13 予定変更
例の如く寝付けないなどと言うことはなく、爽やかな目覚めで朝を迎えた。これほど待ち望んだ日はない。真夏の付き合い始め以降お互いに程よい距離感を保てていると実感している。
午前中は部活動。冬の選手権大会は夏に予選敗退で終わっているから軽い練習程度である。午後からいよいよもってクリスマスイブイブデート。
とにかく幸せだった。
顔を洗ったときに現れた鏡の前の男は異様ににやけていた。下心が丸出しの何とも締まりのない顔だった。
母は休みだと聞いていたし、もしかしたら妹と出かけるのかもしれない。龍一以外はまだ眠っているようで、静かな朝だった。
朝食に食パンを食べて過ごしていると、ドタドタと慌ただしい音がした。下の階の住人には迷惑だろうな、などと思っていると、母が着替え途中のまま部屋から出てきたのだった。寝ぐせはそのままに顔だって洗っていない。なのにこれから出勤するかのような服支度をしていたのだった。
「え?仕事行くの?」と妹が驚いた様子で部屋から出てきた。
「冴紀、ごめん。どうしても行かなければならない。緊急事態なの」とウェットティッシュで顔を拭きながらバッグの持ち物を確認し始めた。
「銀河さんは休みで良いって言ったじゃない」
「それはそうなんだけど、どうしても気になるから。本当にごめん。冴紀が良い子にしていたことはサンタさんに伝えておくから」
「サンタさんって、私そんなに子供じゃないよ。けど、行っていいよ。お母さんだし」
「本当にごめん。絶対に埋め合わせするから」と言うと、最後にスマホをバッグに放り込んでコートのポケットに手を突っ込みカギの音を響かせた。
あっという間にしてスッピンの母が出かけて行ってしまった。
「はあ~」とため息をついた妹は龍一が朝食をとっている椅子の向かいに座ると頬杖をついて何やら黙り込んでいた。そう思うと視線を向けたままに物言いたげにしていた。
「なんだよ」と思わず龍一は反応してしまった。長い兄妹の付き合いにおいてそう反応することが間違いだということは知っていた。今のような様子に構ってしまえば何かを要求されることは十分承知していたはずが、舞い上がっているだけの現在の龍一にはさしたる慰め程度としか思えていなかった。
案の定、冴紀は待ってましたとばかりに笑顔を見せて口を開いた。それに若干顔が赤い。
「今夜クリスマスパーティーあるんだけど。プレゼント買わないといけないんだよね~」
「今夜ってお前、受験モードに入ったんじゃないのかよ」と牛乳を飲みながらその矛盾を指摘した。
「わかるでしょう?受験生にも息抜きが必要なの。それでね。お母さん出かけちゃったから、どうしようかと思ってね」
「近くの本屋があるんだからそこで取り繕えばいいじゃないか」
龍一の言葉に冴紀は大きなため息をついた。それが何とも嫌味のたっぷりと籠ったもので人によっては傷つくほどの鋭い反応なのだ。
「兄ちゃん、ここは素直に一緒に行こうか、でしょう?せっかく妹が必死になって助けを求めているのに、兄ちゃんは無視するの?」
「俺だって用事があるんだよ。これから部活だし、午後は……デートだから」
口にするのは恥ずかしいが、しっかり言わないと妹の場合変に勘繰り後々、ということも考えられる。龍一は視線をそらしてそう呟いた。どのような反応を示すだろうかと思いながらテーブルの食器を片付けていても、一向に反応がない。つい気になって目の前の妹の様子を横で見た。すると冴紀は口元に手を当てて顔を伏せていたのだった。
何事が起きたのかと思い見ていると、ようやく冴紀は顔を上げた。大粒の涙を目に浮かべて体を小さく震わせているのだった。
そんな様子は見かねる。理由はどうあれ妹を泣かせてしまうのは兄として辛い。だから龍一は必然的に妹に優しい声をかけてしまった。
「午後から一緒に買い物に行こう。プレゼントを探す買い物も楽しいかもしれない。彩原さんもお前と一緒なら楽しめるかもしれないしなぁ……」
