Exorcism 2
いまや風景画家なんていうのは、ヒエラルキーで最も下位の存在だ。
ヤンは内心でそう独りごちながら、港をスケッチしていたカンバスを塗り潰した。金がなく、新しいものを手に入れられないから、同じカンバスを白く塗り潰してはその上に新しい絵を描いている。静物画家よりはましだろうと思いたかったが、下手な物売りより収入が低い己の現状ではそれも危うい。女中をやっている恋人と結婚することすらままならないのだ。
この国は今がきっと黄金時代で、季節でいうなら夏なのだろうと思う。この輝きがいつまで続くのかはわからないが、蜜蜂がおなじ季節をめぐることはないように、このような栄華は去ってしまえば二度と訪れないだろう。そう思わせる、花火のような世相であった。
交易は栄え、異国の果実、砂糖、香辛料、潮風に帆船を駆る貿易商は今やおとぎ話の大金持ちだ。ことに、近年はチューリップの球根が市場で人気を博し、競りでの値段は高騰する一方だった。この北の国にはない鮮やかな色彩と大ぶりな花は、そのふるさとの豊かさを香らせ、みていると幻影にくらくらとする。
南や東、海と空の向こうにある黄金郷。プレスター・ジョンの国。
けれど自分はそこにいけない。
画材を抱えて、帰途につく。派手な付け襟を見せびらかした商人たちが談笑しながらすれ違い、ケープを羽織った主婦が買い物をする。活気に満ちた光景がどうしてか、溢れかえる騒音に飲み込まれた頭には、ぼんやりと水面に映る街並みのように歪んでその速度についていけなくなりそうだった。
「危ないよ」
背後から声をかけられ、腕を引っ張られた。がくんとそちらに体が傾き、爪先が道端に積まれた木箱に当たって、隣に座っていた持ち主らしい男に睨まれる。首を竦めて振り返れば、そこにはヤンの腕を引いたらしい人物がまだ立っていた。若い男だ。魚売り風の格好に、小舟の形をした籠を担いでいるが、中には何も入ってない。耐えがたい潮の臭気もなく、ほのかに香草の匂いが漂った。
男は、構わずヤンの顔をのぞき込んで微笑みかけた。
「お兄さん、お金ほしいの?」
北国で出会った商人のように白い輪郭に似合わぬスペイン風の黒髪は、日に焼けたのか毛先が赤く透けて、瞳は猫のような翠だった。オランダ人ではなさそうだ、とヤンは思いながら、うろんな目のまま「……そうだけど。貧乏人は誰しもそうだろ」と返した。あんたも、と言おうとして言わなかったのは、彼がどうにも貧しい空気を吸って暮らしているとは思えなかったからだ。貧民の歯は白くない。
「画家なんだね」
ヤンがもて余すように抱えた画材一式を一瞥し、つまらないことを言った。立ち止まって会話する二人の横を、どこかの屋敷の使用人らしい女が怪訝そうに通りすぎていった。
「酒場にいけばいいだろう」
「賭けなんか」
「賭けじゃないよ」
チューリップだ、と耳元で囁かれる。明るいのに、奇妙に絡み付いてぐるぐると頭の中を回るような声だ。眩暈がする。ヤンは鸚鵡返しに「チューリップ……」と呟いた。そう、と頷いた男は、担いでいた籠をおろして手を入れる。
「投資ってやつ。今や修道院は銀行、娼婦が億万長者だよ」
何も入っていないと思えた籠の底には、にんにくくらいの大きさの球根が転がっていた。それを三本の指で取り上げて、ヤンの目の前に差し出す。美しくもない、なんの変哲もないはずのその塊が、魔女の薬のようにおそろしく、しかし魅惑的に見え、ヤンは一歩後ずさった。
「今夜、角の酒場においで。何ギルダー持ってる?」
「かき集めて…十五」
