モルフェウスの冠

久遠 離安

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 あれは一年と半年前の十二月二十五日。肌を貫くような冷気が吹き荒ぶ真冬。誰も彼もが待ちに待ったクリスマスの魔力に夢中になる頃の話だ。


 時刻は午後の十時十五分。コンビニの夜間アルバイトを終えた俺は、休憩室で帰宅の準備をしていた。


「いやぁ、ごめんな廉士れんじ君。いきなり呼んで。客が多くて人手が足りなくなってなぁ」


 声を掛けてきたのは、クリスマス限定サービスということで鮮やかな赤色のサンタ服に身を包んだ店長の猪山いのやまさんだった。


 短く刈り揃えた髪と髭が良く似合い、程よく小麦色に焼けた肌に威圧感のあるがっちりした体格。そして鋭い眼光——。

 その厳つい風貌ふうぼうと近寄り難い雰囲気から、俺自身も面接では心臓が縮み上がる思いをしたのだが、話してみると案外フランクで良い人だった。


「え?ああ、いや、俺は別に暇だったんで全然問題ないです」

「そうか?なら変に気に病む必要は無いか。でもホントに助かった、お疲れさん!」


 猪山さんは粗略にそう言って、俺の肩を強く叩いた。

 ……普通に痛い。


「君は、ここで上がりだよな?」

「はい、そうですけど」

「なら帰るときは気をつけるんだぞ?最近ここらで連続殺人があったそうだからな」

「殺人?……ああ、旧市街のヤツですか」


 連続殺人。何とも物騒なことこの上ないワードが頻繁に耳に入るようになったのは十月の下旬頃からだった。


 全ては境樹さかき市内に在住する二十一歳の女子大生が帰宅途中に行方不明になったことから始まる。

 その後、旧市街地の一角にある廃ビル内で下見に来ていた解体業者によって首元を深く抉られ、全身の血液が一滴残らず抜き取られた状態で放置されて女性と思しき遺体を発見。その後DNA鑑定によって遺体は行方不明だった女子大生であることが判明する。


 そしてこの一件が世に報じられてから二日としない内に、今度は幼稚園から帰宅途中だった四才の男児と二十五歳の母親が二人同時に行方不明になり、旧市街地にてパトロール中だった警官が道端に放置されていた二人の遺体を発見した。


 この異常事態に警察も総力を挙げて捜査を開始するのだが、そんな警察を嘲笑あざわらうかのように立て続けに同様の事件が起こり、遂には七人の犠牲者が出るという大事件に発展してしまった。

 そして現在も警察の懸命な捜査も虚しく、犯人の行方は特定されていない。ちまたではその手口から犯人は吸血鬼じゃないか、なんて噂が立っているらしい——。


「こんな派手な殺人コトしてるのに、まだ犯人見つからないんですよね」

「そうだなぁ、今も何食わぬ顔で犯人が街中うろついてるかも。と考えると——」


 猪山さんが言いかけた瞬間、時計から十時三十分になったことを告げるなんとも間の抜けた電子音のチャイムが響いた。


「おっと、もう半か。邪魔したな廉士君」

「そんじゃ俺は先に上がらせてもらいます」

「おう、お疲れ!」


 俺は素早くロッカーに掛けていたマウンテンパーカーを羽織ってリュックを背負うと、手を振る猪山さんに軽く会釈をして裏口から出た。


 外は凍てつくような鋭い冷気と大粒の雪をたっぷり含んだ冬の風が凄まじい勢いで吹き荒れ、無防備な俺の顔と全身を容赦なく打ち付けた。


「寒ッ!?」


 余りの寒さに、俺は思わず声を上げて肩を大きく震わせる。

 咄嗟とっさに見た腕時計の気温計はマイナス三度を示していた。いやいや!そりゃ寒いに決まってる。まして、五時間もの間ぬくぬくと暖気の下で過ごしていた俺の身体には酷く応える。


 強かな冷気の洗礼に身体は強張って重くなる。今すぐにでも暖かい店内に引き返したいが、そういう訳にもいかないので俺は震える身体にむちを打って歩き始めた。

 ……暖かい炬燵こたつが恋しい。

  

 ◆


 どれくらい歩いただろうか。

 コンビニを出た時に降っていた雪は歩いているうちにすっかり止み、空を覆っていた分厚いにび色の雲も薄くなってかすかに月の光が透けていた。


 それにしても、ここまで歩いて全く人とすれ違わなかった。元よりこの辺りは朝と夕方の通勤・帰宅時間以外は静かなのだが、やはり連続殺人の一件が大きく影響しているのだろうか。