「本当に行っていいの?この哀れな受験生なんかと一緒に?」
「当然だよ。楽しいことはみんなで共有しないとな」
「ありがとう。やっぱり私のお兄ちゃんだね」と言うと冴紀は部屋に戻っていった。
去り際に悪寒を感じたが気のせいだろう。妹に限ってあの涙が嘘であったり、遊びに行くための口実なはずはない。龍一はそう思い込み、感じた悪寒を振り払った。
こうして妹に午前中も付きまとわれた。待ち合わせの後から行こうという提案を投げかけてみても待ち合わせが面倒ということで結局学校まで付いてきた。練習だけだからつまらないよ、と言って聞かせても妹は意に介さず問答無用で着いてきた。
妹が付いてきて居心地が悪いのは龍一の方だった。後輩を含めてチヤホヤされていた。
やれ「俺の妹にしたい」だの、やれ「お兄ちゃんって呼んで起こしてほしい」だの「今日からでも龍一をお兄さんと呼んでいい」だのと何とも居心地が悪い。最後には「本当にお前の妹かよ」とさえ言われる始末だ。
そう言い放った安村には仕置きが必要だ。それに例の雑誌の件もある。クリスマスプレゼントだと言って袋に包まれたそれを不覚にも受け取ってしまった。この男は直前に会った母に触発されてその雑誌をあえて選んだのだ。中身を雑誌だと知らずに開いた龍一にはただただ赤面し、次の瞬間には処理をどうするかで切羽詰まるしかなかったのだ。まさか昨夜、それを母が察知するなどとは思いがけない。こんなもの見つかってしまえばどう思われるかわかったものではない。
龍一は安村の首に腕を回した。このまま締め落としたかったが、暴力は良くない。
「昨日はよくもやりやがったな」と耳元でつぶやくと、安村はにやけた笑みを浮かべた。
これ以上構っていられない。なにせこれから彩原さんに会うのだ。さっさと粗悪な連中と別れ、待ち合わせの駅前に向かわなければならない。彼女のことだからすでに待ち合わせ場所にいるかもしれない。そう思うと急にいてもたってもいられなくなり、すぐにでも駅に向かいたくなる衝動に駆られた。
「式澤、ラーメン行かないか?バス停前の店だけどさ、さっぱり味でうまいって評論家が褒めていたって話題らしいよ」と帰りがけに声を掛けられた。
正直ラーメンの話も魅力的だが龍一は手を振って断った。
「冴紀ちゃんだけでも!」と未練がましく安村が叫び声のように両手を当てて誘ってくる。既に支度を終えた兄妹は玄関ガラスの外だ。
「また今度ね!」と冴紀も安村の真似をして両手を口に当て叫んだ。名残惜しいのか両手を大きく振っていた。
呼応するかのように部員らは玄関を抜けて同じように大きく手を振り返していた。それをただ一人、龍一だけが白けた様子で見ているのだった。
「満足したか?」
龍一の声にようやく歩き出した。
「面白い人たちだった。この学校を受けようかな~」と冴紀は指をあごに当てて考える仕草をした。
「西宮高校じゃなかったのかよ。あれだけ勉強して俺と同じだったら嫌だってあんなに言っていたじゃないか」
「あくまでも選択肢の一つよ。それに夏の学校説明会で、いろいろな先輩たちの話を聞いたけど空気感が苦手だったんだ。うまくは説明できないけど、異世界にいる人みたいな、次元の違いと言うか敷居の違いかな?うまくなじめそうにない気がして。それに兄ちゃんが頼んだ男の人、本当言うと何か嫌な感じがしたんだよね。あの時、彩原さんのためだってことは聞いたけど、本当は何があったの?」
「悪いけど、言えない。何度も言ったけど、彩原さんの名誉のためだ。わかっていると思おうけど、このことは」
「わかってる。彼女には内緒でしょ?」
龍一は頷いた。
待ち合わせの駅まではもう少しかかる。何かを聞くなら今しかないと思い、抱いていた疑問を口にした。
「今日はどうして一緒に出掛けようなんて言ったんだ?」
「それはだって、お母さんが急を要したし、プレゼントの用意がまだだったから……」
