15 ゲームの秘密

「救世主は俺たちのゲームを乗っ取った」

 車から出てきた龍一に罫太はおもむろにそう言った。

「そうかよ。俺にはそんなことどうでもいい。ゲームが乗っ取られたからってなんだよ。こっちは変な男どもから命を狙われたんだぞ」

 顔など見たくないと意識的に体を反らした。龍一に今ある問題は妹の体調と家が火事にあったということ、そして謎の男たちのことでいっぱいだった。

「いいか、お前の考えたGPS連動機能まで扱われているんだぞ。これがどういうことかわかっているのかよ」

 龍一は纏わりつく罫太の胸倉に掴みかかると「ゲームがなんだ。欲しければそんなものくれてやれよ」と吐き捨て、彼を思いきり突き飛ばした。

 罫太も負けじと躍起になって飛びかかった。二人は体をよろめかせ、反動で地面に倒れた。

「これがどれほど大変なことか、お前にわからないのか」

 感情的になった罫太は顔を真っ赤にさせて龍一の腹部に乗り掛かった。手は出ないが胸倉を強く締め上げていた。

「わからないね。無料で遊べるゲームに何の価値がある」と龍一はさらに悪態をついた。

「さあさあ、そこらへんにしなさい」と三田珪馬が罫太の両脇を抱え、仲裁に入った。

 罫太は一切の抵抗なく引き離された。落ち着きを取り戻したかのように紅潮させた顔からゆっくりと血の気が引いていった。

「すみません」と罫太は三田に謝ると地面に落としたノートパソコンを拾い上げ話し始めた。

「ハッカーは俺たちのゲームを奪い、勝手にゲーム内容を変更した。だからお前は変な男たちから逃げる羽目になったんだ」

「どういうことだよ」

 龍一は立ち上がり罫太の顔をまじまじと見つめた。罫太の顔は真剣そのものであり冗談を言う顔付きではなかった。

「いいか、ゲームはいつのまにか俺たちが考えたボードゲームを超えて現実に持ち出されている。GPSは俺たちの中ではあくまでもサブ機能、ゲームを盛り上げる一つの要素にすぎなかったのに、ハッカーはこの機能に新たなルールを加えたようなんだ」

「まさか、殺人か」

 龍一はショッピングモールで男たちが見せたスマホ画面を思い出し、その意味を理解したのだ。それでもその表現は大げさに言ったつもりである。

「そんなところだ。現実の人をターゲットにして任務を課す。そしてハッカーは俺たちのゲームを奪い取るとプレイヤーにある依頼を提示した」

「俺を殺すことか?」

「正確には生け捕りにすることだ。そしてそのゲームは今も続いている」

「でもなぜ俺が狙われるんだ?」

「狙いはおそらくパスワード。それがないと最終的な乗っ取りは未達成のままだ。ところで彩原さんはどこだ?デートだから一緒だと思ったんだけど……」と罫太はあたりを見回した。居るのは自分たちに加え小会議を終えた警察班と車内の冴紀、捕えた男だけである。

「すっぽかされたんだよ。嫌われたみたいだ。思い出すだけで辛い」とみんなの前で強がった。母や知り合いの大人にできれば聞かれたくない話だった。

「電話したのか?」

「出ないよ。その気がないんだろう……」

「マズイな……」と罫太は呟きノートパソコンを開いた。地面に落とし表面は傷がついたが幸い正常に動いた。

 龍一は改めてポケットからスマホを取り出し着信がないことを確かめた。頭に浮かぶ『失恋』という言葉を否定し、考えを改めた。もし一緒に歩いていたりしたら水奈もまた一緒に襲われることになっていたはず。そうならなくてよかったと思うべきなのかもしれない。だが胸騒ぎでその考えはあっという間に否定された。考えを改める論点は別にあるのだ。

「パスワードが狙われているということはまさか……」

「罫太君、家まで送るわ」と母が声をかけた。

「向かってほしいところがあるんですけど」と言って罫太はパソコン画面を向けた。

 向けられた画面には地図と別のポイントが示されていた。その住所は同じ市内だが、歩いて一時間弱かかる場所だった。

「その場所に水奈がいるのか?」

 問い質す龍一に罫太は「かもしれない」とだけ答えた。

「しっかり事情を話してくれないと俺たちは動けない。その地図の地点に何があるかだけでも教えてくれ」と京朔が尋ねた。

「ここからハッキングされているようです。まるでこの地点に誘っているようにも見えますが、何もしないよりマシです」

「そこへは俺と珪馬で向かおう。詳しい住所を教えてくれ」

「いえ、僕も行きます。行かせてください」

「ダメだ。危険だとわかっていて君を連れて行くのはまずい。君は未成年じゃないか。こういうことは専門の大人に任せるものだ。いいね」と京朔は罫太の肩に手を置いた。そして一つポンと叩くと懐から手帳を取り出した。

