Libertaris まぼろし

 雪を溶かして、頬を凍らせる涙を見た。友人の姿を数限りなく切り刻んだ騎士が、雪のなかに膝をつくのを見た。

 見た、というのは実際には違って、ノーレ=D=ドーレストにはその光景は見えないのだが、触れる・・・のだ。より正確にいうのなら、空間に張った見えない糸に、こぼれた涙の粒や、くずおれた体の震えが伝わってくる。

 いつもはぼんやりと乳白色をした景色が、今は灰色がかって、火花がちかちか瞬いた。額から顔半分をおおうように流れ続ける血を舐めて、それを美味いと感じる体の限界を知る。

 代わりに、心は平常だった。

 王族然とした凛々しい立ち居振舞いが印象的だった、養成所時代の後輩である霊司──ミッシェルの姿をした魔族の背骨を砕き、首を落とした瞬間ですら、まったく揺らがなかった。触れた掌には確かに彼女としか思えない顔かたちと熱が伝わってきたが、そもそも気配が違うのだ。それは、目が見える他の騎士たちが、赤い花と緑の葉を見分けるように、ノーレにとって自明のことで、だから貫いてしばらく自分の掌になじみ深い人間の屍の感触が残っていても、騙されなかった。

 ……他の者も、けして騙されているわけでは、ないのだが。

 ノーレは剣の鞘を支えに、ミッシェルの姿をした魔族が残した黒い澱のなかに腰を下ろした。割れた額が痛み、視界に散る火花が増えていく。太陽を見たときのようだ、と思った。思考が散漫になっていくのをかき集めて、唇を噛む。

 肉体の苦痛が精神に影響を与えることを理解している。それでも膝をつくほど心が重くなることはノーレにとってはあり得なくて、まだ歩かなくてはならないのに、殺さなくてはならないのに、という焦りともどかしさが多少棘になるくらいだ。

 自分はどれほど、友人の姿を殺したのだろうか。殺せたのだろうか。躊躇いなく、疑いなく放った矢の数は到底かぞえられるものではなく、近づいてくる魔的な気配は片っ端から切り捨てた。誰かと確かめることもしなかった。だから、誰の姿をしていたかはほとんどわからない。……数名の他は。

 顔が見えれば、こんなことはないのだろうか。

 自分は、友人を斬ることを躊躇うのだろうか。あるいは、躊躇わずに斬ったあとに、耐えられずにくずおれるのだろうか。

 視界の外から近づいてくる気配を知りながら、ノーレは座り込み、自問を続ける。剣の柄を握る、指の力はまだ微細に調節が効く。まだ戦える、まだ殺せる。目の前まであと少し、近づく足音と影に、瞼をおろしたまま、手首に力を込めた。

「ああ、第三騎士団の──」

 知っている声がして、知っている鎧の形をして、知っている喋り方で呼びかけてくる友人の姿をしたものを、刹那獣のように切り捨て、そして靄を斬ったように忘れ去る。

 目の見える人間からしたら、どちらが魔なのだろう。

 目の前に現れた、養成所時代から知る騎士の顔を真一文字に切り捨てて、そこから吹き出す黒い血のような霧の向こうに、変わりない乳白色の空を見る。早く夜が来ればいい、と思った。そうすれば、誰の目にも、顔など見えなくなるのだから。

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