第九十八話 夜明けを迎える経緯。


 それは、昨夜の出来事に関係しているのかな?


 正確にいえば今朝。夜明け前のことだった。それが証拠に……


 目を覚ましたら、窓から朝の日差しもなく薄暗いままだった。それどころかビックリするほど、暗かったと思われる夜から朝への変わり目の時刻。


 同じベッドの上、スヤスヤ……と、令ちゃんの静かな寝息を聞いていた。


 そして、


「起きちゃったね」と一言。少し低い声がこだまして、


宏史ひろし君、眠れないの?」と、問う。


「いや、さっき目が覚めた。瑞希みずきちゃんがそばにいると、柔らかくて……あ、いや、とても気持ち良くて眠れたけど、瑞希ちゃんの寝顔が可愛くて、ちょっと……見てたくて」


 宏史君は片言と、所々言い直しながら、それも何か変で、わたしもまた、


「ね、ねえ、宏史君、小学校の時、令ちゃんが同じ学校で、隣のクラスだったなんて知らなかったなあ。令ちゃんのことだから、きっと目立ちそうなんだけど……」


 話題を変えようとしたのだけど、自分でも何を言っているのかわからなくなって……それがれいちゃんのことになって、よくよく考えたら宏史君は一つ年下で、学年も一つ下だから、令ちゃんの当時のことなんて知らないと思ったけど、それが、それがね、


「変わったんだね」

 と宏史君は、しみじみと……


 上半身を起こして、わたしにひっついて眠っている令ちゃんの顔を見て言った。


(訊いちゃいけなかったのかな?)

 と、わたしは少し後悔して、宏史君の顔色を窺った。


 あれ? 宏史君は、そんなわたしを見て、クスッと笑っていた。



 令ちゃんは五年生まで、わたしと同じ小学校に通っていた。わたしと同じクラスになったことはなく……お隣のクラスだった。宏史君が令ちゃんと知り合ったのは、ちょうどその頃。集団登校で、いつも一緒だった。わたしが転校してくる少し前の頃だった。


 宏史君が言うには、その頃の令ちゃんは、まるでお人形さんみたいで、話しかけられても、「うん」と「ううん」しか言えないくらいに大人しい子だったそうなの……


 そんなタイプの子は、典型的ないじめられっ子と聞いたことがあって、学年も学級も違うけど、学級委員長だった宏史君は心配していた。でも、どの子も、令ちゃんがお金持ちの子で、しかもPTA会長の子だって知っていたから、敬遠して話しかけることもなかった。だから一人ぼっち。……ある昼休みのことだった。


 中庭で、令ちゃんが座って何かしているのを見掛けた宏史君は、


西原にしはらさん、どうしたの?」と声を掛けたけど、令ちゃんは振り向くも反応もなかったから、そっと近づき背後から覗いたら、落書き帳に絵を描いていた。


 令ちゃんは夢中で描いていた。


「絵、上手だね」


 と、宏史君は声を掛けた。令ちゃんが描いている絵を見て……すると令ちゃんは、バッと落書き帳を両腕で抱えて、瞳に涙を溜めながら宏史君を睨んだ。


「あ、ごめんね。西原さんの絵が素敵だったから……ビックリさせちゃったね」

 と、宏史君は微笑む。精一杯に微笑んだ。


「……令子れいこ、だよ」


 と、辛うじて聞えるような声で、令ちゃんは瞳に溜めた涙を零しながら、ニッコリ笑った。……初めてのことだった。令ちゃんが笑ったのは。宏史君は、その時の令ちゃんの声と笑顔が、今でも忘れられないと言っていた。



