Blood Worker 2

 錠剤のような月が白く輝いていた。

 こぼしたシードルと灰で汚れたワンピースは、悪夢のみぎわによく似たムーン・ブルーだった。モニカは銀のラメがついたハイヒールを脱ぎ捨て、歩道に転がったそれを、松の並木の根本に蹴飛ばした。

「……しんじゃえ」

 幹に手をかけて、うつむいたモニカは呟いた。裸足の指先には、芝の上で横倒しになったきらきらの銀のハイヒールがあって、レイプ現場みたい、と思った。

 それを見ていると、Over the rainbowのメロディが低く口をついて出た。

 北の魔女がドロシーにくれたのは、銀の靴だったわよね。東の悪い魔女が死んだから、その足からうばった銀の靴。

 冗談じゃないわ。

 唇を引き結んだモニカはペディキュアを塗った爪先でその靴を蹴り飛ばすと、裸足のまま──ふらつきながら──歩き始めた。パーティーをしていた同級生の家に上着を置いてきてしまったので、手ぶらだ。錘のない気球のように、ぼんやりと悪い熱に浮かされて体が軽くなる。内臓も落としてきたようだ、と思った。

 世界が終わるより最低な、十六歳の夏の終わりだった。

 耳鳴りが続いている気がしたけれど、そのうちに気がついた。車の音だ。さっきからときどき、色々な事情で夜のドライブをしている車両が、モニカを置きざりに過ぎ去っていく。

 地響きみたいな音量そのものが特徴になる、スポーツカーのエンジン音が背後から近づいてくる。

 このへんはドイツ車が多い、と思いながら振り返ったモニカの両の網膜を、一瞬でライトが灼いた。目をぎゅっと閉じたが、瞼の血が透けて視界が赤く染まり、花火を頭のなかで爆発させたようだった。恐る恐る目を開けると、モニカの目の前に黒のBMWが停まっていた。BMW──M3。ナンバーは見なかったけれど、車種は覚えがあった。運転席の、センスがいいカフスがついたシャツの袖にも。

 助手席のウィンドウが開いた。

「……兄貴」

 モニカが思わずこぼした声に、無彩色モノクロームのような外見のなかではっとするほど深い青の瞳が、暗く細められた。

「乗りなさい」

「やだ」

「いいから」

 ぬるりと暗がりから腕が伸びて、手袋越しでもほのかに暖かい掌が、モニカの手首にそっと添えられた。振り払おうとするほど力は残っていなかったので、自棄になって、倒れ込むように乗り込んだ。車体が揺れ、兄─アイザックの眼が、モニカの剥がれかけた裸足のペディキュアや、むき出しの青白い肩をさっと観察した。居心地がいいわけではなかったが、ショールもどこかへ捨ててきてしまった。

「友達の家でジェイムズ・ジョイスの研究をする、と聞きましたが。捗ったようですね」

 その気の無さそうな口ぶりの皮肉に、わけもなくかき混ぜられっぱなしの頭がいら立った。

「そう、超頭使った。だからこんなに疲れてるの」

「靴も鞄も忘れてくるほど?」

「……あたしがどこで何してようがあなたには関係ないでしょ、プロフェッサー」

「いいえ、我々は大いに関係しています。遺伝的にね」

「……半分だけじゃない」

 目を閉じて、窓にこめかみを押しあてた。ひやりと硬いガラスが、骨との間で皮膚と短くしたばかりの髪を摩擦して、不快な感触が脳に響く。気持ちが悪かったし、眠りたかった。

「髪を切りましたね。いつ」

「………」

「…会うのは三ヶ月ぶりくらいでしたか。じゃあ、そのあと」

「……分かりきったこと言わないで」

 音楽がない車内は柩といっしょだ、とモニカは思った。二人乗りなのが柩と違うところだけど。レコード愛好家のアイザックが、CDやBluetoothを好まないのは知っていた。この車内には沈黙以外注がれることはない。