「ですが、僕らには責任があります」

「しっかりとした説明をする責任以外に君らにはこれといった責められる理由はない。仮にあったとしても命の危険にさらすほどのことじゃない」

 罫太は不本意に渋々といった様子でパソコンの画面を突き出した。それを書き写した京朔は車に乗り込んですぐにでも発進しようとしたのだが、焦った様子で罫太が窓ガラスを叩いた。

「気を付けてください。刑事さんたちのこともターゲットにされているようです」

「なぜだ?俺はゲームをしない」

「僕もです」

 二人して懐から出したスマホを気味悪そうに扱った。

「狙われないためには手放すかバッテリーを壊すかしかありません」

「ありがとう。わかった」というと京朔は手を振った。そして車両を発進させた。


 自分の身は自分で守れる自信があったし、襲い来るのはせいぜい後部座席で拘束されている気味の悪い男ぐらいだと高を括っていた。葉金罫太の話ではプレイヤーのほとんどが中高生だと聞いてる。捕えた男も二十歳前後のようだ。だが万一ということも考えられるので助手席の三田にスマホを手渡した。

「俺が囮ですか」と三田は殊更に嫌がった。

「馬鹿言え。バッテリーだけ抜いてくれ。ご時世というのは予測不能だからな」

 三田は思わず苦笑いを浮かべた。

「しかし、あれですね。単なる殺人事件にサイバー攻撃が仕組まれていたなんて、捜査が厄介になりましたね。今川瑛梨子の事件は少年らの犯行とみて間違いないでしょうし、香川さんの事件も依頼があって速水が実行したと見てもよさそうですね」

「そうだな。だが根本の部分では事件は昔とそう変わらないのだろうさ。ただ誰でも殺し屋を雇えて、直接の交渉も無用になり、報酬も間接的、殺しをゲーム化している点は大きな変化だろう。こんなものに操られて人は愚かな行為を意図も容易く行えるのだから。なあ、聞いているか?後ろのお前だよ」

 バックミラー越しに覗く男の影はおとなしかった。包丁を持って走り回ったのが相当疲れたようで呼吸が荒いまま何度も汗をぬぐっていた。あれだけで息が上がっているのが何ともだらしがない印象に見える。

「君はどんな脅迫を受けたんだ?」と三田はシートを越しに男に尋ねた。

 男は無言だった。大げさに目を逸らした。

「まあ、簡単に言えるわけないか。自分の弱みなんて……」

 三田の中である違和感を覚えた。その予想はすぐに正しいことだと直感した。

「警部、今すぐ停めてください」

「今すぐ?どうした?」

「この男も携帯電話を持って―――」

 大きな衝撃と音に三田の声はかき消された。警察車両は交差点の真ん中に突き飛ばされその制御を失い、タイヤがアスファルトに弧を描いた。


 母の最初の提案通り、一度罫太の自宅に行くことになった。標的にされている状態は続いているそうなので、その後にでも警察署に向かおうということになった。後のことは何も考えられない。妹や自宅のことも心配だが、水奈のことが気になった。ターゲットは自分だけではない。

「龍一、犯人からメールが来た」と助手席に座る罫太は驚きの声を上げた。彼はノートパソコンを膝に文章を読み上げた。

『そろそろパスワードを持ってきてくれないか?こちらが送り込んだユーザーから逃げられたことは賞賛に値しよう。だが、こちらも覚悟と確かな志を持っている。そう簡単にあきらめるわけにはいきません。君たちの思想には反することではない。これは君たちが世界の秩序を改めるための試練だと思ってくれ。

 場所はわかっているのだろう?警察二人に任せても無駄だ。部外者に任せられることではない。そのポイントには必ず二人だけで来るように。もしそれを破れば彩原水奈が悲しむことになるだろう。