「そんなら量り売りの単色を買えるよ。白とか、赤とか」
もう少し都合できれば、次に売りに出される五十個の白を競り落とせばいい、と男はとりわけ近くで囁いた。ヤンは息を飲んで、脳みその中心で何かが開くような感覚に震えた。まるで頭蓋の真ん中に、真紅の異国の花を植え付けられたようであったから。
「白の球根、四十」
酒場の喧騒に紛れた低い声には、商人らしい愛想も売人らしい狡猾さもなく、異様に冷たいとヤンは感じた。宿屋も兼ねた酒場の、階段下の暗がりに立つ男は、これからヤンがチューリップの球根を買い付けようという相手である。
「おいおい、一昨日は十五で五十個買えたろ?」
「寝ぼけたこと抜かすな。相場ってのは火だ、瞬きする間に炎になる」
黒髪の男は肩を竦め、商売女のようにあだっぽい眦でヤンに目配せした。
「こいつは修道院の代理人なんだ。金のことにはそりゃ厳しくってね、かわりに不正やごまかしは滅多にしないよ」
「滅多にじゃねえ。絶対だ。その代わり支払いが遅れたら身ぐるみ剥がして売れるもんはぜんぶ売り飛ばすからな」
「わはは、聴こえてた」
ふん、と鼻を鳴らした代理人は、もっていた煙管を咥えて不機嫌そうに細く煙を吐いた。南の国の果実の色をしたリボンをつけた帽子が、暗い酒場のなかでは彼の顔を隠してしまい、ちらりと覗く髪の火のような赤ばかりちらついていた。世にもめずらしい、燃えるような赤だ。
「……まあ、いいだろう。金を払ったら、『庭』へ連れていってやる」
ヤンは少し戸惑った。球根と金をその場で交換するのではないのだ。実態のないものを買う不安感に少し迷いが生まれ、そんな様子を見ていた赤毛の男は、その素人ぶりにため息をついた。
帽子の鍔をちょっとあげ、鋭いエメラルドの瞳が閃光のように現れた。ヤンは、あっと声が漏れるのを止めることはできなかった。
それは息を飲むような異形だった。ちょっと見ないような美しいかんばせに、やはり見たこともないほど惨い痘痕が、左の顔面をおおっている。長い前髪はすだれのようにその黒い瘢痕にかかるが、おとがいまで広がる皮膚の変質を隠しきれてはいなかった。巨匠の彫刻のかんばせに罅が入り、苔むしているのを見たときや、老婆の皺の狭間にかつては美しかったという痕跡を見たときのような気持ちにさせられた。
そのとき、酒場の奥で競売が始まった。花の色合い、球根の所在、出品者の名前が告げられ、競りが開始される。先程とは比べ物にならない緊張と高揚の中、怒号にも似た声が飛び交う。それらはみな数字であり、同時になにかに書き付けた数字を頭上に掲げている。壇上の男が木槌を振り下ろした。落札である。歓声が沸き起こった。
「でも、単色の球根ですら、二日でこんなに値が上がるんだよ。ここは毎晩競売が開かれてる、うまく転がして、運がよけりゃ早くて一ヶ月で富豪さ。──ね? 恋人とだって結婚できるよ」
ヤンはその場の熱気に半ばぼんやりとしながらうなずいた。この男に、自分は結婚したいのだといつ教えただろうか、などという些末な疑問は瞬く間に消え失せた。肩に置かれた手から、耳元から、その甘ったるい彼の言葉が染み込んでくる。インクを溢した紙のように。
「さあ──どんな花が咲くだろうね」
運河から引き上げられた溺死体を、ぼろ布がくるみこんで隠す。行き交う雑踏は声低く高く、チューリップのせいだよ、球根が病気になっちまったんだって、花のために命を落とすなんてねえ、と批難と哀れみが半分ずつ、そしてわずかな嘲りのスパイスを振りかけてざわめいている。