 十五も年の離れたこの兄は、普段は実家でなく、他の市内に住んでいるはずだ。このハイウェイからはそれなりに遠い。分子遺伝学の天才と謳われる彼は、なおさら多忙で、異母妹のモニカとは兄妹らしく遊びに出かけることさえほとんどなかった。

「誰と吸いました」

 思わず運転席の方を見ると、ちらりと視線だけを寄越された。この兄の眼が、モニカは苦手で、愛してもいた。夜に見れば、孔から向こう側の闇が透けて見えるように昏いのに、まっすぐにこちらを見つめてきた一瞬だけその青がわかる。

 その眼がちらりと背後に向けられて、それに導かれるようにモニカも後部座席を覗き込んだ。シートには、道のどこかで捨ててきたスパンコールのハンドバッグがあった。蝶の形の留め金が壊れて開きっぱなしの口からは、指紋がついた、銀色のシガレットケースが覗いていた。

 モニカは頭痛をこらえるように顔をしかめて、また窓の外へ視線を投げた。

「……ただのシガレット」

 そのなかにあるショッキング・ピンクやムーン・ブルーの手巻き紙の色を、ごまかせるわけがなかったが、ふてくされて言った。取り上げられるだろうが、どうせ誰かがすぐに新しい葉を手にいれる。ドラッグなんて、パーティーでは音楽と一緒だ。多少刺激的なセットリストじゃないと、誰かしらが下らないと言って曲を変えてしまう─全米ヒットチャート40なんてもってのほかだ。

 沈黙を守るアイザックの指がハンドルにすべらかに絡みつき、車は速度を増しているように感じる。体にかかる重力に、いい加減どこかへたどり着いてくれないだろうか、とモニカは思った。このまま子供の頃に遊んだ人形みたいに、車窓から放り投げられてしまいたい。ばらばらになって、全部どうでもよくなり、置き去られる。

 やがて、車が減速するのが、身体感覚と空気を切る音の高低の変化でわかった。曲がり角が増え、住宅街に入る。見覚えのある家々の並びに、モニカはぐったりとシートに身をゆだねた。帰ってきてしまった。夜に浸食された百日紅が月光を浴びて、黒薔薇色のちぢれた花びらの縁を、ラメを散らしたように銀色に光らせている。

「林檎の枝、だいぶりましたね」

 闇に青く沈んだ門扉に覆いかぶさる林檎の木を見たアイザックが、場違いなほど穏やかな発音で呟いた。モニカは返事をせず、扉を開けて、裸足で家の前にまろびでた。

 父母の趣味で、イギリス風に設えられた庭木の隙間で座り込みかけたモニカの腕を、慣れた強引さでアイザックが引きずりあげた。それは家族愛の乱暴さで、母親が聞き分けのない子供の腕をひっぱるのと同じ強さだった。その手に、小さなバッグがやわらかく押しつけられる。「自分の荷物は自分で持ちなさい」

「レディのバッグなんだから、もってよ」

「兄に私物を触られたら怒るのが、世の思春期の少女だと思ったのですがね」

 バッグの中で揺れたものが鳴らした微かな金属音に、モニカは顔をあげた。

「……これ」

「ギリギリ非合法じゃなさそうですからね」

 シガレットケースの中身を確認して、兄の横顔を見上げると、鍵を探しながらアイザックはそう言った。モニカの目を見ることもなく、ポケットから鍵を見つけると、やたらと大きな扉の小さな鍵穴に差し込んだ。

 物音ひとつしない、暗い、ブルーインクに浸したような空っぽの廊下を見て、アイザックは片方の眉をあげた。

「お前のママはどうしました」

「知らない。ママの予定ならキッチンのカレンダーを見て、そこに書いてあるから──人に言える外泊理由なら、だけど」

 アイザックはため息をついて、言われた通りリビングの電気をつけたあとにキッチンの方へ行った。モニカはソファに身投げするように倒れ込んだ──もう動けない。

 しばらくしてキッチンから戻ってきたアイザックは、素っ気ないブラックコーヒーをふたつと、砂糖壺、ミルクを盆にのせていた。ウェイターみたいなその姿勢が妙に似合わなくて、モニカは口の端だけで笑った。それを見たアイザックも皮肉げに笑い、白い個体─粉末状─と液体が入ったガラスの容器をふたつ指さした。