 令ちゃんが絵を描くようになったのは、智美ともみ先生が薦めたからなの。


 智美先生は当時、令ちゃんの担任の先生だった。そして令ちゃんに、金田かなだ先生を紹介した。令ちゃんの話では、金田先生は智美先生の従姉弟にあたるそうだ。


 金田先生が、令ちゃんに絵を教え始めてから、半年が経つ頃だった。


「君の腕を見込んで、娘の成長を描いてほしい」

 と、おじさんに頼まれた。そして金田先生は、


「なら条件があります。人の成長を描くには、ありのままの姿でなければなりません。それはヌードも辞さないという意味ですが、よろしいのでしょうか?」

 と、毅然と述べた。……着飾らない、ありのままの姿。深い意味が、そこにあった。


 西原令子という少女の成長。お金持ちのお嬢さんというベールを脱いで、その子のすべてを知りたいから……言葉で表現できるとしたら、今のわたしにはこれが精一杯だけれども、きっと金田先生の想いは、それ以上の次元のお話だと思われるの。


 でも、そんな大事なことにも拘らず、令ちゃんに相談もなく、おじさんは二つ返事で了解した。「料金は弾む。君の好きなように令子を描いてくれ」とまで言って……


 そのことを、つまり令ちゃんが金田先生のモデルになるまでの経緯いきさつを知った時、


「そんなの駄目だよ、令ちゃんの気持ちはどうなるの?」

 と、宏史君は問い詰めたそうだ。そのことを話したのは令ちゃん自身で、


「いいの。それでパパが喜ぶから」

 と、泣きながら言ったそうだ。すると「ちょっと頭を冷やしてくる」


 と、声が聞こえた。ハッとして見れば、令ちゃんが起きていた。


「あ……でも、令ちゃん裸だよ」


 と、声を掛ける間に、令ちゃんは何も言わずベッドから降りて、そのままバタンと、ドアを開けて出て行ってしまった。……舞ってた涙。令ちゃんは泣いていた。



 迎える夜明けには、わたしの記憶に残された。


 宏史君が静かに語ったこと……それは、わたしの知らない令ちゃんだった。


 そしてその二時間くらい後に、宏史君は山田とお母さんと、それからお兄ちゃんと一緒に帰って行った。始発に近い電車に乗って。しかも新快速なので遠く遠くへ。


 そして今現在思うこと、それは……


 令ちゃんが今、窓から見ている景色は何だろう? と、いうこと。


 すると、令ちゃんはリュックサックを持って座席を離れ、絨毯の上に座ってゴソゴソし始めた。何だろう? と思いながら見ていると、スケッチブックを取り出し、花柄の筆箱も取り出して……開いたスケッチブックに、サラサラと描き始めた。


 そしてポンポンと背中を叩かれ、振り向けば、


「ママ?」


「瑞希、行っといで」

 と、ママはニッコリ笑った。


「ママ、パンダさん、お願いね」


 わたしはギュッと抱いているパンダさんをママに預けた。


 ママはコクリコクリと頷いた。わたしは座席を立ち、そのまま通路を歩いた。向かうは一番後ろの座席の、まだ後ろの赤い絨毯。令ちゃんのいる場所だ。


 でも、何て言えば……と思っているうちに、


「ここ、いいかな?」


「どうぞ」


 と即答。その令ちゃんの返事は冷たく、絵を描いたまま振り向いてくれないけど、わたしは横に座った。(令ちゃん、怒ってるのかな?)と思って、ちらっと顔色を窺った。


 その表情は、何か少し微笑んでいるようにも見えて「あの……」と、声を掛けたら、


「さあ、明日から始めるよ、百号のキャンバス」


「……わたしも、描いていいかな?」


「もちろん! 瑞希ちゃんも一緒だから」


 令ちゃんは笑顔で、わたしの顔を見た。満面な笑顔……


 令ちゃんは、またリュックサックをゴソゴソとして……


「はい、プレゼント」


 と、スケッチブックを手渡した。それに続けて「ほら、お揃いだよ」と、花柄の筆

箱も手渡した。そして「大事に使ってね」と、付け加えた。


 早速さっそく、令ちゃんの隣で、わたしも描き始めた。内容は決まっているから。


「海の絵だね」


「何でわかったの?」


「僕と同じだから。百号のキャンバスに描く絵はね、令子と瑞希ちゃんが二人で一緒に描くの。でね、金田先生に相談したら、その絵は『私学展』に出すことになったよ」



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