Libertaris 悪夢

 血の臭いがする。

 この臭いはなじみ深い。他人のものも自分のものも、生きるため獣を捌くときにも嗅ぐし、金属の武器などを手入れするときにも嗅ぐ。知っているし、慣れている。

 だが、知っている人間の首と合わされば、話は別だった。

 膝の先に転がっている親友の生首を撫でながら、終わってくれ、早く変わってくれ、と念じ続けていた。このあまやかな金髪の感触が、早く黒い靄と角に変わりますように、この血が早く泥のような汚れに転じて悪臭を放ちますように、と願って願って、気づけば握りしめた拳の掌と、噛み締めた唇から出血していた。

 不意に、がざ、と掌にごわついた感触が刺さり、次いで絡まる棘が無数に皮膚を傷つけて、一瞬で靄に変わった。指に絡みついていた金髪も消え、ノーレは心から安堵して深く息をはいた。その瞬間、ふたつに折った体の真ん中から鋭い痛みと鈍い痛みが走り抜け、呻き声が漏れる。斬ってすぐに正体を現す魔族もいれば、こうして、絶命してもしばらくは借りた姿のままでいるものもある。初めて後者に巡りあったとき、……親友の姿をした屍に触れたとき、心臓がねじれて潰れそうになった。

 斬り結ぶ際、鎖骨下や両の脇腹に、深めの裂傷を負ってしまったのとは別に、立ち上がるのに膨大な気力が要った。

 血の海に転がる、大切な人間の首。

 ──兄貴!

 二年前のこの日、手を振っていた小柄な姿。そのすぐあとに、小さな頭と体がばらばらになって、絶命したその姿で兄と再会した妹の姿。こんなときに思い出してる場合ではない、と失血で朦朧とする頭で思っても、隙間からこぼれるように記憶が転がりだしてくる。

 雪の中、降りしきる白ではかき消せない血と土の泥濘のなかに撒き散らかされた、毟ってちぎり捨てた妖精の羽のような色合いの髪。触れようとしたとき、ごろりとその丸いものが転がって、その形に全身が凍りついた。

 掌で感じとる愛しいかんばせの形、開いた唇と瞼、頬を汚す血、乱れ張りついた頭髪、腕のなかに収まる球体。神よ、これは悪夢だと言って、この腕のなかに抱くのは悪魔の落とし仔だといって。真実を知りたくはない、目を開けたくはない。

 ──過去の記憶を断つように、剣を地面に突き立て、ノーレはよろめきながら立ち上がった。喉から込み上げる鉄の味をどうにか飲み下しながら、魔族の死骸を踏み、なおも戦場へ戻る。

 あとどのくらいの贋作と遭遇するというのだろう。いつ、この悪夢は終わるのだろう。

 初めて、相手の顔かたちをはっきりと認めながらその首に刃を突き立てた。よく見知って、なじんで、全面の信頼を預けてきたそのかんばせを切り離し、血に汚れた地面に落とした。その瞬間、思わずレオン、と名前を呼んでしまったことを後悔している。

 もしも、もしもそんな風に、本当に大切な相手に、誤って自分が手を下してしまったとしたら。

 首に巻き付いた己の髪が、こびりついた血の重みに滑って、きりりと首を絞めた気がした。

 ノーレはみずからの喉に手をあてがい、交差させ、この首を捧げてもよいから、けして愛するものを失いたくはないと神に祈る。そして後悔する、ああ皆はこんな気持ちだったのだ、あの雪の中に膝を折って涙した騎士も、誰が偽者かわからないと怯え喚いた者たちも、皆こんなおそろしい恐怖の闇を摺り抜けてきたのだ。

 ……それでもなお、歩みを止めてはならない。

 総毛立つ肌をこらえながら、ノーレは、まだ明けない夜のなかで、篝火のごとく感じ取れる魔の気配を目指して歩を進め始めた。

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