丁寧に蜜を塗り込んだようにつややかなダークブラウンで肩辺りで切り揃えられている。

 顔立ちは可愛らしいと同時に全体的に無駄なく整っていて、シャープで神秘的ミステリアスな印象を受ける。


 なんにせよ思わず見蕩みとれてしまうような美女だった。


 二人の間に沈黙が訪れて、その沈黙を揶揄からかうように風が強く吹く。


「こんにちは」


 先に沈黙を破ったのは見知らぬ女性の方だった。


「こ、こんにちは?」


 ポカンとしていた俺は戸惑とまどい、あたふたと忙しなく挨拶を返した——いや、我ながら何で疑問形なんだ。

 そんな俺の様子を見て見知らぬ女性は声を漏らして笑った。


「ふふっ、そんなに緊張しなくてもいいと思うよ?またすぐ会うことになるでしょうし」

「??……どういうことですか」


 唐突に発せられた意味深いみしんな発言に思わず言葉を返す。だが、見知らぬ女性は微笑むばかりで答えてはくれない。


「まぁ遠からずわかるかと。さてと、見たいモノも見れたことだし、とりあえず退散するとしましょうか」

「え?!あ、ちょっと!!」

「またね、きさらぎ廉士れんじくん」


 引き止める俺の声も聞かずに、謎の女性は浮遊する天女を彷彿ほうふつとさせる軽やかな足取りで、颯爽さっそうと樹々の間に消えていった。


「……なんで、俺の名前知ってんだ」


 行き場を無くし、半ば独り言の問いは湿気った風と擦れ合う草木の音にさらわれ霧散した。


 ◆


 日が暮れ始め、溶けた鉛のような暗雲と夜の濃い闇色がゆっくりと空と街を包んでいく。


 時刻は午後七時。

 夕食を済ませた俺は、暗い病室でベッドサイドランプの淡い橙色の光を明かりとして本を読んでいた。

 この本は事故以前に俺が古本屋をうろうろしていた際になんとなく目に留まって買った本で、叔父が一昨日の面会で持ってきてくれたのものだ。


 内容としては主人公の女性魔術師がちまたに溢れる異形に関する事件をバッサバッサと華麗に解決していく。というよくあるモノで、面白いかと言われるとまぁそこそこぐらいの面白さである。


 ぼんやりと文字の羅列られつに読みふけっていると、周囲の空気が若干変わったことに気がついた。


「なんだか、少し肌寒いな……」


 ゆっくりと変化していたので中々気がつかなかったが、つい数分前はぬるかった室内の空気が今は異様に肌寒い。


 そして——


「……ん?おかしい、何も音がしない」


 普段なら看護師達が廊下を歩く音が響いてくるものだが、それもない。


 水の中に居るような妙な感覚。スライムのように肌に引っ付く空気。

 得体のしれない何かを感じて心臓が一際強く跳ね上がる。


『———』


 一瞬、何か声が聴こえた気がした。


 それを皮切りに唐突にベッドサイドランプが狂ったように明滅を始め、パチンと音を立てて消える。


「ッ?!!」


 俺は驚いてベッドから飛び起きるように立ち上がって、サイドランプから距離を置く。

 なかばパニックに陥り、鼓動が五月蝿うるさいほどに速まる。


 ——何かが居る。


 そう確信した時だった。

 真っ暗な室内の丁度真ん中に霧のような灰色のモヤが生き物のようにうごめいているのが見えた。


「な……、んだ?!コレ」


『——、———!』


 俺の声に呼応するように、霧の塊から声にすらなっていないようなか細い音が発せられ、より一層激しく蠢く。

 それは小さいながらも叫び声めいて鋭い不協和音のさざめきで、凄く不気味で気色悪い。


 背筋を百足ムカデが這い上がってくるような悪寒が迸り、毛孔からじわりと冷や汗が溢れる。

 体内が冷たい何かに撫で上げられているような不快感と首を絞められているように息苦しい。

 ——いや、実際に締められていた。

 いつのまにか腕のように伸びた霧の塊が俺の首をへし折る勢いでがっちりと掴んでいる。


「っ、……ぐぁッ……」


 見た感じは明らかに霧状のクセに、ぬめっとした液体状の何かとずっしりと重い肉の感触が確かに在る。


『——み。ツけた、モう。ニがさない』


 俺の耳元で、はっきりと低く呟く声。


 ——不味い。

 身体が浮き上がる感覚。

 息が出来ない。苦しい。

 血流が滞り、脳まで酸素が回らず意識が朦朧もうろうとして白み始める。


 苦しい。

 怖い。

 迫り来る恐怖。

 折角せっかく死の淵から這い上がって来たのに。訳の分からない何かの手によって、またそこちていく恐怖。


「い゛やだ!お゛れはッ、おれはまだ!!」


 だが、必死に足掻いても声を上げても状況は一片たりとも変わらない。ぎりぎりと首を絞める力は増すばかりだ。


 これ以上は耐えられない——。

 もう限界だ。

 そう諦めかけた瞬間ときだった。


《去れ!》


 強い風を伴った、拒否を許さない絶対的な力を持った凛とした響き。


『ア゛ァァァァ?!!!』


 苦しげなしわがれた断末魔の叫び声が上がると同時に、白いモヤは吹き荒ぶ風に消しとばされるように一瞬で薄れて完全に霧散した。


「ゴホッ、はッ!!っ、はぁはぁ」


首を絞める力が無くなったことで俺は地面にどさっと鈍い音を立てて倒れ込み、血を吐き出す勢いで激しく咳き込んで、酸素を求めて大きく肩と胸を上下させる。


「いや、あっぶない危ない。心配になって見に来てみれば、早速アタリね」


 酸素不足による鈍痛どんつうで未だに意識が混濁する中、聞き覚えのある鈴を振ったように明るく品のある声が耳に入った。


「大丈夫かな?」


 白く輝く陶器とうきのように滑らかな手が震える俺の手を掴む。その手に支えられて立ち上がった俺の視界に映る顔は——。


「?!お前は、昼間の」

「ふふっ、ほらね?またすぐ会えるって言ったでしょう?まぁ、随分と早い再会だけど」


 微かに差す青白い月光に照らし出されたその顔は、その美形は、紛れもなく昼間に出会った謎の女性のものだった。


「こんばんは、鬼廉士くん。私は末那まな透迦とうか、しがない探偵けん魔術師よ」

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