跳ね橋の上で、じっとその様子を見つめていたひとりの男の背後に、空っぽの魚籠を抱えた黒髪の男が歩み寄った。長い外套の裾を引っ張ろうとする寸前、振り返った赤毛の男が、その手を容赦なく打ち払う。
「あら冷たい」
「アホか。お前のせいで顧客がひとり減ったわ」
「え、でも金はちゃんと身ぐるみ剥がして毟りとったんでしょ」
「それでもそこで死なれたら打ち止めだ。前の取引で欲出さなきゃ、あの画家はまだ市場にいたろうさ」
彼が咥えていたパイプの薄い烟が、ぼんやりと潮風に揺らぐ。湿気た匂いに舌打ちし、ウィレムは赤毛の隙間から黒髪の男を睨んだ。
「……お前が唆さなきゃあ、な」
「あのさ、俺、なにも言ってないからね?」恋人のお話を聞いてあげたり、そのためにお金が必要なんだっていうから、お前を紹介してあげたり、そういう友達付き合いしかしてないよ、とやはりあだっぽく笑んだ男に、ウィレムは遠慮ない嫌悪の眼差しを投げかける。「抜かすわ、この悪魔が」
黒髪の男は答えず、からからと笑った。
にわかに渦を巻いた潮風に、帽子のオレンジのリボンが顔の前をなびき、ウィレムは億劫そうに幅広の鍔をつまんで回した。ひしめく帆がばたばたとなびき、青空が狭くなる。
のうのうとその隣に並んで、木製の湿った欄干にもたれると、男は首をかしげてみせた。
「それで。本部へ行くのはいつ?」
ウィレムは帽子の鍔を深くおろし、少しの間黙った。
「……知ってたのか」
「俺ね、意外とあっちの人とも仲よしなの」逆の順番で十字を切り、悪戯っぽそうに笑う唇の艶は、不気味なエメラルドだ。紅を塗ってでもいるかのような赤さがその頂点でどうしてかひっくり返るのを、ウィレムは本能的におぞましいと感じていた。
「……明後日」
「へえ、早いね。妹さんには会ったの」
「……つくづく油断ならない奴だな」唇を歪めて吐き捨てる。「俺はお前に妹のことなんて話した覚えは、ない」
「あらら、俺が噂好きなのがバレちゃうね」
「……嫁入り先は香辛料の貿易商だ。善良じゃないかもしれないが極悪人でもない。そして、些細な誘惑に揺らぐほど不幸でもない。お前の出る幕は無いぞ」
「俺のことなんだと思ってんの」
「悪魔」
簡潔な答えに、男は白くて尖った歯を見せて笑った。さっと、少し離れていても見えるほど高い位置にある、金持ちの屋敷が立ち並ぶ一角の窓をあおぐ。ウィレムの視線はさらに厳しくなる。
「確かに、魚売りが会える相手じゃなさそう。お兄様が怖いし、妹さんにご挨拶するのはやめとくね」
「未来永劫な」
「そんな目しないで」松明を向けられた魔女のように、黒髪の男は痙攣じみて片目を細める。「天使を思い出すよ」
そのひずみに多少溜飲を下げたのか、ウィレムは皮肉げに口角を片方だけ吊り上げた。
ますます風が強くなり、にわかに海鳥の声がうるさくなる。青天を不意にかき回す風を訝しむ船乗りたちの声が、あちこちから聞こえてきた。
黒髪の男は、欄干にもたれたまま喉をそらし、空を見ながらにたりと笑う。その笑みを視界の端にとどめ、ウィレムはパイプを咥えた。話す気はない、と伝える仕草に、黒髪の男は肩を竦めて、赤く滲んだような眦を細めた。
「──それじゃあ、さよなら。天使さまによろしくね」
一瞬だけ、白い帆の群れにまじって黒い翼がはためいたように見えた。ウィレムが気だるく緑の目を瞬かせたのち、そこには誰ひとりの姿もなかった。
ウィレムはただ煙を吐き出し、海の向こうに目をやった。風が隠すその先は、いまだ何も見えない。
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