冴紀は無意識にポケットの中にあるスマホを強く掴んでいた。
「それは聞いた。本当のところはそれがすべてじゃないんだろう?冴紀のことだ、クリスマスパーティーのプレゼントはすでに用意しているに違いない。そうだろ?」
「何言わせるの?私が兄ちゃんと一緒に歩くのがそんなに変?」
妹はマフラーを一度外して、改めて巻き付け整え始めた。
「変ってわけじゃないけど、おかしいなって。冴紀はわざわざデートだとわかっていて邪魔をしようなんてする子じゃないし、彩原さんのことが嫌いというわけでもないだろ。何でもないのに一緒に行きたがるなんて今までなかっただろう」
「バカにぃ。変なところだけなんで鋭いのよっ」と冴紀は龍一に聞こえないほどの声でぼそっと呟いた。
「なんか言ったか?」
「何も。わたしだってプレゼントの用意ぐらい忘れるし、彩原さんに会いたいもん」
冴紀自身は取り繕っていることが苦々しくも思っていたが、龍一はそんな妹のことなどさして気にした様子は見せなかった。すべて最後に弁解した彼女の言い訳で納得できてしまう。自ら抱いた小さな疑問など本当に些細なことで、つまらない邪推だったのだと腑に落とすことにしたのだった。
そして待ち合わせの駅前にたどり着く。祝日の商戦真っただ中であり、人の往来が激しい。
「どこで待ち合わせしていたの?」
尋ねる妹に龍一はあたりを見回した。電飾がきらびやかに街路樹を華やぎ、家族連れやカップルの賑わいでいくつもの物語性を感じる世界である。
「あのドーナツ屋さんだ。外のベンチで待っていよう」
見たところ、ドーナツ店も人で賑わっている。クリスマスマジックというものだろうか、やけに並んでいる人も幸せそうに見える。
「まだ来ていないみたいだね」
「まだ早いだけだよ」と龍一は携帯電話を取り出した。待ち合わせ時間にはまだ30分早い。これで既にきて待ち惚けているのではないかという不安は拭えたわけだが、少々残念な気もしてしまう。
「おなかすいたから中でも食べて待っていようよ。彩原さんだってランチぐらい食べているって」
こんなことならラーメンで腹を満たせばよかった、と頭をよぎったがドーナツも悪くないと思い、妹の提案を受け入れた。
それから小腹を満たし、もうすぐ約束の時間5分前まで迫ってきていた。だが彼女は一向に現れない。彼女だって遅れることもあるかもしれないと思うと、通話を入れて尋ねるのは気が引けてしまう。まるで催促しているような気がするのだ。
「電話しないの?」と隣に座る妹が尋ねてきた。
「まだ、約束の時間まで時間があるし……」
弁明する龍一に冴紀は悲しい顔をして呟いた。
「もう二十分はこうしているよ。何かあったんじゃないかな?」
「冴紀を別の女だと思って立ち去ったのかも」と考えが浮かんだ。妹は厚手のコートを着こんでおり、当然ながら家にいる時よりめかし込んでいる。もしかしたらカップルに見られた事だって考えられる。
そうだよ。見間違えて探しているかもしれない。妹と一緒だということは告げていないのだ。そんな勘違い、自分でも考えられる。
「ちょっと電話してみる」
そう思うとすぐにでも笑い話にしたかった。もしかしたら万一にでも水奈に限ってはないだろうが、腹を立てて帰ってしまったとも考えられる。ならばすぐにでも釈明の電話はするべきだ。
電話のコールは鳴っている。電源を切っている様子はない。すぐにでも水奈の声が聞きたかった。町はきらびやかで人々はみんな楽しそう。彼らの一部に自分たちもなれるんだよ、外は寒いけど綺麗に輝いている。あの水奈が描いた夜景の世界はここにもあるんだってことをすぐにでも伝えたかった。
だが、いくらコールが鳴っていても途切れることはなく、留守電に繋がることもなかった。
「兄ちゃん?出ないの?」
「いや、きっと手が離せないんだよ。それか気が付いていないのかもしれない」
「でももう五分は経っているよ」