 決して悪い話ではない。これでもこんな形になってしまったことは申し訳なく思っている。出来ることなら最初に出した依頼を取り消したいのだが、こちらにはパスワードがない故に制御が不可能なんだ。険しい道のりかもしれないが君たちは必ず来てくれると信じて待っている。救世主VRITRA』

「母さん停めて!」

「なに言っているの。応援を呼ぶから後は任せなさい」

「聞いただろう。部外者に頼るなって、それに二人だけで来いとも書いてあるんだろう」

 龍一の投げかけに罫太は「間違いなく」と口添えした。

「それに母さんはこのまま冴紀を病院に連れて行ってくれ。おでこがひどい熱さだ」

「あなたたちはまだ子供なんだから、無謀なことは考えないの」

 赤信号で止まっていたところを龍一はドアを開けた。龍一の後を継ぐようにして罫太もドアを開けていた。広い道路だったために前後と左には車が並んでいた。

「だからって水奈を見捨てるわけにはいかない。行こう」と罫太に声を掛けるとそのまま二人は飛び出して行ってしまった。

「ちょっと待ちなさいよ」と結華もシートベルトを外して飛び降りようとした。しかしすでに前方の信号は青。少年たちの後ろ姿はとっくに見えなくなっていた。

「お母さん、無駄よ。兄ちゃんは彼女にぞっこんだから」

「冴紀。平気なの?」

 振り返るとすやすやと眠る娘の姿しか残っていない。それは幻聴なんかではない。兄を思う妹の想いだった。

 後続車のクラクションに背中を押され結華は息子たちの無事を祈りながら車を走らせた。


「それで、作戦はあるのかよ?」

 罫太の問いに龍一は「ない」とだけ告げた。

「無策か?せめてスマホのバッテリーぐらい抜くべきじゃないか」

「そうだな……まさか⁉」

 一瞬振り返り罫太の背後に見えた人影に舌を巻いた。龍一の様子から異常性を読み取り罫太も振り返った。二人の目に映ったのは迫り来るいかにも危険な男たちだった。その数は三人ほどいた。

 圧倒される殺意を感じ二人は逃げ出した。

「何であいつらあんなに怒っているの?何の恨みがあって俺たちを襲うの?」

「脅迫と報酬だよ。みんな須藤欣悟や堺大機のような後ろめたい何かがあるんだろう?」

「でも突然すぎないか?須藤から連絡があった時から今までゲームは乗っ取られていなかったはずだろう。お前がそう結論づけたじゃないか」

 すでに息が上がっている罫太は必死に思考を巡らせ龍一の後を追った。わきに抱えたノートパソコンが逃げる邪魔をしていた。

「きっと見えないだけで既に乗っ取られていたんだよ。そうだ、データを一台の車に例えると部品一つ一つを確かめて一生懸命点検するだろう。不具合があったら故障の原因に繋がる。それで異常が見られなかったから所有者に返すんだよ。でも所有者は運転できないんだ。そいつは点検中に別の人に売ったから。同じように俺が見ていたのはプログラムの細部であっただけで全体を見れば権利はハッカーのものになっていたんだ。それがさっきのメールの削除がカギとなり乗っ取りの実態が表に出たということだろう」

「つまり、長いこと管理下になかったのか」と足をもたつかせている罫太を気にして足を止めた。

 すると青信号にもかかわらず車が横断歩道に突っ込んできた。あのまま走っていたら危うく轢かれるところだった。後ろからは変わらずハンターと化したプレイヤーが迫ってきていた。

