潜航機動隊 Ⅱ Is pink Eternally
ガラスが好きだった。とりわけ、水滴の拡大標本のような球体をしたものが。
それをビー玉と呼ぶのはのちに知ったが、幼い自分は、それを「融けない氷」と名づけ、その完璧な球面でどんな重圧も巧みに分散させ、廃棄区画や、古びた瓦礫のなかでもそのつめたさを保つそれを宝石のように大切にしていた。
その球のなかには、風にひらめく洗濯物や、半透明のビニールよりもさらに際立って薄くすべらかなものが、花びらがねじれた瞬間のまま閉じ込められていた。
「これをやるよ」
この世で唯一だと信じている従兄弟にも渡したことがないそれを、どうしてその日に、あの子供に渡したのか、自分自身でも覚えていない。それがこれきりの別れになると直感していたのか、名前も知らないその黒目がちの子供に、俺は、俺の瞳と同じ色をした花びらが凍りついた「融けない氷」を手渡した。
──あの瞳を今も思い出す。瓦礫のなかで見た火のように輝く、希望の瞳。
崩壊が奪い去った光。
この
「……? なんだそれ。なにかの比喩か?」
同じように、
その他、たまたま六層の生まれだと知った人間のうち、機会が訪れた相手には、タイミングをはかってそのことを訊ねている。しかし、誰も覚えてはいないようだった。機動隊にいる六層出身者なんてたがが知れている。引き取られた先の層もさまざまだ。すべての生存者の足取りを追うのは到底無理で、俺だって本気で再会を信じているわけではない。ただ、心に引っ掛かっているのだ。思い出の少年は、あの崩壊と一緒に過去の闇に飲みこまれたのか、それとも。
六層出身と知ったが、まだ、このことを訊ねていない相手がいる。
彼にもしも、この先このことを訊ねることがあって、そして答えを得られたら、それが否であろうと──というより、否だろうとほぼ確信しているが──俺は今度こそ諦めようと思っている。
過去を追うのは無駄だ。舞台の時間は戻らない。The show must go on, 声にはせず、歯と口蓋を舌で叩く。
思い出は心にのみあるものだ。
Blossoms will run away,
Cakes reign but a Day,
But Memory like Melody
Is pink Eternally.
花ざかりは長居をしない
ケーキは一日しかもたない
だけど思い出は音楽みたい
ピンク色があせない
──エミリ・ディキンスン作品番号1578(川名澄 訳)
難破
波間の手
神をつかまえようとする
消えいるような試み
道しるべに海を
抱いてゆく
──ネリー・ザックス(綱島寿秀 訳)
崩壊の日のことはいい加減、話したくない。第一、経験者がここにはたくさんいる。暗闇、轟音、火の赤、波の音──そして、怪物たち。
あちこちに、鬼火のように光がともっていた──その向こうから、黒い壁が、暴力的に闇を輝かせていた。闇が、黒が輝くということを俺はそのとき初めて知った──空を凌駕する暗黒!
空は血を流していた、それが瞬く間に見たこともない、見た瞬間に脳を押し潰されるような色に塗り替えられ、そうしてたくさんの積み木のようだった俺たちの街は色と形を失った。爆音に耳が聾され、最後は何も聞こえなかった。音のない震動の世界で、故郷は空ごと崩壊した。
その渦中から、幸運にも──本当に幸運にも──すくいあげられ、保護された子供たちがひしめいた光景を、断片的に覚えている。サイレン、赤いランプ、硬くつめたい床と壁、あそこはどこだろう? 輸送のためのコンテナか、それともどこかの施設か。連続しない記憶の画面はコマ送りで、音すら曖昧だ。俺はきっと大人に助けられたのだろう、その誰かすら思い出せない。最後まで手を繋いでいたはずのアグリと離れてしまったことだけが気がかりだったから。
みんなが毛布をかぶっていて、区別がつかなかった。俺より華奢だった従兄弟をさがして、俺は立ち上がり、ふらふらと歩き出した。黒い髪、だけれど瞳はまがうことなき俺と揃いの色をしている。次に見つけたら二度と手を離さないつもりで、だけど俺は結局アグリを見つけられなかった。
その奇妙な箱詰めの子供たちの光景の次に、俺の記憶は、暗いどこかの物陰に切り替わる──脱走する子供など構っていられなかったのか、俺はひとりでそこに座り込み、手を握って、開いて、を繰り返していた。その手の動きを覚えていて、今も意味もなく繰り返すときがある。空虚を握り、そしてはなす。
──この手を離さなければ。
今はそんなことは考えない。俺たちが離れないということも、可能性のひとつとしてはあり得たが、結局長じて再会したアグリはより上の層に引き取られて立派な男に育っており、俺は心から安堵し、どうしてか少し誇りに思ったものだった。
あのときに離れてしまった俺とアグリは、サバイバーである以外に何者でもなかったけれど、それぞれがそれぞれの運命に勝ったという、その証なのだろう。
──瓦礫のなかの星。
俺がたった独り投げ出され、そしてシルバー・スタァになった理由は、きっともう一度唯一の存在と出逢い、そして───するためなのだ。
自分の全身の無生命な物質によって
星々に合致するものをわたしはなんと愛することか
──イヴ・ボンヌフォア「サラマンドルの場所」
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