Libertaris しろがね
魔の気配がする。
この感知覚ばかりは、目が見える他の人間と共通して持っている数少ないものだと、ノーレ=D=ドーレスト自身は思っているが、実際のところどうなのかはわからない。少なくとも、彼にとっては、一面の真白いなかに一筋の黒い煙を立たせたようにはっきりと、遠くからわかる「色」、あるいは「匂い」、もしかしたら「味」と同等のものとして、それは検知される。──あわせて、得意の空間魔法で探れば、漠然とではあるがその姿かたちまでわかるのだから。
しかし、魔の気配と一言でいっても(少なくともノーレにとっては、だが)その種類は多岐にわたる。
昔、魔族の襲来によって滅びた地域の文化圏に存在したという、香りを聞いてその名を当てる雅やかな遊びと同じように、微細な違いを感じ取り認識し、分別するのは、慣れがあってもなお難しい──種別ごと、というような分かりやすい違いではないのだから、なおさらだ。人ならざる者の血が混ざっている僚友たちが集まっていると、不可思議な花束のように実に多種多様な魔が香り立つ。
結局のところ、靴音や体臭、声の調子というふうに、単なる個人差と同じものかもしれないと思っている。
ノーレには友人や知り合いと呼べる存在が少ないが、そのなかでもその気配を持つ人々は限られていて、彼らの「個性」を、ノーレはすっかり覚えていた。
だから、雪と戦場の空気を運ぶ風と同じ速度で、前線の空を駆けていても、その「匂い」はすぐに持ち主がわかったのである。
──ルキウス殿、のような気がする。
心中で呟き、彼独特の手法で滑空しながら、網を投げるように、周囲に空間認識のための魔法の糸を伸ばした。騎士や霊司が多く集まる、野戦病院がわりになっている教会が近くにあるせいで、感覚が撹乱されている。そのせいか、感じ取った人物らしい気配の細かい位置を特定するには少々の手間を要した。
色でたとえるのなら、太陽が昇る時刻の大雪原のきらめき、月のまばゆい夜に降るみぞれ、匂いでたとえるのなら、手折ったばかりの百合から薫る青と銀の瑞々しさ、硬くなったばかりの常緑樹の葉から散る清々しさ、味でたとえるなら薔薇のつぼみを折りとったその丸い花びらの透き間から溢れる露と蜜。
一見、自然現象のように思える雪の吹き寄せられた山の影に、その人物はいた。
一心不乱に、盛り上がった雪の表面を叩いているその人物の背に、宙から吊りさがったまま、ノーレはおそるおそる声をかけた。
「………ルキウス殿、いったい何を?」
その人物は手の動きを止め、振り返った。少なくとも、ノーレの張り巡らせた糸にはそのような感触があった。直感に間違いはなかった。雪に溶け込んでしまう白い外套、さらさらとした髪、金属の硬い鎧、一角獣のような角が額から伸びているのに風が触れる。美しき仮面の騎士、ルキウスだ。
「おや、こんなところで会うとは、奇遇ですね、ノーレ殿」
「はあ、確かに奇遇だが、あの、それで一体貴殿は何を」
「かまくらを……」
「かまくら」
「はい」ここで野営するつもりなのです、と言ったルキウスの鎧からは、既に血の匂いがした。それに、なんだか……言葉にはできないが、奇妙な感触を、ノーレの空間認識器官は覚えていた。
──ルキウス殿は、いつも仮面をつけているが……
考えているうちに当のルキウスが、おだやかに話しかけてきた。
「ノーレ殿も、このまま前線に?」
「いや、俺……私は、先刻まで結界を張るために前線にいたが、伝令を受けて首都に戻るところで。大方の第三騎士団所属の者は、そうだと思われよう」
「ああ、城内にも魔族が入り込んでいると聞きました。姑息にも、我々に擬態していると……
「ええ、道中、戻る者がおれば拾っていこうと思うのだが。なかなかどうして、出逢うのは敵ばかりだ」
ルキウスが口元に手をやって笑うような仕草をしたが、そのあとふと手を下ろした。
「……私が敵でないと、わかるのですか」
ノーレは首をかしげた。確かに、いつもと仮面の形が違うような気こそすれど。
「気配が、いつものルキウス殿と同じ匂いなので……」
「おやおや」
若く、ともすれば少年のようにすら見える肢体を持ちながら、老成したような口調でルキウスは笑った。
「随分と、甘ったるい信用ですね」
「ん、言われてみれば。貴殿と同じような気配を持つ魔族がいないとも限らない……あまりないと思うが」
「いえいえ、その通り。赤の他人でも瓜二つだったり、声がそっくりだったりするのと同じですよ、ノーレ殿。今後は気をつけるように」
「ご指導感謝する」
ノーレは頭を下げながら、昔、ルキウスが騎士養成所で講師として話していた姿を思い出した。魔族がどれほど精巧な擬態の力を持つのかは知らないが、たとえ脳の中身ごと複製できるのだとしても、他人の記憶にある姿まではさすがに遡れまい。より強く目の前で輝く、
「野営の準備を手伝わせていただきたい」
「おや、ご親切ありがとうございます。しかし、私には貴殿が本物のノーレ殿か、判断する術はありませんが」
「私も、証明はできないな。でも、ここまで近づかせてくれるということは、信じてくれているのだろう」
無言のルキウスが、その仮面の向こうで静かに微笑したのだろうということは、研ぎ澄ませた感覚がなくてもわかった。その仮面が、どうしてか妙に冷たく、ゴツゴツと歪なことに、いつ突っ込みを入れるべきか考えながら、ノーレはかまくらの表面を叩き始めた。
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