「危ない。プライバシーのためなら何でもありかよ」

「とにかく逃げよう。タクシーだ」と罫太が交差点の向こう側に停まっていたタクシーを指さした。

「金は?俺は財布を持っていない」

 モールでラーメンを食べて以来、上着は椅子に掛かったままである。財布もスマホを取り出した際にポケットにしまったのだった。

「任せろ」と言って罫太はスマホを掲げた。

 二人は信号のない通りを走り抜けた。信号のある場所まで遠回りしては確実に男たちに捕まってしまう。やむなくタクシーに乗り込んだ。

「君ら危ないだろう」と六十代過ぎの運転手が嫌な顔をして注意した。

「すみません。僕ら追われているんです」と龍一は道路の反対側で車待ちしている集団を指さした。

「それを早く言いなさい。どこまで行くんだ」

 物わかりの良い運転手はすでにタクシーを走らせていた。

 罫太は例の地点のすぐ手前の住所を調べて告げた。

「直接行かなくていいのかね?見たところそのパソコンのしるしに用事があるのだろう?おじさんは厄介ごと大歓迎だ」と気前のいい、何とも頼もしい声が帰ってきた。

「じゃあ、あることをお願いできますか?」

 ほどなくしてある景色が二人の目に飛び込んできた。

「珍しいね。パトカーが事故ったみたいだ」と運転手がのんきに言った。

「まさか!」と龍一は驚き声をあげて前から後ろに流れる風景を眺めた。銀河警部らが乗っていた車両だとすぐに分かった。乗用車がパトカーの左後ろに追突し車体が大きく凹んでいた。救急車の隙間を覗き見ても一瞬だから彼らの姿を確認することはできなかったが、代わりに龍一を追いかけてきた狂人が見えた。男は頭に包帯を巻いていた。事故の被害を受けたのだろう。

「運転手さん……え~と、小池さんも気を付けて下さい」と龍一は乗務員の名前を確かめた。そこには確かに小池の苗字が記されていた。それにどことなくだが、龍一の知る小池姓の男に似ている気がした。

「ありがとうよ」と彼はほほ笑んだ。

 そして目的地点の手前に到着した。ここからは歩きと決めていた。それも作戦の一つだった。

 罫太はお金の代わりにスマホを差し出した。

「くれぐれも気を付けて。赤信号でも飛んでくるかもしれませんから」

「それはおっかない。だが、任せなさい」と小池はクラクションを軽快なリズムで四度鳴らすとスピードを上げた。

「これでGPSを追う連中は巻けるだろう」

「でも、危険な目に遭わせてしまうかもしれない」

「本当に危ないと思ったら投げ捨てるように言ってある。きっと大丈夫だ。解決するためにも急ごう」

 罫太に説得され龍一は後ろ髪をひかれながらも目的地に向かった。

 罫太はパソコン画面を見つめて指を差した。その先には高級そうなレストランだった。

「そもそもなんだけど、なぜハッカーはパスワードを欲しがるんだ?乗っ取りに成功しているのだからパスワードなど無意味じゃないか」と龍一は囁いた。

 レストラン入り口前には立哨している警備員がいた。

 影に隠れる二人若者の姿は不信極まりなく見えるだろう。出来るだけ声を落とし、姿を悟られないように徹した。

「完全な乗っ取りには俺がかけたパスワードが必要なんだ。俺はもっとも大切な部分に最も複雑なパスワードを掛けて置いたんだ。その部分はコンピュータですら解き明かせない複雑なコードを必要とする。だからこそ直接俺たちから聞こうとしたんだろう」

 確かにその説明は何度か受けた。そして直接的にキーボードを叩き仲間内でもわからないように徹底したものだった。三重のロックを順番に開く必要があるのだそうだ。メンバーの一人癒月を含めなかったのはたまたまというのが罫太の見解だったが、いずれこのような事態が起こることを想定したものだと龍一は今にして理解できた。

「だが乗っ取られたじゃないか。俺たちの安全を脅かすまで奴が欲しい物ってなんだよ」

 最も腑に落ちないのは果たしてこのゲームが脅迫し、他人を使ってまで奪いたがる代物なのかということだった。高校生のただの思い付きで作ったゲームにそれほどの価値があるとはどうも思えないのだ。

「じゃあ、俺は裏から探ってみるわ」と罫太は何気ない風を装って店の裏側に回り込んだ。

「オイ、見つけたぞ」と龍一に声をかけてきた。一人の男の青白い顔が闇夜の中から浮かび上がっていた。見ればそれは二十代の男であり、片手にはスマホ画面が握られていた。

「人違いじゃないですか?」と龍一は反射的に言ったのだが、男は何度も画面と見返して確信的に近づいてきた。

「悪いが妻のためだ」と男は手の骨を威嚇的にならし、腕を構えた。

「こんなことしても奥さんのためにならないと思いますけど」と罫太は正論をぶつけた。

「とっ捕まえるくらいなら罪には問われないさ。それよりも妻の方が怖い」と言って男は躊躇なく龍一の頬に拳を打ち付けた。

 まともに受けた龍一だったが、痛がる様子は全く見せなかった。ただ相手の一撃を受け、その場にいるだけだった。

「面白れぇ」と男はもう一度筋のいい一撃を鼻に浴びせた。

「あんた、浮気していたんだな。それを知られたくなくて必死なんだ」

「うるせぇ!」

 龍一の推理に冷静だった男は急に激高し、今までの倍の威力で腕を振った。龍一はその攻撃を容易くよけて車道側に逃げた。路肩を降りれば路上駐車場になっており、いくつかの三角コーンが並んでいた。

