How completely day. 4

「やんなっちゃうよね、要経過観察だってさ」また検査しにこいだって、とわざわざ渡された次の診療日のメモを振り、ミシェルは頭の包帯をなでた。ワゴンに詰められた文庫本を整理していた、メアリーと名のる青年はひとしきり笑って、「もう顔の半分が白いよ」と、ミシェルが常からしている眼帯を半ば押さえるように巻き付けられた包帯とガーゼを指差した。空から飛来したジャム壜によって危うく死にそうになった先月末、公衆電話ボックス内で昏倒していたところを搬送され、一日の入院ののち、意識状態が回復し、やたらと検査をされ、CTやMRIの画像所見に異常はないとされ、退院を許された。その足で、メアリーのいる古本屋に来ている。

「不思議の国のアリスみたいだねぇ」

「うーん、兎穴のなかならジャムの壜で頭が割れることもなかったんだけど」

「まあ、世の中には隕石に当たって死ぬ人もいるから」

「あーなんだっけそれ。燕ちゃんに聞いたなあ。中国の伝説」

 思い出せない、と栗色の髪をかきあげるミシェルに、メアリーは「そろそろ記憶障害が出てきたんじゃない?」と笑顔のまま言い放つ。

「やだなァ俺記憶力はいいほうだったのに。というより、なんで俺あの日頭に壜が降ってきたんだっけ……」

「あれ、覚えてないの? あれ、エマちゃんが投げたんだよ。なんでも、あのエマちゃんの力を持ってしても蓋が開かなかったんだって」

「は? なにそれ、オーパーツかなにか?」

「でしょう、怖いよねえ。だから、怖くなって投げ捨てちゃったと」

「それなら仕方ないか……待って、そのヤバい壜今どこにあるの?」

 メアリーは眼鏡の奥の目に微笑みを浮かべたまま、レジスターがある棚の内側からブルーベリー・ジャムの壜をだした。ごとり。「ここ」

「何? なんで? 俺いま悪夢みてる?」

「あの日、──通りでこれが降ってきたあと、ミシェルは頭からダバダバ血を流しながら馬鹿みたいに笑いながらどっかいっちゃったから、ぼくが回収しておいてあげたよ」

「いいよ、そのまま闇に葬ってよこんなの。なんで無傷なんだよ、これ」

 ミシェルは恐る恐るハンカチーフ越しにそれをつかみ、検分してみたが、なんの変哲もない未開封のブルーベリー・ジャムだ。やけにガラスが艶々としているが、凹みや傷は一切ない。身震いしてメアリーに返そうとしたが、メアリーは腕を背後に回して微笑んでいる。そのとき、店先から声がした。

「はうでぃ、みしぇる! 一昨日ぶり!」

 メアリーとミシェルが振り返ると、店の前で長身の──といっても、この街の人間はやたら長身が多い──青年が手を振っていた。

「ユージ、ボンジュール。そちらは元気そうで何より」

「ああ、ミシェルはなんか、ジャム壜にあたってたよね、一昨日。いちごジャムがこぼれてたのを見たよ」

「うんそれね、俺の血」

 夜杜ゆうじはミシェルの手のなかの壜に目をうつし、「この古本屋ってジャムも買い取るの?」と首をかしげた。メアリーが笑いながら首を振る。

「これがミシェルの頭をカチ割った例のブツだよ。あまりにもピンポイントすぎて笑えちゃったね」

「うん、マリーちゃんはたぶんあの日じゃなくても笑ってたろうね」「メアリーだよ」

「ああ、そうなんだ、へーぇ……」

 ゆうじは遠巻きにその壜を見つめたまま黙っていた。ミシェルが壜を振って「……要る?」と訊ねると、笑顔で「遠慮しておくね」と返された。

「たぶん"なかみは"普通のジャムだよ」

「うーん、気持ちだけうけとっておくね」

 ひらひらと手を振られ、彼はそのまま去っていった。おや、もう少し立ち話をすればいいのに、と思ったが、そういえば同居人がいると聞く。それにしても、気持ちだけうけとっておくとは、日本人っぽい言葉選びだ、と思っていると、背後でメアリーがエプロンをはずしている。

「あれ、マリーちゃんもうあがり?」

「メアリーだよ」

 エプロンを手早く畳み、荷物をとってきた。本当に上がりなのかは知らないが、ミシェルは特に気に留めない。

「じゃあどっかでごはん食べようよ、お酒のみたい」

「奢ってくれるならいいよ」

「やったあ。俺、お酒ないとやってられないよ。しかも独りでいるなんて尚更むり。燕ちゃんがお友だちのところに行っちゃった夜なんて耐えられない」

「あはは、もう救いようがないね、君」

「違いないよ」

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