潜航機動隊 Ⅰ

 この世のものが、だいたい音楽のように聴こえるのが特殊って気づいたのは結構昔のことで、けれどそれほど遠い過去ではない。

 車の排気音、皿の割れる音、誰かが椅子を引いた音、話す声音の強弱、挨拶をする前の一呼吸、花を見て何色か言うのと同じように、それらの音をその通りに歌って、楽譜に書き留めることは俺には可能で、大抵の人間には不可能どころか理解もできないことらしいというのは、なんだか複雑な気持ちがした。そうだろ、ほとんどの人間にとっては何も意味をもたないものに、意味を見いだすのは狂人だ。俺は誰にも聴こえない幻聴をきいているわけじゃないと誰に断言できる?

 そんなことを思って生きてこそいたが、結局この感覚は俺の肉体とは切っても切り離せず、そのうちに、お歌が上手なカナリアとして価値をつけられるようになってからは、便利な耳を持ったもんだと思えるようになった。歌うこと自体は嫌いじゃないしな──今も。

 でも、嫌いな歌はある。

 いいや、歌いたくない歌、かな。

 肉体の記憶っていうのは厄介で、歌もそのひとつだ。記憶回路じゃなくて、耳が覚えてるんだろうな。文字通り。俺はどんな歌でも、その最初の一音をとらえて、忘れられない。溢れた水がコップの縁を伝い落ちていくのは止められない。

 誰かの靴音がタンゴのスタッカートに聴こえたら、"ラ・クンパ・ルシータ"が──聴きたくなくても──聴こえてくる。そうなると呼び水みたいに、俺の頭には歌が溢れでる。灯ほの暗く、夜霧は立ちこめぬ…虚ろな我が胸の淋しさ耐え難し……。

 その音楽が思い出させるのは、俺が本当に過ごした日々のことだ。

 誰にも言ったことはない。荒れ狂う天候、粗悪な電子の看板、刈られた草の紅い匂い、たばこの青い煙、労働とつめたい夜の空気。おなじ下層の気配をまとっている人間は、機動隊のなかにもたくさんいる。けれど、話したことも、俺を知っているか確かめたこともない。

 俺はここでは四層から来たということになっていて、味気ない摩天楼のシルバー・スターだ。タンゴも、ジャズも歌わない。俺の内臓にはレコードみたいに頑固に旋律が刻みつけられてるが、こうして口を閉じている限りはそれはこの世には出てこない。俺はそれを、自分の声で聴かずに済む。あの腹に響く裏拍、ぶつかりあうようなソロ、鋭いスタッカート、甲高いスキャット、あんなものは二度と──。

 あのいけすかねえ第四のお嬢様だったろうか。俺が、気づかずに口ずさんでいた曲に対してこう言った。"随分と悲しい歌を、微笑んでお歌いになるのね。そういう演出かしら、トップスタァ?"

 俺はその歌詞の意味を知らなくて、異国の音だけを知っていた。響きだけを頼りに、単語を分解して、辞書を引いたが、その歌は子守唄のようだということしか解らず、三日の後に、お嬢様に訊ねにいった。お嬢様は、あの底の見えない、艶ばかりが墨のように美しい軽蔑の瞳で俺を見つめて、小さな口で微笑んだ。

"その歌は、自分の子供と引き離された奴隷が、雇い主の子供のために歌う子守唄ですのよ"

 ……ま、それが理由ってわけじゃないが。

 オペラは好きだぜ。歌うのは"俺"じゃないからな。スタァ、雲母ベニヲの演じるセルセが歌う"オンブラ・マイ・フ"、カラフの歌う"誰も寝てはならぬ"、いつだってそれは舞台の上で、ナイロンの天の川と切り紙の花吹雪、スポットライトの熱が焼く血潮が塗り替える魂。

 六層にいた頃は、俺は誰でもなく、誰のためにでもなく歌っていた。

 崩壊の後、あの労働者の街で歌っていた俺は、いったい誰のために歌っていたのだろう。

 俺は瓦礫のなかの星だ。

 ハリボテの、銀メッキの、紛い物の星。

 夜も更けた。時計の音がする。なあ、俺は誰に向かって話しているんだろうな。この部屋には鏡すらないんだぜ。俺は自分のことを口にしない。スタァは舞台をおりればスタァではなくなり、その影は闇に消える。残るのは瓦礫のような紙吹雪と夜のような緞帳ばかり。俺の声を誉めてくれた幼馴染みは、俺の本当の姿を知ったらどう思うんだろう。もう手遅れだ。俺は舞台からおりるわけにはいかない。永遠に。

 The show must go on!



 あたしは真珠。お母さんにはそう言われてた、色が白くてふっくらしてて、真珠パールみたいに可愛いよって。にこにこしてたらいいことがあるから、にこにこしていなさいって教えられたの。確かにそうだよね、にこにこしてると、男の人が話しかけてきて、ご飯を奢ってくれたりするもの。あたしは若い頃のお母さんにそっくりだって、お父さんが言ってた。お母さんの遺影、若い頃の写真だったから、確かにそれが正しいことはわかった。あたしが真珠なら、その母も真珠に決まってる。

 でも、真珠って手でさわると、すぐに脂でくすんじゃう。

 ほんもののパールと違って、純潔は、どれだけ拭ったって戻ってこない。

 小学校の高学年頃から、背が急に伸びはじめて、他のところもどんどん変わっていった。もうその頃はお母さんは死んでたから、ブラジャーの選び方もどうしたらいいのかわからなくて、これはなんの罰なんだろうって子供ながらに思ったな。お腹は痛くなるし、血は出るし、ブラジャーのワイヤーは擦れるし、ショーツの布地はごわごわしてた。

 ……それで、あの夏がきた。

 たしか、花が咲いてたわ、庭に。そのたくさんの花の影が、床の上で融けてひとつに揺らめいて、おばけみたいだった。部屋は暗くて、あの人の顔はみえなくて、なんにもわかんないまま、あたしは女にされた。

 女になったら、突然、あたしの周りに男が増えた。ううん、増えたんじゃない。元々居たんだけれど、彼らがあたしを見つけたの。新しい"女"だって。女の子たちもあたしに気づいた。異物が紛れてるぞ、って。

 女の子のなかにいる「女」って、怪物なの。畏怖されるかもしれないし、嘲られるかもしれない。とにかく、気がついたらあたしは、笑顔の怪物になってた。男の人は、欲望や、淋しさや、鬱憤を抱えてあたしに話しかけてくる。あたしの肌はそれを吸いとって、女という闇に包みこむ。あたしや、そういうことをする他の女のことを汚れてるっていう女の子たちは、その純潔で、誰を救ってるっていうの?

 あたし誰のことも恨んでないよ、本当に。だって何もしてないのにご飯奢ってもらったり、プレゼントもらったりするのっておかしいでしょ。それに、あたしの見た目を誉めてくれるんだもの。断っちゃ悪いじゃない。それであたしのこと欲しい人が慰められるんなら、喜んでさしだすよ。それでお互い、いいじゃない。

 ……ほんとに、そう思ってるんだよ。

 ねえ、そうでしょ、ヲトメ。鏡のなかのあたし。笑っているもの、あなた。

 ……ほんとだってば。

 あたし、人の役に立つの。誰も恨まず、にこにこ笑って、真珠色の人柱になる。それがあたしの唯一の夢なの。

 ………夢、なんだよ。

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