「逃げ場なしだな」と勝ち誇った顔を見せるとまたしても渾身の力を込めた拳を投げかけてきた。

 龍一は車道に降りて男の背丈から一段小さくなった。目線から十センチばかり下がれば、男の視界から消えたようなものだった。すぐに龍一は身をかわし三角コーンを起点にして体勢を置きかえた。

 一瞬の出来事に追いつけなかった男はただあたふたしていた。そんな男の目の前が急に真っ赤になった。視界がすべて真っ赤となり妙に暑い。次の瞬間には倒れていた。

 龍一は三角コーンを男の頭に被せてその場を立ち去った。

「いらっしゃい」と訪れた先で見覚えのある男がワインを片手に龍一を見た。足を組んでいていかにも優雅だが、顔色は甚だ悪い。その姿が記憶の中の人物と重なった時、混乱で飲み込まれそうになった。

「ようやく来たね。これで三人が揃ったわけだ」と抑揚のない低い声は印象に残る。

 男はスタッフの一人の耳もとに口を寄せ指示を出した。

「警察の人ですよね。堺大機を逮捕しに来た」

「覚えていましたか。右野貴徳です。またの名を救世主VRITRAと名乗らせてもらっています」と言う紹介の後、目の前に出されている高級そうな肉を一切れ口に含めた。

「パスワードなら教える。俺はゲームにそこまで興味はない」

「ダメだ、龍一。絶対に教えるな」と奥から手錠に繋がれた罫太と疲れ果てている様子の水奈が現れた。

「龍一君、ごめんね。デートすっぽかしちゃって……」

「水奈!」

 龍一の呼びかけに彼女は力無く沈んでいた。

「誰一人としてパスワードを話さない。君らは諜報員に向いている。これだけの素晴らしい人工知能を作り上げたのだから君らを雇うとしよう」と右野は口元を拭いて立ち上がった。

「人工知能?そんなものは作っていない。だよな?」と龍一は堂々と罫太に尋ねた。

 だが龍一の自信とは裏腹に罫太は渋る顔を見せた。

「どういうことだよ。パスワードって一体何だ?」

 尋ねる龍一の問い掛けに罫太は渋い顔をしていたままだった。

「聞いていないようだね」と右野が代わりにその質問に答え始めた。

「君らのゲームは人工知能をうまく育てるものだ。個人情報から特定のキャラクターに選別する。ここから技術は知性を求めた。選別された個人はどのようなタイプの人間と友になり、あるいは対戦するのか。そしてゲーム自体で思考が何パターンも蓄積されていく。それは膨大な情報だが、照らし合わせればどんな人間は何を思い、どんな人間との知恵比べを得意とするかということを、ただゲームをしている個人から悟られず無限に収集できるわけだ。RーFCの作成したゲームは単なる娯楽的ゲームを超えた一つの個人識別の情報収集ツールとなったわけだ。それを私たちは人工知能と呼ぶ」

「本当かよ?」

 龍一は罫太に投げかけた。

「本当だ。だが、全て偶然の産物だ。生物的に言えばある日、突然変異したんだ。勝手にいろいろな情報が分類分けされ始めた。だから俺はその技術だけは容易に悪用されないように厳重なロックを掛けたんだ。今思えばあの時にはすでに侵入していたんだろう」

「ご名答。遊びのツールとしてなら、意図も容易く普及するだろうし、君たちのゲームはそれなりの普及の可能性を見出した。思った通り前作を超える驚異的なスピードで広まったわけだ。そこに侵入するのは簡単だった。人工知能のもとになる小さなコードを書き加えるだけなのだから」