「……そうだよ、きっと家に忘れて行ったんだよ。そうに違いない」と龍一は電話を切りポケットへと忍ばせた。結論付けておきながらも忍ばせたスマホが鳴るのではないかと期待した。
「もう、行こうよ。一時間待ってこないんだからきっと何かあったんだよ」
冴紀の言葉に龍一はうんともすんともしない。
「兄ちゃん、悪いけどもう限界……」
妹を見ると体を震わせていた。長時間寒空の下で待ち惚けていたのだ。体調に支障をきたすのも無理はないのだ。ただでさえ受験生だとして気を使っていたはずなのに、今日に限ってはじっと我慢し、限界を訴えるまで兄のそばにいた。
「ごめん、冴紀。付き合わせて。こんな兄なんてほっといて帰っても良かったんだぞ」
龍一は妹の肩に手を回し、当てなく歩いた。ひたすらにお店の温かい空気にを求めたかった。気が付けば気温が急激に下がり、雪が降り始めている。
「一人になりたくなかったの」
ぼそっと呟く妹の声が龍一の耳に届いた。もしかしたら熱にのぼせてつい弱音を吐いたのだと思い、彼女の額に手を当てた。やはり熱い。
「お前熱あるのか?」
「実はちょっとね」と弱々しい声だった。
「やっぱり俺のせいか?」
龍一の問いに冴紀は首を振った。
「じゃあ、いつから?まさか、熱があるってわかっていて付いて来たのか?」
冴紀は黙った。言葉を選んでいるようだった。
「とりあえず、どうする?帰るか?」
冴紀は首を振った。まるで駄々をこねる小学生のようだった。だがそんな姿も彼女が小学生時でさえ見せたことはない。少なくとも兄である龍一よりも聞き分けの良い子だった。
「この様子じゃあクリスマスパーティーどころじゃないだろう?」
冴紀は何も話さない。コートに首をうずめて操り人形のように添えられた龍一の腕に従って歩く。
「わかった。温まろう。ラーメンだ」と龍一は叫んだ。
ショッピングモールならプレゼントの事も、イートインスペースで休憩もできる。ひとまず暖房の利いた温かい場所で一息つくことを考えた。
「違うの……」と椅子に腰を下ろした時ぼそっと冴紀の口から言葉が漏れ出た。
「本当はパーティーなんてない。嘘」と冴紀は俯いたまま体を強張らせていた。両手はまっすぐと膝上に延ばされがっちり握っている。
「だと思ってた。その話は後にしよう。とりあえずラーメンだ。いつも通り塩だよな」
龍一はコートを背もたれにかけてラーメンを目指した。
妹の横を抜けて行こうとしたが、突然財布を持った右腕を冷たい手に掴まれた。言うまでもなく冷え切った手は妹だ。彼女は「行かないで」と懇願する目で訴えてきた。
そんな情に訴える目つきは兄ながらに、兄だからこそ困惑してしまう。
「すぐそこだろ。どこにも行かないよ」
「でも……」と言うとおもむろに立ち上がり腕に抱きついた。こんな密着は水奈にもされたことはない。コートでモコモコになっている冴紀の身体の感触が腕に伝わる。
「わかったよ。一緒ならいいんだな」
歩きづらいうえに気まずい。知らない人が見たらまるでカップルだ。それを通り越してバカップルというやつだ。
ラーメンの注文しているときも、冴紀は一瞬だって離れようとはしない。顔を龍一の肩にうずめたまま一体化している。腕を引きちぎりそうな勢いだ。
「すみません、風邪で具合悪いみたいで。出来ましたら持ってきてもらえます」
店員は困惑したが親切にも了承してくれた。それに財布からまともにお金すら出せない。だから財布ごと手渡し「精算してください」と頼んだ。こんな経験は初めてだった。
「冴紀、どういうつもりだ?ちょっとおかしいぞ」
席に戻って問い質した。常軌を逸する妹の甘え方に恐怖すら湧いてくる。
対面して座る妹は顔を俯かせたまま、元の固まった姿に戻っている。黙ったまま呼吸で体を上下にさせている。
そうしているうちに注文したラーメンが届いた。妹は食べられないということだったので龍一は少量だけでも注文した。そうはいっても食べないはずはないと知っていた。