「これ要ります? 要らなかったらばかみたいですね」

「普段はいれないけど、ばかみたいな兄貴がかわいそうだからいれるよ」

 カップを受け取ったモニカが上目遣いで兄を見上げると、それだけで妹の言いたいことが伝わったアイザックは肩をすくめた。

「学会がこっちの方であって。せっかくなので、お前も夏休みだろうし、少し家に寄ろうかと思っていたのですがね」

「連絡しなよ。兄貴、ひとりでこの家に一晩明かすはめになってたよ」

「連絡しましたよ。だからお前がジョイスの研究をするために・・・・・・・・・・・・・友達の家に行ってることを知ってたんじゃありませんか。

 ………お前こそ、どこかに泊まるあてでもあったんですか」

 モニカは口を真一文字に引き結んだ。アイザックはその表情を見て、軽い調子のまま「父がいないのは想定してましたが、まさかゴースト・ハウスになっているとはね」とコーヒーを啜った。

「最悪、ママと兄貴だけのご対面になってた可能性あるじゃん」

「ひとつ言っておきますが、継母と義理の息子の関係性が実母とその息子よりも必ず悪いという偏見はお前ほどの知性を持っていれば幼稚園あたりで捨てるべきものです」

「……ま、兄貴はママとの方が歳近いもんね。むしろ、ムリに親子親子しないからいいんじゃない」

 投げやりな口調に混ざる色に、アイザックは嫉妬混じりの皮肉とラベリングしようとして、嫉妬を羨望と置き換えた。異母妹の鋭敏な感性と、荒れ狂う情をもて余す家庭内の不和は、うっすらと感じ取れていた。

 洪水から助け出された生存者のように、身を丸めてコーヒーを一口ずつ啜っていたモニカに、アイザックは不意に「クスリのことですが」と投げた。妹の眉間に皺が寄るのを見ながら、指を二本立てる。

「ひとつ、葉の種類、どのくらいの量か、品質はどうか、わからないものを吸わないこと。

 ふたつ、ひとりで吸わないこと。あなたのは手巻きですから、ひとりで吸いきろうと思ったら適量以上になってしまいますからね」

 決まり悪そうなモニカは足の指を重ね合わせて、短い髪を指に絡ませながら俯いていたが、やがてぽつりと呟いた。

「……怒んないの」

「充分怒ってみせているつもりですが」

 ばつが悪くなって、モニカは目を逸らした。カーテンの隙間から、斜めに庭がのぞく。銀粉をまいたようなその先は闇へ飲み込まれている。

 幾何学的な花壇と芝生の向こうに、林檎の木が見える。それらすべてに、閉館した美術展のように、半透明の青いヴェールがまといついている。

 直方体にカッティングされた垣根の向こうに停められた兄の車を眺めているうち、遮るもののない月光のもとで初めて、黒でなく、深い青だと気づいた。

 その─兄の瞳によく似た─色をじっと見ているうち、絹糸がほどけるように、青ざめた唇が開いた。

「ごめん、兄貴」

「それは何に対してですか」

「……ぜんぶ」

 その一単語の内包するものを、はかりかねた曖昧な表情が、一瞬だけ兄のかんばせの上をよぎったのを見て、モニカは悲しげに薄く笑った。天才でもそんな顔するんだね。その言葉は、唇の内側で消えた。

「あたし、ある人に会いに行ってたの。

 ……サンクトペテルブルクのね、芸術学生。こっちのデザインスクールとの交換留学でこっちに来てる…来てたんだって。あたし、それで──それで──」

「その彼とクスリを?」

彼女SHEよ」

 モニカは、夜を見つめたまま低く返した。アイザックは頷いて、続きを促した。

「夢みたいな夏だったわ。ドラッグがみせてくれる悪夢みたいな、美しくて、狂った夏。

 初めのうちは、本当にいつものみんなで、ハイスクールの課題をやってたのよ。あたしたちが優秀すぎてすぐに終わっただけ。ナタリーの家がいちばん広かったけど、クレイグの家は両親がぜんぜん帰ってこないの。だから、クレイグのお兄さんたちと一緒にパーティーをするようになったの。…

