悪神グルマンディーズ

 日が、溶けたいちごのような甘ったるい色に染まって、西に落ちる時刻。

 準備中、の札がカラン、と鳴った。カウンターを布巾で拭いていたハヴィは顔をあげる。

「きたの」

 洒脱なデザインの扉からちょっと顔をだし、まんまるの頬ではにかんだように笑った。ふくふくの顔つきはなに不自由ない家庭の娘のようだが、ブリエに長くいる客に訊ねても、彼女の苗字や、家を知るものがいない。さては、ヴァカンスか何かだろう、と誰も気にはとめない。ここは流砂のような街なのだ。

 バーに来るにはあまりにも幼いが、やんわりとハヴィが窘めても、わかっているのかわかっていないのか、こうして星が目覚める頃にやってくる。

「ボンソワ、おにいちゃん」

 ハヴィは黙って微笑み、開店前のカウンターの隅の椅子を示した。ベルベル、と名乗る少女はとてとてと入ってくる。今日は、Aラインの黄色いワンピースを着ていて、余計に子どもらしい。

 彼女にはバーの細い脚をした椅子は高すぎて、よじ登るようになってしまうので、ハヴィが手伝ってやることもしばしばある。背の高い椅子に座っても、カウンターからやっと顔が出るくらいだ。

「いい匂いがするの!」

 座るなり、嬉しそうに言う彼女が指すのは、ミラベル、ムラサキスモモなどの蒸留酒オー・ド・ヴィの香りだ。まだ十歳になっているかも怪しい少女を見下ろして、ハヴィは「それはまだ早いんですよ」と、あらかじめ用意してあった小さめの─百合のつぼみに似た形をした─グラスに、よく冷やした真っ赤に透きとおる飲みものを注いだ。こてんと首をかしげた少女に、バーテンダーは洗練された仕草でグラスを差し出す。その手入れされた爪の清潔な輝きに見とれたように、ベルベルは身を乗り出した。

「フランボワーズ・ジュースです」

「なんだ。血かと思った」

 いつも、自身の髪の色とよく似たオレンジジュースを出してもらっているベルベルは、両手を伸ばしてよく冷えたグラスを取った。

 その表面を覗きこんだ、五月の季節のような瞳が、まんまるにきらめく。

「すてき! 魔法みたい」

「今日は五月一日ですから」

 紅くゆらゆらするグラスのなかには、ホワイト・ショコラで作られた葉っぱと、砂糖で作られたすずらんの花が浮いていた。

「おにいちゃんまほうつかい!」

「お褒めにあずかり光栄です」

 ピンクの砂糖菓子を、同じような色をしたちっちゃな指がつまむ。

「ベルベルね、おいしいものすきよ。でも、食べるとなくなっちゃうの。この花みたいに」

 みて、と小さな口を開けて、そこにお菓子を置く。しゅわ、と、舌の上で砂糖が溶けた。ハヴィは目を細めて、やわらかく頷いた。

「そうでしょうね。花は咲いて、萎むのが常です。でも、季節はまた廻る」

 優美な曲線を描くグラスの水滴を拭き取りながら、銀髪の青年は優しく言った。あなたの声はママの靴のベルベットか、灰色の猫の毛並みに似てる、とベルベルはまるい頬をつめたいカウンターに寄り添わせた。

「でも、おんなじ花じゃない。……」

 ハヴィの仕草を真似るように、ベルベルはフランボワーズ・ジュースのグラスの側面に、短い指を当てた。水滴をすくい、子どもらしいよれた線で、大理石のカウンターの上に、そっとなにかを描いていく。それは透明な百合だと、青年にはわかった。

「ほしいの。おんなじ花が」

「……それは、我々がこの世にいるかぎり、むりなことです」

 灰のような銀を透かして、淡い星の色の瞳が優しく瞬いた。どれほど美しい夕暮れも、必ず夜が訪れるように、その声は花を描く少女の姿を包んだ。

 六枚花弁の百合の花、その中央には、ちいさなおしべとめしべ。妖精の腕のように絡んだそのきらめきを、じっと見ていた少女は、不意に頭上のバーテンダーの片眼を見上げた。星を拾うその色は、子どものそれとは到底思えないものだった。結晶化し、ひどく老成した、千年もののエメラルドのような両眼で……。

如何どうして、大切なひとって、ひとりしかいないのかなぁ」

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