「実はね……心配だったの」と麺を二口啜った後、冴紀がおもむろに声を発した。
「心配?まさか俺が彩原さんに取られるとか思ったわけ?」
龍一は冗談でそう言った。妹に限って水奈に嫉妬心を抱くはずがなければ、自分に特別な感情を抱くこともないだろうと思っていた。それに楽しみにしていたデートを諦めた直後だ、そのジョークは自分に向けた皮肉の何物でもない。
「バカ言わないでよね。兄ちゃんのことなんか……全然……ちっとも……少しは………………(ブツブツ)」
段々と小さくなる声は聞き取れない。最後の単語はもはや虫の息だ。
耳を澄ましていると突然電話の音が襲いかかってきた。それは背もたれにかけていた龍一のコートから聞こえてくる。
慌ててコートのポケットを探った。向きが分からずポケットの位置にあくせくしてしまう。ようやくポケットを見つけても向きがわからない。とにかく焦っていた。龍一の頭の中には着信相手は一人しかない。
ようやく見つけ出し画面表示を確認することなく電話に出た。何を話すべきか考える間もなく出てしまい、相手からの第一声でその緊張感は別の緊張感を生んだ。
『龍一、無事?』
それは母の声だった。心配した様子が電話でも伝わった。
「……何とか」
その心配の原因を勘違いした龍一はとりあえずそう答えた。
『冴紀は?連絡付かないんだけど』と母は矢継ぎ早に質問を重ねた。
「冴紀?熱の事聞いたんじゃないの?母さんも知っていたのなら言ってよ」
『熱あるの?じゃあ、今も家?』
母の声が震えていた。ただならぬ緊張感を伝わってくる。
「冴紀なら一緒にいるよ。俺に風邪だって黙って付いてきたよ。今も目の前で具合悪そうにして……」
気付けば向かいに座る冴紀は目を大きく見開いてじっと龍一を見つめていた。電話が気になっているようだった。
『一緒にいるのね。よかった』と母の大きな安堵のため息が聞こえてきた。
事情がイマイチ呑み込めていない龍一は黙ってスマホを耳に当てていた。母の様子がどうもいつもと違い、浮足立っている印象がした。
『今どこ?』
「今?駅前のモールだよ。寒いからラーメン食べている」
『そう、じゃあ迎いに行くわ』
電話を切る予感がしたので、龍一は「何があったの?」と直前に口を挟んだ。
『落ち着いて聞いてね……』
やけに引き延ばす母に龍一は「わかったから」と強引に促した。
『ついさっき家が火事にあったって大家さんから連絡があったの』
「火事だって⁉」すぐに龍一は火の元のことで頭がいっぱいになった。今朝は朝食にパンを焼いた程度だし、エアコンは確実に切った。熱源になるものは一切ないはず。
母は何を電話先で言っているのだが、それはもはや耳には入らない。目の前の妹が気になったからだ。目を見開いているが視線に意味はない。心ここに在らずと言った様子でいた。
考えてみればもし具合の悪い妹を一人家に置いておいたりでもしていたら事件に巻き込まれていたかもしれない。そう思うと冴紀の無茶とも思える行動は命拾いしたということになるのだ。
「あの~。すみませんが」と急に背後から男が話しかけてきた。
通話のことで注意を受けると思った龍一は急いでスマホを切りポケットに押し込めた。振り返ると同世代と思われる男が立っていた。厚着しており手許が見えない。
「式澤さんですか?」と男は返答間もなく聞いていた。
突然名前を言われても男に見覚えはない。微妙とも思えるほどの本当にわずかな警報が自分の中で鳴っていた気がした。
「違います。人違いです」と龍一は咄嗟に切り返した。龍一は反射的に自己防衛を選んだ。
「そんなはずない。式澤龍一ですよね」と男は言うと自らのスマホをかざして続けた。
「ほら、マップ上ではあんたがターゲットだって示している」
かざしたスマホ画面にはバツ印と二重丸の二つが接近しており、マップと言っていた画面の背景はこのショッピングモールの周辺地図であった。