「いつだ?いつ侵入した?」

 あまりの悔しさに罫太は唇を噛み締めていた。

「その種を植え付けたのは二度目に君らの学校に行った時だよ。もちろん一度目というのはまだ春先だったはず。イケナイ大人を捕まえたあの日、君たちのことを目にかけた。そして二度目はその二週間ほど後ということになる。学校側の聴取を改めてしないといけなかったから、その時に学校のメインサーバーに直接侵入し君らが接続することを期待して監視システムを仕掛けて置いたのさ。あとは君らが学校のサーバーに接続するだけという筋書きだ。君らは不正アクセスで証拠を掴んだことは明らかだったから何かしてくれるだろうと期待していたが、こうもうまくいくとはあの日の私は先見の明があったわけです。まさか人工知能の育成プログラムにピッタリのゲームを作り始めた。期待以上の成果を生んだのは君らのほかにいない」

 右野は満足そうにワインを飲み干した。そして「失礼」と断りを入れ口元をぬぐい続けた。

「それに式澤龍一君は私と思想がよく似ています。手段はどうあれ悪を許せません。それも無理はないでしょう。あのコーチは自分が君をチームから追いやった元凶だと知って、事件をなかったことにしたわけですから。エース選手がチームメンバーを試合中に計画的に排除したと知られれば、疑われるのはその動機ということになりますからね。事実をもみ消した彼に怒りを抱くのも仕方ないでしょう。私は根っからの悪人ではないのです。今回は悪人面して見えるかもしれませんが、それは立場がそう思い込ませているだけにすぎません。二人を拘束したことは一応法律違反としています。時代が速ければ共謀罪と言ったところでしょうか。何度も国会を通っては廃案に終わっている、いまだ実体のない罪だが、近いうちに必ず施行される罰則でしょう。つまり本来的には君たちを裁けない。しかし、君たちは許可なく国民から個人情報を盗み出し、人工知能によって国民を操るだけの力を活用することができる。場合によっては法律を捻じ曲げても君らを裁かざるを得ない展開にだって作り上げることができてしまう。そこを私がいち早く阻止し、君たちに代わって扱おうと提案している。どうだ?パスワードを教える気になったかな?」

 右野はナフキンを丁寧に折り畳みながら龍一の決断をのんびりと待っている様子だった。

「正直に言って俺はあなたには管理者になってほしくはないです」

 龍一はまっすぐに右野を見据えていた。

「ずいぶんと率直な意見だ。理由を聞かせてくれないか」

 龍一は頭の中でモヤモヤとした考えをかき消し、込み上げてきた思いをそのまま吐き出した。

「あなたはゲームを乗っ取り、すでに殺人ゲームのように作り変えてしまった。俺たちが作り上げたかったモノはそんな殺伐としたものじゃない。単純に面白いと思って、自分たちのやりたいことに挑んだだけなんだ。人から評価されるかわからないけど、まずは形にしたいという衝動だけ。そして評価されることがどれだけ嬉しいことかを実感し、自分に自信が持てた。ただの挑戦なんです。プレイヤーからは単なる一つのゲームだし、ビジネスマンからしたら商品かもしれない。でも俺たちにとっては他にはない自己表現であり、思い出の詰まった作品なんです。それをあなたからしたら俺たちのゲームをただの殺人の道具としか見ていない。そんな人に管理権を託したいなんて思いません」

「素晴らしい」

 龍一の主張をバカにするかのような白々しい声と拍手は罫太と水奈を連れてきた部下のものだった。

「確かにそうだ」と右野が呼応した。そして淡々とした口調で続けた。

「さすがはRーFCメンバーだ。君らはほとんど同じことを語った。心が通うとはまさにこのことを言うのだろう。だが私の意見も聞いてくれるな」

 そう言って右野は懐から表紙がボロボロになったメモ帳を取り出すと三人にわかるようにそれを掲げた。

「これは私が警察官として勤務を始めた日から持っているものだ。見ての通りクタクタになっているし、雨や泥でひどいあり様だろう。だがこれは捨てることができない。忘れてはいけない、世間では忘れ去られてしまった事件被害者のことが記録されている」

 右野はその記録帳を読み上げ始めた。

『2007年5月6日被害者MN(実際は実名だが本人に配慮してイニシャルで記述)35歳女性。旦那に浮気されビルから飛び降り自殺を図った。その後旦那は浮気相手と再婚し、生命保険の一部を受け取った』

『2007年6月13日被害者TR17歳女性。高校生である彼女は電車で痴漢の被害に遭う。これまでも何度と被害を受けていたとみられる。集団の計画的な犯行であり、彼女を囲って犯行に及ぶ手口。あまりの恐怖に逃げだした先で電車と接触。即死した。駅のホーム映像から痴漢加害者らを特定するも立件できずお咎めなし』