 クレイグのお兄さんは映画学科で、いつもアーティストのタマゴか、生まれ損なったヒヨコみたいな友達をたくさん連れてきて、すごく変だった。ブッディストで青いモヒカンの娘とか、いつも変なジョークしか言わないブラジルの男とか。

 彼女とは、気づいたらふたりきりだったの。

 ナージャ、って名のられた。ロシア訛りの英語を、長い舌でわざと呪文みたいに喋っては、それを聞き取ろうとするあたしたちに笑いかけるの。

 彼女はミュシャのマカロニみたいな黒髪に、ほんとうに青い目をしてた。ドラッグを吸ってハイになると、瞳の奥から拡がった血管の色が透けて、夜明けみたいな色になるの。

 あたしが初めてクスリでハイになったとき、ミルクシェイクを飲みたいって言った。そしたら彼女、あたしをキッチンに連れてって、バニラアイスをミキサーにいれて、作ってくれた。キッチンにはあたしと彼女しかいなかった。

 あのね、兄貴。彼女は、兄貴とおんなじ、特別な存在だった。天才ギフテッドだった。

 彼女は血を操れるの。

 彼女ナージャはあたしにミルクシェイクを左手で差し出した。血が針になって、その指先にはりついていたの。前衛的なアクセサリーのようで、珊瑚に見えた。

 それで──彼女は、あたしの指を刺した。眠り姫を刺した、紡ぎ車の針みたいに」

 指からちくちくとそのときの痛みが上がってきて、やがて首や心臓を刺し始めた。血管のなかを通う血液が無数の針に変えられたような気がして身をよじる。バッド・トリップだ、というのはわかっていたけど、止められなかった。幻は記憶から今現在の実体を浸食し、アイザックが額に張りつく前髪をどけようとするのを振り払って、うわ言のように喋り続けた。体のどこかを動かしていないと、血の針が停滞して、溢れて、皮膚が破れてしまうような気がした。──長く深いキスを交わしているときに、蛇のように絡みつく四肢が止められないように。

「彼女とは、肉体的なセックスもしたわ。でもそれ以上に知性のセックスをしたの。あたしは彼女との議論を好んだ。ヌーヴェル・バーグについて、構造主義について、左岸派について。

 兄貴ならわかるでしょ。ノートを何十枚も使って数学の問題が解けたときの、少しのずれもなく全く同じものを、全く違う視点から見ている相手と話したとき、ニューロンを電気信号が伝達していくのを感じたときの、あの火花みたいな快楽よ。脳のなかだけに閉じ込められた、純度を高めすぎた快感。

 あたしは彼女の意見を聞きたくて、自分の意見を言いたくてパーティーへ行くわ。玄関ポーチであたしを見て、彼女はこう言うの。ちょうどよかった──きみと議論したいことがあったんだ、って」

 ペディキュアの上に涙がおちて、熱い樹脂のように盛り上がり、ふるふると揺れていた。レンズになった水滴の上には、ぼろぼろと泣くモニカ自身の顔が逆さまに映っていた。コーヒーのカップは床に落ちて、乾いた血のような茶がフローリングに広がっていた。

「今日、彼女、いなかったの。キッチンには知らないカップルがいた。アイスは溶けて、ミキサーは分解されて洗浄されてた。

 メンバーはみんな知らない人。どこを探してもあの黒髪に神秘の青い眼をしたナージャはいなかった。

 現実的に考えれば、ロシアに帰っちゃったに決まってる。あたしとのことは一夏の遊びだったから、さよならを言わなかっただけ。Les Misでフォンティーヌを捨てた学生みたいに。