 七人も殺した凶悪犯がまだ捕まっておらず、街の何処かに潜んでいるかも知れないのだ。それは言い換えればいつ何処で犯人と遭ってしまうか解らないということ。

 ……遭えば殺されるかも知れない。

 そうなれば大半の人は極力犯人と遭わないようになるべく外との接触を断ちたがるだろう。なら、この人通りのなさも当然といえば当然か。


 出歩く人影も無く、不気味な静寂と暗闇に支配された街は、死んだように冷たく無機的で白黒写真でも眺めているように味気ない。


 ——ふと遠目に映る電灯に視線を遣ると、その下にポツリと立つ人影が見えた。


 ……ようやく人と会った。

 あまりの静けさに若干不安になっていた俺は、少しホッとして小さく溜息を吐く。


 しかし俺が言うのもなんだが、こんな時間帯に一人だけで電灯の下に突っ立っているなんてよっぽどの変人かただの酔っ払いか。あるいは何かしら目的があるのか——。


 ……あれ?いない。


 いない。さっきまで立っていた人影が。

 気のせい?いや、あれは確かに実体のある人間だった。だが目を凝らして周囲を見回してもその姿は何処にも見当たらない。

 溜息を吐いたわずかな間に視線を逸らしただけなのに、電灯の下に立っていた人影は闇夜に霧散したように跡形も無く消え去っていた。


「……!」


 不意に風に乗って全身の毛が総毛立つような嫌な寒気が頬をかすめ、途端に肌が粟立ち立ち冷や汗が吹き出す。


 例の事件のこともある。脳裏を過ぎった嫌な予感と恐怖に一刻も早くその場から立ち去ろうとしたその瞬間とき


 いきなり背後からずしりと重くて暖かい何かがのしかかってくるような感覚と——。


「っ!?——ぐ、ぁッ、っ!」


 不意に襲い来る首元を起点として全身の管という管、筋という筋が一瞬で焼け切れるような熱く鋭い衝撃に、俺はたまらず地に両手両膝をついた。


 耐えがたい痛みが脳内を灼熱の電流となって駆け巡り、視界がぐにゃりと歪む。

 吹き出した脂汗はゆっくり額を這うように流れ落ち、恐怖で呼吸がだんだん速まっていく。

 ——首を、噛まれたのか?

 その問いに対して正解だと答えるように、耳元で獣のように興奮した息遣いと唾液をすする粘着質な音が響き再び激痛が走る。


 そして俺は自分が置かれている現状を理解した。俺は背後から何者かに襲われ首元を噛まれたのだ。


「つ、ッ!……」


 首元を噛む力はじわじわと着実に強くなっていく。


 ……このままじゃまずい、逃げないと。


 俺は痛みで意識が吹き飛びそうになるのを耐え、身体に精一杯の力を込めて背後からしがみつく男を後ろの塀に押し飛ばす。

 そして背後から重く鈍い音が響くと同時に、俺はふらつきながらも立ち上がって駆け出した。


 幸い噛まれた傷はそれほど深くなく、出血はしているし痛むが死に至る程ではない。

 しかし唐突な事態に身も心もすっかり疲弊ひへいし、まだ走り出したばかりだというのに心拍と呼吸がすぐに乱れて苦しくなってくる。


 ……は、ッはぁっ、はぁはぁ。


 それでも、真っ暗な通りをひたすら走り続ける。

 疲れと痛みとパニックで滅茶苦茶な意識は酸素が十分に回っていないのかぼんやりと霞がかっているように白み、もう自分が何処を走っているのかさえ分からない。手足も重く感じる。


 ——だが、唯一分かっているのは止まったら、追い付かれたらそこで終わりだということ。


 背後には、未だに襲ってきた奴のいやな気配と息遣いが小さく聞こえてくる。よく聞くとそれは少し笑っているようにも聞こえた。


 手負いの俺に追い付くのは訳ないと、敢えて付かず離れずの距離を保っているのだと言わんばかりに。

 相手は嬉々として獲物を追い詰める狩人のように、この状況をたのしんでいるようだった。


「は、っぁ……くそっ!俺は、狐かなんかか!」


 そして、正面に差し掛かったT字路を脇目も振らずに横切ろうとした瞬間——。


 ……え?


 視界に広がる強い光。

 耳をつんざくような、クラクションの音。

 目に映る全てがスローになって、その刹那に漏れ出した声にならぬ声を最後に怒涛どとうの如く訪れる凄まじい衝撃と爆音。

 投げ飛ばされる身体。すかさずやってくる浮遊感。


 ちょうどフリーフォールの下に勢いよく落ちていく瞬間。あれと全く同じ感じだ。


 そして気付けば、俺は地面に突っ伏していた。まるで実感がないが、どうやら車にかれたらしい。ピントの合わない視界は血によってか真っ赤に染まっている。


 ……ああ、今日はクリスマスだって言うのに。


 散々だ——。


 その思考を最後にあらゆる光と音の全てが絶え、俺の意識は永劫えいごうの如く深い暗澹あんたんへと呑まれていった。

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