覗き込んでいると男は手を引き懐から刃渡り十センチほどのサバイバルナイフを光らせた。そして龍一が息をのむ間もなく男はためらいがちにその刃を振り下ろしてきた。
本能的な察知のおかげで不意打ちは逃れることができた。
「何する⁉ケガするじゃないか。話し合いで解決しよう」
諭そうとする龍一に男は何事か言った後、奇声を上げて何度も刃先を振り下ろした。
「兄ちゃん……」
妹の声にようやく状況を飲み込んだ。三十代と思われる、また別の男が冴紀の首を背後から締め上げていた。男の手にも刃物が握られていた。
二人掛かと思えばさらに別の二人組が凶器を片手に構えていた。
「冴紀を放せ!」
「ダメだ。わかってくれ。仕方ないことなんだ」と弱々しく冴紀の背後で男がナイフをちらつかせた。刃先が震えているのが離れていてもわかる。
「仕方ないってなんだよ。こんなことして何が狙いなんだ」
「命令が出たんだよ。ターゲットはお前になったんだ」
「ターゲットってなんだよ。冷静になれ、こんなところで俺や妹を傷つけてみろ。目撃者ばかりだぞ。早まるなよ。許してやるから」
龍一は冷静に訴えかけながら静かに周囲の状況を確かめた。この状況を打開できる何かを探した。
「仕方ないだろう。あいつが先に動いたんだ」と三十代ぐらいの男は龍一に声をかけてきた同世代の男を指して言った。
「あいつが先に動いたんだ」と男はまた別の男を指し、彼もまた「お前だろ、無計画に突っ走ったのは」と言い争いをしていた。
「ルールだから仕方ないだろう。今やらないと引き返せなくなる。ここまで来たんだ、もう後悔している場合じゃない」とサバイバルナイフを突きつけて少しずつ前進してきた。
背後はガラ空きで突っ走れば逃げられる。だが、妹を人質に取られたまま逃げ出すわけにはいかない。
「お兄ちゃん~。逃げてよ」と冴紀は目に涙を浮かべて力なく沈んでいた。
龍一は賭けに出た。
不意を突いて思いっきり背後に走った。サッカーの試合でも見せないほどのとんでもない速さで走った。
「あいつ、逃げる気か!」と男の一人が慌てて龍一を追いかけようとしたが、次の瞬間には男の目の前に龍一は立っていた。それに気が付いた時には吹き付ける風の音と辺りが真っ白になっていた。それは煙となってその場所にいる誰もが確認できる事態となる。
カーンという響きのいい音を立ててドスン、ガッシャンと鈍い音と物が落ちる音、そしてガラスが割れる音が続いた。
煙の中から龍一は逃げ出した。手には妹の手が握られている。一瞬の出来事に冴紀は混乱していた。だが、龍一がもう片方に持っていた消火器で納得した。
家が火事で大変な時に、消火器で人を巻いて助かるとは何とも皮肉なものだった。
モールを抜け出して再び寒空の下にやってきた。外はすっかり日が降りてうす暗い。
龍一は自分が上着を置いてきたことに気が付き両腕を抱えた。薄着のままではさすがに堪える。
「兄ちゃん。ありがとう」と冴紀が背中に抱きついた。冬の寒さの中においても、それだけで温まる気がしてしまう。妹の存在がありがたかった。
龍一は背中に抱きついている冴紀の頭を撫でた。すると異常なほどに耳が熱いのだ。これ以上の移動は無理だと気が付いた。母の到着はそろそろのはずだが、約束の場所を離れてしまっている。
龍一はポケットからスマホを取り出そうとした。だが、悠長に話している暇はなかった。すぐに追手が叫びながら迫ってきていた。誰もあの異常な男を止めようとはしない。狂人を止めるのは一般人には無理かもしれない。包丁を振り回しまっすぐに向かって来ている。
龍一はとっさに腰を下ろした。戸惑う妹を強引に背負い走り出した。わき目も降らずに逃げた。どちらの方向に行っても奴は後を追ってきた。見ず知らずの住宅地までやってきても、男はいつまでも追いかけてくる。妹を背負って走るもそろそろ限界だった。馬鹿力というものを存分に発揮していたうちは余裕があったが、長時間の逃走には限界である。