『2007年6月28日被害者HE14歳男性。学校のいじめを苦にして自宅で首つり自殺。学校はいじめを否定するが担任は黙認していた。日常的ないじめを行っていた少年らは罪に咎められることはなかった。亡くなった少年の保護者らは加害者を知らず、自殺理由をいじめと認定できない』

「……他にもまだまだあります」と言って右野は手帳を閉じた。

 たった三件の事件で龍一らはひどい嫌悪感を抱いた。他人事ではあるが悲しみと怒りが湧いてくる。

「これはほんの一例です。氷山の一角というものでしょう。当然ながら私が担当した事件だけですから実状はまだまだあるでしょうね。でもこんな最悪の事態を引き起こす前に未然に食い止めることができるのなら、君たちの作品と語るキラキラしたものでも道具として扱わせてもらう。既に分かっていると思うが、こちらからの指令で動いている者たちは全員この手帳の被害者を生みかねない予備軍なんだ。式澤君をターゲットにしたことは申し訳なく思っているが、ターゲットをこういう加害者に移せば彼ら同士で争ってくれる。真の被害者が悲しまずに済むんじゃないか?」

「それは違う」

 ドアが開くとともに声がした。その声は銀河京朔だった。

「事故に遭ったと聞きましたが」

「いったい誰から聞いたんだ?お前の差し金だってわかっているがな」

 京朔は脇腹を抱えて何とか立っている様子だった。そして顔がすすで汚れていた。

「お前が操った少年らにどんな罪がある?須藤欣悟、速水佐敏、内田聖杜は死に、井上撤郎は半身不随だ。彼らにどんな罪があったというのだ」

 京朔は立っていられずそばの椅子を引き寄せるとどっかりと腰を据えた。そして苦しそうに顔を歪ませた。

「お言葉を返しますが彼らも十分な悪党だった。須藤は盗撮犯、速水は男子小学生に性的暴行、井上撤郎は内田聖杜の彼女に性的暴行と万引き。誰もが彼らを不良と認定するでしょうね。まあ、内田聖杜に関しては四股の浮気をする倫理観のない男だったけど、奴は私の手元にいない。むしろクライアントの一人でしたが」

「クライアントというと殺人の依頼か?内田が誰かを殺すように頼んだわけか」

「そんなつまらないことどうでもいいじゃないですか。銀河警部も考えたことはありませんか?この社会は果たして正義が正しく実行される世の中なのだろうかと。歯がゆい思いをされてきたのではありませんか?ご家族の事、伺いましたよ」

「家族のことはお前に関係ない」

 京朔はさらに顔を歪ませた。それは痛みに耐えている姿だった。

「ご家族を殺されたことは伺っております。過去に捕まえた男に復讐されたのでしょう?証拠不十分でより重い刑は立証できず辛い思いを抱いたことは聞いています」

 京朔の脳裏に記憶がよぎった。灯りのない家に帰ると荒らされた部屋の真ん中で裸に寝そべる妻と娘。彼女たちは息をしていない。車が家の横を流れていく都度にヘッドライトで照らされるのだ。腹部に大きな切り傷、首に残る何かで絞められた跡、二人は虚ろな瞳でお互いを見つめ合っていた。

「犯人はいずれ刑務所を出てきます。その時、警部はどうなさりますか?そんな思いをしている人がたくさんいるのです」

「するとお前、今川瑛梨子は死に値する加害者なのか?あの子は健気に生きてきただけの女性だった。たまたま男運悪く苦労してきただけの彼女がなぜ死ななければならなかったのだ?」

 京朔は脇腹を抑えていた腕を懐から出した。その手には一枚の写真が握られており、それを右野にかざした。

「幸田麻美。彼女が今川瑛梨子を殺すように依頼した真犯人だったんだよ。それだけじゃない彼女はうちの香川にも暗殺依頼をしたそうじゃないか。全部、井上が持っていたスマホと高校の部室で見つかった速水と須藤のスマホから見つかったそうだ。ついでに被害者女性の衣服も一緒に見つかったのだが、それには少年らの体液が付着していたそうだ」

