また春は来るから
曼珠サキ
1日目
3月26日の午前10時。日向色の抱擁を独り占めするカーテンに突進した。じわりと温かい布地を
春が来たという実感が。春の陽気が筋肉まで緩ませている実感が。そして、今年もこの日が来たという実感が。
いつもの時刻までもう2時間もない。やる事はたんとある。さあ、やろう。テキパキやろう。私は洗濯物と一緒に部屋も丸洗いできてらいいのにと思った。
洗濯機を回している間に掃除機をかけていると、あの時意地を張らなければよかったとつくづく思う。篤士さん(私の夫だ)がお手伝いさんを雇ってもいいと言ったのに断ってしまった。一人で家を守る事にちょっと憧れていたのかもしれない。お金が掛かるからとか、節約だとか言ったのは嘘じゃない。それでもやっぱり、毎日一人で掃除するにはこの家はちょっと広すぎる。一人で暮らすにも。しかし断ってしまったからには責任を持って管理するのが待つ私の役目だ。
大丈夫。その彼は1週間後の4月1日に帰ってくる。しかも1か月は必ず一緒にいてくれる。そういう約束だ。今年も目いっぱいお互いの話をしよう。一年で積もり積もった夏の話と秋の話と冬の話をしよう。春の未練を残すと大変だから。これから来る夏と秋と冬をうじうじ悩みながら過ごしたくはない。
具体的に何をするかは未定だ。それを話し合うのが楽しいのだ。最初の1週間はひたすら家でお喋りする。ついでに何をするかの計画も練ろう。去年話題になったドラマや映画を見るのもいい。今時はビデオ屋に行く手間もかからない。
次の2週間は……あちこち出掛けて写真を撮ろう。SNSになんかアップしない。2人だけの思い出を安売りしたくはないから。くたくたになったら家に帰る。何事もやり過ぎは禁物だから何日か毎にのんびりする日を作ろう。温泉に行くのもいいかも。
最後の1週間もずっと家にいたい。2人だけで半世紀連れ添った老夫婦みたいに過ごすのだ。それか新婚の夫婦みたいに……
おっと、楽しい妄想に夢中になって掃除がおろそかになるのはよくない。あまり時間もないし。急ごう。
11時50分。何とか掃除と洗濯を終えた。例年通りなら正午になった瞬間に携帯が鳴るはず。電話ではなくメール。どうすればメールを毎年同じ時間に受信させられるのか。仕組みはわからないが篤士さんの事だ。必ず何か仕掛けがあるはずだ。偶然には頼らない人だから。
椅子に深く座って背筋をピンと伸ばす。スマホをテーブルに置いてにらめっこ。この時間が少し怖い。私が待つのは「帰ります」の5文字。もし時間通りにメールが届かなかったらどうしよう。その時はこっちから電話してみようか。いや、メールが届かなかったくらいで電話するのも大袈裟だろうしここはメールにしよう。じゃあ、どんな文面で?
「今年は帰ってきますか?」
とかだろうか。
そもそも、もしメールが届いたとして、その五文字が百パーセントそこにあるとは限らない。開いたそこには「ごめん」の3文字かもしれない。段々心臓が痛くなってきた。ネガティブな事を考えるのはよそう。
あれこれ考えている内に時計は進む。5分……3分、2分、1分。秒読みに入ったら目を閉じた。やっぱり怖かったから。それなのに、やめた方がいいとは分かっていても私の頭は勝手にカウントダウンを始める。30秒、20秒、15秒、10……
やっと頭の中のカウントダウンが止まった。でも時間はもうすぐそこまで!
……多分十秒経った。そっと瞼を開く――
パッと画面が明るくなり通知が浮かぶ。すぐさまフリックして「開く」をタップ。ロクに着信のメロディーも聞かず開いたメールは、
件名:6日後
本文:4月1日に帰ります。今年も1か月はお休み取れたので一緒にいられ
るよ。
追伸
お土産持って帰るね!
素っ気ない文面だ。だけど篤士さんが帰ってくる!
期待通りの12時を迎えられた。受信日時を見るときっかり正午だった。どんな仕掛けなのだろうか。今度聞いてみよう。教えてくれるだろうか。聞いても、
「手品の仕掛けは教えられないな」
なんて言われるかもしれない。それはそれで面白い。
春だけは大人だって夢を見るんだ。
また春は来るから 曼珠サキ @Manju_2525
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。また春は来るからの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます