第1話 日常残照
01
暗い。目に映る何もかもが漆黒。
一筋の光も無く、一陣の風すら
あるのは純粋なる闇。虚無。
どこまでも果てなく広がる無の領域。
あらゆる生命の終着として有る境地。
——死。
それは、永劫の自由。
そして、物質からの解放。
そして、無限の安らぎ。
だがその中でただ一人、俺は今にも蕩けそうな
有るはずの無い出口を探して、ひたすらに手足をばたつかせる。
気が狂いそうだった。
——こんなことをしても無駄じゃないか。
——俺はこのままここで消えてしまうんじゃないか。
そんな不安が
それでも俺は諦めたくなかった。何故なら
それに俺には未練なんて言葉で割り切れないほどやり残したことがある。
まさに人生これからだって矢先に、こんなあっさり死んでしまうのはどうしても納得できなくて、どうしようもなく腹が立った。
だから必死に湧き上がる不安すら怒りに変えて、無様に
それが功を奏したかどうかは分からない。
遥か彼方で白い光が
◆
「……こ、こは?」
どうやら長い間俺は寝てしまっていたようで、全身の関節と筋肉が驚くほどに固まっていた。仕方なく視線を右往左往させて周囲を確認する。
これでもかと言わんばかりに白一色に統一された清潔感溢れる部屋は少し薬品っぽい匂いが漂っている。
しばらく視線を泳がせていると傍らのサイドテーブルの花瓶に差さった鮮やかなオレンジのガーベラとピンクのスイートピーの花が目に留まった。
窓からは若干雲が多いが澄んだ青が綺麗な空が見えた。窓から差し込む陽光は暖かく、頬を優しく撫でる涼やかな風は雨上がりの濡れた土と植物独特の匂いと鳥のさえずりを乗せてくる。
……生きている。俺は生きている。
あの冷たくて何もない
虚無ばかりを見ていた俺の目には何もかもが明るくて眩しい。
溢れる光と、五感を迸る生の奔流。
力強い心臓の鼓動と、肺を満たす新鮮な空気の感覚。
「……うっ、ッぅう」
ようやくあの虚無から抜け出せた。
いま俺は紛れもなく生きている。その安心感からか途端に涙が溢れ出す。
そして柄にもなく、声にならない
◆
ふと若い女性の声が聞こえて、視線を個室の入り口付近へと向けると看護師らしき女性が立っていた。そして俺を見るなり幽霊でも見たような驚きの悲鳴を上げた。
……おいおい、何だその反応!?
「す、直ぐ担当の先生をお呼びしますっ!」
そう言うなりあたふたと危なっかしい様子で何処かへ走り去って行った。
相手の反応を見る限り、どうやら俺は相当回復の見込みが無かったらしい。
ほどなくして、先の看護師を伴って一人の医師が部屋へとやってきた。
「こんにちは、
「可もなく不可もなくです」
要は、普通であるという俺の返答を聞いてその医師は優しげに微笑んだ。
「あの、俺はどれくらいの間意識が無かったんですか?」
「今日は十九年の六月六日です。貴方が事故にあったのは十七年の十二月二十五日ですので、一年と約半年ほど昏睡状態にありました。事故当時のことは憶えていますか?」
憶えているかと言われると、車に轢かれたことはなんとなく憶えているが、事故前後の記憶はモザイクがかかっているようにぼんやりしていて、よくわからない。
「なんとなく、というかぼんやりしてて、上手く思い出せない感じです」
「分かりました、では詳しくお話しします」
その医師が言うには一年と半年前の深夜、俺は中型トラックに轢かれ心臓破裂と肝臓破裂。大腿骨と胸骨を骨折するという重傷を負い、出血多量と内臓損傷によるショック状態でほぼ死体同然の状態で運び込まれたという。
それでも医師たちの十四時間にも及ぶ懸命な救命措置の結果、なんとか俺の身体は死の一歩手前で踏みとどまって一命を取り留めた。しかし事故の衝撃と出血によってそれなりのダメージが脳に行ってしまったようで、俺は目覚めることなく眠り続けて一年半経ったついさっきようやく目を覚ました。ということらしい。
医師はどこか興奮した面持ちで、何度も「奇跡的ですこんなに回復するなんて嘘みたいだ」と繰り返した。
まぁ、それも当然だ。それだけの重傷に加えて一年半も眠り続けていたのに、それが普通に目を覚ますなり何事もなかったように会話をしているのだ。
「ですが万が一ということもありえますので早速本日の午後に診察を行います。異常がなければ明日辺りからでもすぐにリハビリテーションを始めましょう。私たちもサポートしますので、あともう少しだけ頑張ってください」
というと医師は優しげな表情を崩さずに軽くこちらに会釈をして
俺は個室に一人残され、何をするわけでもなくただ外を眺める。
「もう一年と半年も経ったのか……」
俺にとってはあの事故はつい昨日の出来事なのに、現実ではもう過去になりつつあるのだ。
現に窓の外の景色は本格的な夏の始まりを告げる深く鮮やかな緑が茂り、大気は濃い生命の気に満ち、凍える冬の面影など一片も無い。
……もう何が何だか。
頭が上手く回らない。
もう考えることすら面倒になったのでしばらく
久々に泣いたり話したりした分一気に疲れたようで、眠いと感じたときにはもう俺の意識は深い眠りに落ちていた。
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