Exorcism 4

 天使もゲームをする。しかしそれは、天使の館が人間の住まう家屋敷とは全く異なるのと同じように、娯楽のためでなければ勝負のためでもない、大抵は。その目的を問われれば彼らは皆一様に顔を見合わせ、口を噤むだろう。──天使には、なぜそんなことをするのかと訊ねられるべき事象など無いからである。 

 裁きの天使カイヤエルの館は、やはり人間の考えるものとは本質を異にして氷で完成されている。それが融け、滴り、また凝固して再構成されることがあってもそれは崩壊とも進化とも取れない、単なる変容であり変質ではない。そもそもが、来訪するものをのみこむ形に、石灰華のごとくうねる巨大な氷は、永遠に融けることはない。虚空に向かって聳える逆さのつららは塔で、その内部には冷徹が反響している。

 怒りの天使カミエルやその他の天使の館と同じように、カイヤエルの館にも天使が降り立つための窓がある。厚い氷を切り出した青い四角をくぐると、層を重ねたつめたい虹の屈折がすべてを構成する部屋があり、その中央には円形のテーブルがある。鳩や百合や星や、白いものがたくさん彫刻されたその卓は氷塊であるが、水晶よりも硬かった。

 その卓上に薄青い影が落ち、八枚の翼の羽ばたきが氷に吸われてほんのわずかに室内に届いた。テーブルの縁に指を置いて佇んでいたこの館の持ち主カイヤエルは、顎をあげて「カミエル」と、黒い肌に白を血に浸したような翼をもつ天使によびかけた。来訪者は、白い眉をあげて窓からするりと降り立つ。その裸足も全き黒であった。「カイヤエル。空からこちらの塔を見かけたもので、立ち寄った」

「そうか。きっとまた氷が育ったのだろう──最近はよく冷えるので」

 やりとりをしながら、カミエルはカイヤエルの向かいに立ち、床の氷を破って現れた椅子に腰をおろした。八枚の熱を帯びた翼は畳まれている。カイヤエルも、その青い輝きを放つ翼をしまって腰を下ろしたのを見ると、カミエルは、職務の最中よりも多少─あくまで多少─気安い態度で、身にまとうだいぶ独創的な鎖帷子を揺らしてカイヤエルに話しかけた。

「人を知ったと聞いたが。お前は変わらないな」

 この言葉に、カイヤエルは「氷は常に融け、また形を変えるもの」と曖昧な返事をした。

「──お前の氷は本来すべてを内包している。だからこそ不変であるのだろう」

「そう見えているのなら、そうなのかもしれない」

「氷はそう言っている。俺はこのつめたさがすきだ。真実の温度をしている」

「そういえば、部下が"次の集いで、カミエル様とは、お席を離されますか"と訊いてきた」

「俺も訊かれた。何故だろうな」

「それほど親しくはないと思われているのかもしれない。何せ、私は人前では改まった口調だ」

「こうして意味もなく顔を見に来るほどの距離には、なるほど見えないかもしれんな」

「──意味もなく顔を身に来たのか」

「そうだ」

「まあ、構わない。私も今はあいている。好きに過ごすといい」

「──ゲームをしよう」

 カミエルの唐突な提案に、カイヤエルは少し顔をあげたが、表情は動かなかった。

 カミエルが目の前のテーブルに火の息を吹きかけると、糸となった金紅の炎が卓面を縦横無尽に奔りぬけ、無数の四角に区切った。完成した盤を、カイヤエルは落ち着いて見下ろしている。

「駒はこれでよかろう」

 カミエルが掌を置いた指の先、盤面からするすると銀の小さな穂先が伸びて、瞬く間に黒いいばらがまっすぐな先に小さな花を咲かせた。螺旋状についた棘の先は明るい銀に光っていた。黒い指がその蔓を折ると、ぱちんとかろやかな音がして、凍りついたまま黒いいばらは宙に掲げられた。

 それは人間が見れば、精巧なガラス細工の花、あるいはまとめ髪に挿す花飾りのようだと思うが、天には人の作ったものに似た物質は存在しない。天にあらかじめ存在するものを、人がそうと知らず模倣しているだけである。

「盤面の升と駒は足して十四万四千。百聞は一見に如かず、己の指を動かせば自ずと理を得る」

「つまり、習うより慣れろと」

 カイヤエルがならって盤面に手を置くと、その白い指先からは、するすると産毛の銀にきらめく茎が伸びて、やがて閃光を模したような白いあざみが花開いた。

「このゲームの名は」

「世界」

 カミエルの答えを合図に、二人は盤上に目を落とした。

 升目にはそれぞれ名前がつけられているようだった。《天啓》、《飢饉》、《巡礼》、《戦争》などの文字が浮かび上がる表面に、カミエルが《氾濫》の上に掌を滑らせると、その跡から黒いいばらが伸びて追いかけた。