ついには力尽きコンビニの手前で倒れてしまった。煌々と照らす店内の蛍光灯を前に息切れと限界を迎えて震える筋肉。もうだめかと悟った時、二台の車が横に停まった。
身体を起こした時ついに助けが来たことに気が付いた。
「龍一!よかった」と母が駆け寄ってきた。それに後ろを見れば二人の男に狂人が取り押さえられている。そして一人の男がこちらに近づくとしゃがみこんだ。よく見れば見覚えのある大人だった。
「龍一君。また会ったな。昨日ぶりだ」と銀河京朔は頭を雑に撫でつけた。
それに狂人を取り押さえ、車両に乗せているのは三田とかいう若い刑事だった。
見たところ母に付き添って上司らが気を利かせてくれたのだ。だとしても、待ち合わせの場所から大分遠くまで来ている。
「良かった。ひとまずは回避できたようだ」とその場に似つかわしくない男の声が前の警察車両から聞こえてきた。
震えている妹を担ぎ、母の運転する車に乗せ、龍一はようやくその声の主である葉金罫太を見返した。罫太は脇にノートパソコンを挟みじっと妹の様子を見ていた。
「どうしてお前がいる?」
「それは、まあ。呼ばれたから」と罫太はいつものような何でもないように言うのだった。
罫太の返答に龍一は心当たりが浮かんだ。例のフードの男の写真である。
一緒に映っていた須藤欣悟のことも気になる要因の一つであったが、それは単なるカモフラージュであった。本当に驚いたことは例のフードをかぶった男の姿が罫太にそっくりだったことだ。母のことだから龍一のおかしな態度を後々変に勘繰ることは予想が付いたので、先手を打つために須藤欣悟のことを話したわけだが、それでも母は満足にしなかった。結果的に母は母なりに罫太にたどり着いたということが窺えた。
気が付くと手をこまねく妹の姿が目の端に見えた。
龍一は静かに車に乗り込んだ。母は後ろに停まる警察車両の横で何やら集まり話し合いをしているようだった。
「兄ちゃん、実は」と言うと冴紀はポケットからスマホを取り出した。細い指と小さな手に似つかわしくない大きさの端末から画面をかざして見せた。
そこには『救世主VRITRA』と名乗る者からのメール文面が映し出されていた。
『式澤家の諸君は23日に不幸を受ける。逃れる術はただ逃げるのみである。諸君の不幸は世の裁かれぬ罪を一身に背負うものなので名誉のものと受け止めよ。もし万一、逃れ付いた先に希望があるとすれば、それは世界の改変を妨害しようとする行いに当たるだろう』
「何だよ、このイカレタ文章は?」
「これがあったから怖くて、でもバカげているって思うとなかなか相談できなくて……。でも本当にまずい状態だし……。もっと早く言えばよかった」
シートに沈み込むようにして冴紀は身体をゆだねた。
「いいよ。わかったから。俺も冴紀をしっかり分かってあげていればよかったんだよ。冴紀がどうしても一緒に学校へ行くってきかなかったことも、離れようとしなかったことも全部つながった」
龍一は冴紀の肩に手を回し、頭を撫でた。額が熱く、首筋、耳に至るすべてに熱を持っていた。
「冴紀はプレゼントを買い忘れるような気の抜けた妹じゃないし、何の理由もなくデートを邪魔するような妹でもない。風邪でも無理して付き添ったり、理由なく嘘をついてまで出かける口実を作ったり、俺にベタベタしたり、小振りのラーメンで満足するような妹じゃない。俺は冴紀の兄だから知っていたんだ。なのにこんなになるまでわかってやれなかった」
見れば冴紀はスヤスヤと眠っていた。顔が赤いのは熱の影響だろう。
しばらくは頭を撫でてあげたかったが、罫太が車の外で何やら呼んでいた。なので腕をほどきシートに寝かしつけた後、こっそりと車を抜けた。
「バカ兄、全部ハズレてるんだから」
冴紀はこそっと呟くと腕を組んでシートに蹲った。
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