Exorcism

「まったく人間には失望する」

 薔薇の煙を含みながら、そう切って捨てた黒い天使に、その薔薇の育ての親は優美なかんばせに苦笑を浮かべるにとどまった。彼は、そうやって幾世紀もの間に何度も切って捨てた人間への愛を、ぶつくさ言いながら拾い集めては、また丁寧に形作って抱くのだから。

 天使の館というのは、人間の想像する居住空間とは多少にかかわらず異なる意匠をしているが、カミエルのそれは、終わりなく無数の折り返しを持つ白い大階段を流れ落ちる水と、あちこちの天使のための扉を兼ねた窓や、途切れた廊下の際から注ぐ滝の群れという点で特に異質であった。幾重にも透かし彫りをかさねて設えた天井から降る光は、おかげで氷の虹を孕み、水面で砕けてあたり一面に散りばめられた。絶え間なく響く音楽的な流水の音に、なぜかと訊ねる者は、肩をすくめた天使たちからこう答えを得られる。──火を消すには、水が必要だろう。

 ラズリエルは、愛しい人間からの贈り物である茶器に手製の薔薇水を注ぎながら「あなたの失望というのは、散ってしまった花を初めて見たときの感覚と似ていますね」と返した。水脈のなかに佇む棕櫚や、棗椰子の銀の花が、傷ひとつない輝きでしゃらしゃらと音を立てた。──天界では、花は散らないのである。

 この言葉からなにを読み取ったのか、カミエルはふんと鼻を鳴らす代わりに翼をこすりあわせて多少の抗議を見せたが、やがてラズリエルの手元に意識を向けた。「飲むのか」

「ええ。花びらを煮てみました」

「道楽者だな」腕を組み、同席している他の天使に物憂そうに目配せする。「口は告げるためにある」

「神は我々に食することをお許しになったのです」

「天使に食事は要らぬ」カミエルの耳元を彩る永遠の銀のねじ花が、ぱちぱちと火花に照らされた。「人間にも許すべきでなかった。奴等は罪悪を食した」

「薔薇は罪ではありませんよ」ラズリエルの翼が羽ばたくと、尖端が刷毛で夜をはくようにきらめきを撒いた。その瞬きの前に、何か云いたかったような顔をしているカミエルは黙り込む。

 人間の作ったものを、興味津々で取り入れてみる天使は随分とふえた。楽園の外である人間の世界では、花は枯れ、葉は朽ち、根は腐るがため、乾かして保存するのだというと聞いたときには、天使はみな一様にへえと感心したものだった。知恵とはそもそも罪であると断ずる過激派の天使たちもいるが、大抵はその愛ゆえに寛容だ。なお、ここには非寛容的な天使のひとりがいる。その非寛容的な天使は、あいかわらず薔薇水の香りだけを戯れに食むと、不意にまた癇癪玉を燻らせ始めた。

「だいたい、先の百年が既におぞましい。おぞましさの極みだ。見たか、あの略奪と凌辱の嵐を。大航海時代? 愚かな。極めて愚かな。悪魔の角のように反ったあの船首の忌まわしさ、みな沈めてしまえと思ったものだ」

「確かにな」壮年の男の姿をした天使が指を組む。「お前は特にそうだろう。ありゃ俺も閉口したもんだ。人間ってのは肌の色ひとつで、おんなじ人だとわからなくなっちまうものかね」

「しばらく人間の前に姿を現さずにいたら、途端にこれだ」光を吸う黒檀の肌をこすり、苦々しくカミエルは吐き出す。「決めた。俺がこう口にできるということは、あのお方がお決めになったということだ。ちょうど今、西の大地は冷えているところであるが、人間どもに我が火はやらん。お望みの試練だ」

「まあ、調整にはいいだろ」不思議なほど人間らしく、壮年の美丈夫の顔をした天使──ギュリオスは、一息に薔薇の匂いをまとう水をあおる。「前世紀、あれだけ暴れたんだしな。しかし、新教徒が台頭してきているが、それについては?」