 黒い蔓がその四方の升に棘を突き刺し、動かなくなると、カミエルは目で手番を促した。カイヤエルが、真似て《落雷》の文字の上に指を置くと、尖った形状の白銀の葉がきりきりと萌えでて爪と触れあい、硬質な音を立てた。しかしその升だけである。なるほど、陣地をつくっていくゲームだろうか、とカイヤエルは思考する。

 カミエルは、淡々と花の駒を置いていきながら、人間についてカイヤエルに語りかける。二人の間で、たびたび交わされる議題である。

 ちょうど人間の世界では、科学が加速し始めた時代であることをカイヤエルは知っていたし、それを他の天使から聞いてカミエルが知っていることも知っていた。そして、彼は怒りの天使である。

「──万物にあるじの設計図があることを人類は突き止めようとする、それは原罪の再演であるとなぜ気づかぬのか」

「あるじは人間の繁栄をお望みになる」

「繁栄とは増長と傲慢、そして放埒のことだ。楽園の植物は互いに喰いあったりはしない」

「カミエル、あなたの番だ」

 カイヤエルの白い腕がのべられ、カミエルは曖昧に頷きながら駒を動かす。おいた目は《洪水》だった。氷の面を透かして、荒れ狂う水が盤に映し出され、そこから黒いいばらが生えて波に乗り、まわりの枡を支配した。幾つかの白いあざみも絡めとられ、表情ひとつ変えないカイヤエルは「おや」とだけ言った。

「……魔物を生むのは、繁栄と驕奢の結婚だ」

 炎の色をした瞳は、じっと飲み込まれていく白を見つめていた。カイヤエルはその瞳を見つめながら指を伸ばし、駒をひとつ置いた。目の名は《開墾》だった。先ほど黒い水に飲まれた枡に、銀の粒がはらはらと撒かれ、そこからゆっくりと幾つもの白いあざみが伸びてくる。カミエルは頬杖をつき、すぐに駒を《嵐》の目に動かした。とたん、ひび割れる幻聴と共に、氷のなかで銀の雷鳴が閃いた。

「……カミエル、あなたの怒りは分不相応に対するもの。ならばこれは如何だろうか」

 言いながら、カイヤエルは駒を動かした。カミエルは身を乗りだし、盤面を見て眉をあげた。

「私の取り分は《不相応》か?」

 カミエルは腕を組み、卵形の揺り椅子に背を預けた。「……否」声は、出し抜かれたな、という親しみ深い不機嫌さを漂わせていた。

「おや。では」盤上に白いあざみがするすると伸びて、その鋭い銀の針を開いた。陽を浴びた霜のようにきらめくそれは、片隅の《希望》の枡の上に輝いていた。黒いいばらが支配していた面のあちこちにも、くろぐろ濡れた土のなかから芽吹く春に似た白銀の尖端が、刃のようにきらめいていた。

 カミエルは緩慢に腕を伸ばし、《疫病》の目に触れようとしたところで動きを止め、指を引っ込めた。

 カイヤエルは両手をのべ、あざみといばらの両方の花の首をそっと支えた。

「……裁きは公平でなければならない」

 塔の上で、氷の鐘が鳴りだした。カミエルが白い鬣を振って、腰をあげる。

「お前の勝利だ」

「おや」

「このゲームは《希望》を見つけたほうが勝つ。俺には見えなかった」

 カイヤエルが盤面に目を落とすと、いつの間にか氷のテーブルの全面が白いあざみの野に変わっていた。光の粒を集めて惜しげもなく吹き上げて散らす白銀の花の群れはまばゆく両の目を射て、装飾音の豊かな氷の鐘の音とよく似た祝福の構成要素としての役割を成していた。

「俺は、《希望》を見つけられたことはない」

 カミエルは窓にむかって歩いていった。

 切り取られた縁に裸足の爪先をかけると、次の瞬間にはその背に巨大な八枚の翼が広がった。

 その蠢く白い翼の集積に、カイヤエルが不意に声をかける。

「……カミエル。人を知ってみては如何か」

「お前がそんなことを言うとはな」

 翼がはためき、中央の淡い薄紅の影から、響きを幾分羽に吸収された静かな声が返ってきた。

 青ざめた氷の天使であったカイヤエルが、たったひとりに力を貸すと決めたことを、彼は既に知っているのだろう。変容しない氷の砦の輝きに、春の光に似た色が混じり始めているのを、ゲームの盤面に見たはずだ。

「私とあなたの異なる点はそこだろう。良し悪しの話ではないが」

 光得て、繁栄する地上の楽園の縮図を見おろして、カイヤエルは続けた。

「彼らが咲き乱れるのを、我々がり、また矯め、また支える。それこそが、希望を見つける方法なのではないだろうか」

 カミエルは返事をしなかった。ただ、飛び立つために開いた翼が互いにふれあうとき、明るい外に向かって切り取られた窓辺に、庭師の鋏のような音を残していった。

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