 でもね、あたし彼女が、おなじ世界のどこかにいるなんて思えない。どこへ行ったって会えないの。消えてしまった。あたしは彼女に捨てられたの。

 彼女は東の魔女で、何者でもないばかな高校生あたしを、道端の草と同じように踏んで、千切って、冠にしてみたりして、そして──来たときと同じように道端に放り捨てて、平凡なあたしの人生から永遠に去ってしまった。

 あたし──独りよ」

 銀の靴もないから、永遠にさまよい続けるだけ。

 肩を抱いて丸まったモニカの黒髪が、ソファの革に擦れて抜けて、鋭い痛みが襲う。独りになったと知った今夜、衝動のまま切り捨てた毛先は不揃いの針の群れだった。

 モニカの魂が置き去りにされたのは、荒野かもしれない。沙漠かもしれない。しかし逃げ水を追う姿は、血の針でとめられた蝶の標本のように美しくはなれない。

 少女の肉体は老いていく。夏が過ぎたら秋が来て、冬が訪れ、春が幻に迷っていい季節の皮を剥いでいき、やがて夢みることを許されない女になり、そして青春の日々を、笑ってほろ苦く振り返る過去にすることを強要される。

「そんなことできない。あたしこの傷痕を、ぜったい思い出になんかできない。知らなきゃよかった。男の子たちと遊んで、付き合って、それなりに真剣になって、別れて、それを繰り返していくべきだったのに、あたしはさなぎを切り開いてしまった。

 もう中身はぜんぶこぼれちゃった。戻せないわ。こんなに早く、ううん、一生知るべきじゃなかった──こんな恋!

 あたし許せない。彼女を忘れられないあたしが醜くなっても、きっと彼女に執着することを許せない。女は──期限が短い消耗品だから──消費されなきゃいけないのに──あたし、傷物になったの、望んで。そのくせ、あたし失ったものを嘆いてる!」

 その瞬間、顎をつかんで上を向かされた。大きな手だった。

「私の目を見なさい」

 ソファから立ち上がろうとして、膝から力が抜けたモニカの体が横に倒れかけたのを、床に落ちたカップを蹴ってアイザックが支えた。

「お前に…女の価値だとか、若さは消耗品なんていうことを吹き込んだ人間が誰か……他に訊きたいこともたくさんありますが──ねえ、モニカ。お前は、これより先にもないほどに、その人に恋をした──そうなんですね」

 ずるずると雪崩れていくモニカの細い体を抱えて、アイザックは低く、しかし鋭く言った。

「だったらお前が、その人と出会ったこと、その人と過ごしたこと、その先の未来を否定してはだめです。お前は自分のことをただの女だと、価値は若さだけだと思わされているようですけど。ええ、お前の旅は続くでしょう。それはもしかして、確かにつらい孤独の道かもしれない。ただの女が行くには惨い旅かもしれない。ね、私の声が聴こえますか」

 この私の妹・・・・・──と、耳元で囁いた声に、嗚咽を溢すモニカが激しくかぶりを振ったのを知りながら、アイザックは続けた。青い瞳で─モニカとまったく同じ色をした─あの青い瞳で。

「お前がどこへ行ってしまおうと、必ずこれだけは覚えていて。私はお前を探す──たとえこれきり出会えなくとも。私のただひとりの妹」

 世界のどこかに、必ずお前を探している人がいることを忘れないで。

 泣きじゃくるモニカはすべての支えを失って、くずおれてしまいたかった。細いくせに揺らぎもしない兄の腕と体の体温に、皮膚も溢れる涙も丸ごと、焦がされていくようだった。この温度を知っている。ぐずぐずに腐っていく魂には触れることができない、皮膚を隔てた向こうの、自分が永遠に憧れ続けるもの。

 この人には、永遠に自分を見つけられないだろう。なぜなら、自分は平凡だから。

 この夜が明ければここを去るだろう兄に、はんぶんだけ血を分けた同胞に、モニカは裸足のまま、心のなかで別れを告げた。

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