「つまり何が言いたい?」

「幸田麻美は夫伸作の浮気に気が付いていた。その怒りを夫ではなく今川瑛梨子に向けたんだ。彼女は言ったそうだよ。邪魔な小娘をつぶすのにちょうどいいツールが送信されたから試したって。その指令を受けた少年らは被害者に乱暴し結果的に殺害した。すべて夫や家族を守るためだって。だから捜査で嗅ぎまわっていた香川を排除しようと思ったとな。お前の考えではすべてが平和的に解決すると思っているのだろうが、そうはなっていない。むしろ悲劇を生んだんだ。今川瑛梨子は浮気相手の幸田伸作に対して被害者だった。男も自供したそうだよ。水商売のことをネタにして彼女と関係を迫ったのだと。陰で水商売を行う理由を作ったのはまた別の男だった。もう何が言いたいかわかっただろう?」

「私もそこまでバカではない。だからこそRーFCの人工知能が必要なんです。依頼人とターゲットを間違えない客観的管理が必要だと再認識しました。良き教訓だと思います。どうでしょうか?式澤君、葉金君、彩原さん。人工知能の必要性が求められていることは理解できましたね」

 三人は黙った。さっきまでの率直に拒否をする姿勢は潰えていた。京朔の語った事件の詳細は理解できない。右野の読み上げた手帳のこともある。もはや感情論だけでものを決める段階はとっくに超えていた。

「右野貴徳、お前はムツバ製菓事件の間違いを認めるのだな?」

「可哀そうな被害者を生まない尊い犠牲です」

「そうか……。そこまで言うのなら」と言って京朔は立ち上がると懐から拳銃を取り出し彼に向けて構えた。

「どういうつもりですか?」

 一切慌てる様子はなく右野も立ち上がった。

「右野貴徳、お前をムツバ製菓女史殺人事件の殺人幇助の罪で逮捕する」

「全く残念だ。銀河警部、本当に残念でならない」と言うと部下に合図を送った。

 男は銃口を京朔に向けた。

「おい、海松、お前はどっちの味方だ?」

 京朔は銃口を向けた相手に尋ねた。

「彼はもともと私の部下でね。システムの共感者なんだよ」

 京朔は大きな舌打ちをした。敵はすぐそばにいたということなのだ。

「さあ銃を下ろしてもらいましょうか」と右野も自ら拳銃を構えて京朔に向けた。

 京朔は引き金から指を離し即座に両手を挙げた。

「拳銃を下ろすのはあなたです」

 思いもよらない展開が起きた。海松が銃口の先を右野に替えたのだった。

「海松、どういうつもりだ?」

 右野は銃口の向きを海松に向けた。

「俺は誰かの部下になったつもりはありません。今はたまたま銀河さんのもとで働いているだけです」

「よく言った、海松」と京朔は再び拳銃を構え、少しずつ右野の元へとにじり寄った。

 すると突然店の中から二名の男が拳銃を構えて現れたのだった。彼らはそれぞれ京朔と海松に銃口を向けていた。

「侮りましたね。こうして高級レストランで食事ができるのは共感者、被害者家族の支援があってのことですから。なぜこの流れに逆らうのですか?被害者家族は望んでいます。システムの実用化は弱者の夢なのですよ」

「仇討ちは通用しない。それがわからないか。お前が勝手に決めていいことではないんだ!」

 叫ぶ京朔に右野は向けられた銃口を自ら額に押し付けた。

「どうですか?撃ちますか?あなたが撃たないのならこちらが」

「少年ら、待たせた!」

 右野の声をかき消さんばかりの大きな声がしたかと思うと、店内をガタゴトと揺するほどたくさんの物音が鳴り響いた。ものの数秒のうちに多くの警官隊が右野らを取り囲んだ。

「信号キャッチしたぞ」と罫太の前に現れたのは知り合ったばかりのタクシーの運転手だった。彼は満足そうに罫太にスマホを手渡した。実はタクシーの運転手小池に保険をかけておいたのだ。万一の場合、緊急事態を告げる通信を送るということをだ。

 罫太は作業員の前に現れた時、龍一はこっそりとスマホのバッテリーを入れ、緊急事態を伝えたのだった。この場合警察を呼んでくるように伝えたのだ。

「無事で何よりだ」と小池は龍一を見て喜んだ。

「あの、変なこと聞きますけどご兄弟いますか?」

 龍一の問いに小池は口を開こうとしたのだが、その時、ドンという鈍い音が店内に響いた。見れば腹部から血を流し倒れる銀河警部の姿があった。

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