「構わん。所詮どちらも根は同じだ。その癖殺しあう。そもそも、新教だ旧教だと身内で揉めておいて、今度はなんだ。手を組むだと? なんのために。利権だ、私欲だ、罪悪だ!」

 交響楽的な水音にも勝る憤怒の声色にひきだされるように、八枚の羽が左右対称に広がり、紋章学的な百合を思わせる。しかしその輪郭はほの淡く光り、不穏な熱を帯びている。肩を竦めたギュリオスは、ラズリエルに目配せして近くに寄らせる。ラズリエルも困ったような色を優しい形の眉にのせて、大人しく彼の傍らに腰かけた。

「そんなの遥か遥か昔からのことだろうよ、カミエル。だから人から魔物が生まれるのさ」

「ふん。今回は大っぴらにやってるのが気に喰わんのだ。元より大国は好かん。虚飾の都市だ」

「そんなのどこだってそうだろうが」

 言いながらギュリオスはそっと、その月のように大きな翼をきりきりと広げた。硬質な輝きの内部に困惑しつつも笑みを崩さないラズリエルが映り込む。無駄だろうよ、とギュリオスがその耳元に吹き込む。「最近、とみに燃えやすいな」

 その語尾に重なったぱち、と稲妻の尾が弾けるような音に、諦めたラズリエルは、器用に自らの羽を花のつぼみのように畳み、己を囲うギュリオスの翼にもたれかかるようにした。

「赦さぬ。正義なき戦争に勝利はない。このまま歩みを止めぬと云うのなら、いつの日か、怒りによって滅びよ、人類。見果てぬ野望と、必ずもたらされん報いに身を焦がせ。それは、神より賜りし、我がほむら、よ…」

 低く溢れる詞が、きれぎれに燃えていき、開いた唇の両端から炎の切片がこぼれた。それらはひらひらと頬や髪に飛び、あざやかに燃え上がり始め、黒いかんばせをこの上もない純粋な怒りの光で彩った。

 次の瞬間、真っぷたつに裂けたかのように首を反らして哮り立つ彼の上顎から上が、閃光と焦熱の火の玉と化した。それが天に突き立つ稲妻のように爆発し火柱となった刹那、彼の頭蓋は炎の柱の内部で薔薇の形に変容し、その開いた口蓋の放ついかづちが轟き、水が咆哮した。共鳴した水滴が砕け散り、立ち昇る火柱に白亜の階段がひび割れて砂になる。降る白沙と熱風に、瓦礫のような飛沫になって舞い立つ水の帳を幾重にも隔てたところへ避難したギュリオスと、彼の巨大な翼が護るラズリエルは、揃って空が嘆いて星を降らせるようなため息をついた。

「これ、あと何世紀続くかね……賭けでもするかい?」

「どなたも参加なさらないと思います、ギュリオス様」

 ふたりの会話をかき消すような炎熱の、詞なき獅子吼は未だ轟き、吹き散らされ逃げ出した銀の花びらが、ギュリオスの美しい髪とラズリエルの優雅な羽にまといついた。雪のようで綺麗だ、などと思ったりもしたが、頬を灼く高熱の衝撃波は看過できるものではない。

 しびれを切らしたこの天使たちが、天球儀のように集めた水の中にカミエルを閉じ込めてこの件を解決したのは、また別の話である。


*薔薇水──紅茶やティーパーティーの文化が始まるのは十八世紀以降のこと。

*西の大地は冷えている──十四世紀半ばから始まった小氷期のこと。

*新教徒が台頭──十六世紀に始まった宗教革命、及びそれから続くプロテスタントの隆盛のこと。

*新教だ旧教だと身内で揉めておいて──三十年戦争において、旧教国のはずのフランスが、新教国側についたこと。

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