Twitter創作企画交流まとめ

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死神さまの蓋棺録

 瞼をおおうように垂れる髪のあざやかさは、ときどき目を突き抜けて脳を射る。痛いほどの色彩はかき鳴らすギターの叫びにも似て、あの奈落へ墜ちていくような刹那的な興奮の名残と、後悔を呼び起こす。トールは長い前髪をかきあげて、後ろの髪と一緒にまとめると、ピンで適当にとめた。幾分視界がすっきりする。生前には見られなかった光景だ。

 こんなにあざやかなピンクが、自然界にあるとは思えなかった。だが、写真でなら、観光雑誌の表紙で見たことがある。南国エル・スールの白い壁と青い影にぱっと飛び散ったブーゲンビリアを。

 トールは力を抜いて、ソファに身を投げ出した。クッションの、墓場の土に似た固さは、生前よく過ごしたスタジオの楽屋と似ている。扉に貼られたBerryBomberの文字、鏡があって、仕切りがあって、それから……

 そうだ、あのブーゲンビリアは、そこで見たんだ。

 自殺するどのくらい前だろう。時間の感覚も失せるほど、とても忙しい時期だった。そう、三枚目のアルバムのレコーディングと並行してヨーロッパツアーの準備があって、雑誌のインタビューやTVの取材なんかもあって、細かい記憶は曖昧だけれど、もともと何も覚えていられないくらい、いつも疲れていた。夢の中で歌って、スコアを書いて、ギターを弾いているようで、ステージで鼻血が出たって気づかないくらいだった。

 生前の名は、幸いしっかり覚えている。シグル・イングヴェ・オルベック。自殺したら名前も奪われるなんて知らなかったから、きっと自分の墓に彫られたその名を呼ぶ人は今もいるのだろう。その声が届かないだけで。家族の顔が思い浮かぶたび、どうして忘れてしまえないのか頭をかきむしりたくなる。シグル、と呼ぶ母たちの声が、キッチンの記憶が、後悔から溢れ出すピンクの血に浸食されていく。

 ああ、そして、彼女。シグルがただの少年だった頃から、彼を知る人。彼女にだけはそう呼ばれることを許した。シグルが彼女の名前を呼ぶように。

 ブーゲンビリアが咲いている。頭のなかに、記憶のなかに。その花には棘がある。無数のそれは頭蓋を内側からかきむしり、死に損ないの魂に傷をつけては、その血で過去を描きだすのだ。……


 人を信用しきれないシグルが、メンバーに対し、ひとりにして、と頼むことは少なくなかった。スコアを閉じ、目も耳も内側から塞いで、ギターを抱いて幻から身を守る。ドラッグも酒もやらないのに、どうしてかシグルにはいつも幻覚と幻聴がつきまとっていた、十二歳の頃から。それは燃え上がる家のように激しく不穏なものもあり、無数にまとわりつく蠅のように気味の悪いものもあり、そして…音楽のみる夢のように美しいものもあった。

 その日も、シグルの性質を知っているメンバーがそれぞれの用で出ていってすぐに、朝からずっとしていた耳鳴りがやがて、意味を持つ言葉に変化した。頭の中で声が響く。女の声で、ひどくかすれた、しかし若い声だ。

 シグルはやがて観念し、ギターをおいてペンを取る。その一言一言を聞き漏らさぬために。幻は長い付き合いだ。ときどき、作曲を手伝ってもくれる。

Reach out your hand and touch my body, you'll find that I'm so cold…

 つめたい? どうして?

'Cause I'm your bloody doll, you know...

 血の人形?

That means I'm...I'm yours. Your doll, your love am I!! You know 'cause...

 これは誰の声?

WHO ARE YOU?

 自分の?

 不意に訪れた恐怖にペンを投げ捨て、シグルは紙ナプキンに書きなぐった幻聴のメモをぐしゃぐしゃに丸めて灰皿に叩きつけた。頭を抱え、ぐったりと俯く。蝶が耳のなかで羽ばたいているように、言葉の名残は聴覚を苛む。

 そのとき、乾燥苺がはいったホワイトチョコレートを齧りながら、ヒルデ・オーシェトが楽屋に入ってきた。顔をあげないシグルの様子にも慣れたもので、かつかつとヒールの音を響かせて、彼の向かいに豪快に腰かけた。

「…なんですか、そんな怖い顔して」

「シグルさん、たいへん残念ですが、検査の結果あなたは過労です。しかもステージⅣ」

 癌みたいに言わないでくださいよ、と苦笑する余裕はあった、彼女相手なら。先ほどのかすれた女の声も、蝶の羽ばたきも遠ざかり、聞き慣れた、ヒルデのはっきりとした涼しい声が響く。

「似たようなもんだよ、なんだその顔色。病人か、もしくは殉教者かよっつーの」

 ヒルデは、目の下を指でなぞって舌を出した。彼女も疲労は溜まっていたはずだが、その肌は白くも健康的で、きりりとした眦のメイクや銀のピアスがまばゆかった。その顔の上を、焦点のあわない蝶の影がふらりと横切る。瞬きすると消えた。額を押さえてシグルは答える。「眠れなくて、ずっとね……」

「冬季鬱じゃないだろうな。ビタミンDのサプリ飲んでるか? オスロに忘れてないか?」

「君と一緒にしないでくださいよ。もう、この間は君の切符を取りに行くのに大変だったんだから」

「あれは不可抗力だろ、誰が目を離した隙に、宿屋の猫に切符をとられると思うんだよ」

 唇を尖らせながら視線をそらしたヒルデは、テーブルの上の観光雑誌に目をとめた。

「スペイン?」

「え? …ああ、それ」

 ロビーのマガジンラックにあったんですよ、とシグルは廊下へ続く扉の方を指差す。ヒルデは手に取り、スコアのようにページを繰った。

「お前、南欧行ったことないの?」

「うん。今回のツアーでミラノに行くのが初めてかな…」

「じゃあ、蝉も見たことないし、レモンの花が咲いてるのも見たことないんだな?」

「はは、定番ですね。君よ知るや南の、レモンの花咲く国……」

「ゲーテなんて湿っぽい詩人はやめにしろ、ぱーっと明るく!」

「ぱーっと明るい詩人、います?」

「世界中探せばいるだろ」

 少なくともお前が読むような作家のなかにはいなそうだけどな! とヒルデは歯を見せて笑う。シグルは黙って肩を竦めた。その視界を、不意に影がよぎる。あ、また。詩人たちの魂のような蝶が、目に映る世界の端をひらひらと削っていく。その羽が、気づけば文字に変わっているようなのだが、雨に滲んだインクのようにその文字は読めない。…

 次の瞬間、ぬっと、その黒い蝶の群れを突き抜けて、白い両腕と綺麗に整えられた手に掲げられた雑誌が目前に現れた。反射的に身を引いてしまい、首がソファの背もたれに当たる。雑誌の後ろから、ヒルデが顔を覗かせて歯を見せた。

「次。こんな感じの色がいいんじゃないか?」

「え」

「……お前、さてはまたぼーっとしてたな? この色だよ、この花の色。次のステージではこれにしようぜ」

「いやまあ、綺麗ですけど……フラメンコみたいになりそうですね」

「ばか、衣装じゃねえ、髪だよ」

「正気ですか?」

 思わず真顔で返したところを、丸めた雑誌で叩かれる。思いきりのいい音がした。

「お前、芸名がBerryっていうんなら、それらしい色にしろよ」

「Blackってついてるじゃないか……」

 暗い赤と紫のグラデーションに染めた髪を指ですきながらぼやくと、また叩かれた。ぱちんと、焦点のあわない蝶が弾けて消える。

「そんな静脈血みたいな色にしてるから気分もオチるんだよ。もっと、人目見た瞬間に血管に電流が走るような、痛いくらいの色がいい」

 ドラッグより刺激的なステージにしなけりゃ、とヒルデは身を乗り出す。シグルは目を細めて、彼女の表情に見いった。瞬くその瞳の、爆破した宝石のような輝きを愛している。閃光が、このあやうい幻を蹴散らしてくれるから。

「アメリカの奴らがアタシたちのことなんて呼んでるか知ってるか? 少年少女のロマンティックテロリスト。夢みるシュガーソルジャー。アタシたちは苺の爆破犯ベリー・ボマーなんだよ。スポンジの塹壕、キャンディの手榴弾、チョコレートの戦車、……」

「ドラジェの弾丸、フリルの軍服、エレキギターは機関銃……」

「そういうこった」

 ヒルデは満面の笑みでシグルの肩を叩き、そのまま立ち上がる。そうなると、お次はヨーロッパ戦線ってとこだな、と顎を撫でた。その拍子に彼女の弾丸を模したピアスが揺れ、シグルは自分の耳を撫でた。薄い耳朶や軟骨を貫くたくさんの金属が自分を繋ぎ止めている。ふと、手術台で眠りたい、と訳もなく思った。そうしたらきっと、悪夢は這い上がってこられない。

 空想にとらわれて黙り込んだシグルに、ヒルデは少し間をおいてから話しかけた。

「とはいえ、兵士にも休暇は必要だ」

 芝居がかった仕草で、開きっぱなしの雑誌を拾い上げて閉じる。たくさんの翼が羽ばたくような音を立てて閉じた表紙で、ショッキング・ピンクの花が燃えていた。

「一段落したら、旅行にでもいこうぜ。ツアーじゃなくてな」

 微笑んだヒルデの爪の先でラインストーンが、ブーゲンビリアの花に落ちた朝露のように輝いた。ああ、光だ、とただ思う頭はもう壊れかけているのがわかる。小さな反射光を美しいと、初めてみた奇跡のように喜ぶ頭は、ほとんど幻に支配されている。

 子供の頃のことを思い出す。ギターを持った手を握り、あそこへ、とステージを指差した彼女の姿を、今も覚えている。

「……うん。そうしよう」

 だからシグルもやわらかく笑う、機関銃エレキギターを背負って。灰皿から、ぐしゃぐしゃに丸めたメモを拾い上げた。血痕を花に偽装するように、この闇を歌にしなくてはならない。新しい曲を書いて、書いて、歌い続ける。戦い続けなければならない。

 そうすれば、君の顔を隠すこの蝶も、見えなくなるかもしれない。

 もう一度、君の顔が見たい。

 ピンクの血に盲いたこの眼で、光のような君の笑顔を。

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