10 悪魔の儀式

「あれ?隊長、誰かいたんですか?」

 テーブルの上に置いたままだったコーヒーのカップを見た竹内が尋ねた。

 小池は空になったコーヒーカップを手前に寄せて、すでに冷たくなったコーヒーをすすった。少年の決心に口を挟む余地は自分にはないのかもしれないと改めて思った。

「なあ、一週間前の事だけど、救急車が来たんだって?」と受付の窓口に座る竹内に訊いてみた。ちょうどシフトは休みの日に当たるだろう。

「はいはい。ありました。一人の生徒がケガをしたとかで救急車を呼んだと聞きましたよ。あの時は正面の方に停めてもらって、ストレッチャーって言うんですか、あれを向こうから運び入れてもらいましたよ。あれ、報告書に書いていなかったかな?」

 竹内は壁に紐でかかっている月の業務連絡事項書を手に取り覗いてみた。

「ありました。そうですね一週間前の十時半と書かれていますね。担当は町村ですね」

 そこまで記録が正確なのだ、疑っていたつもりはないが間違いはないことは確信できる。

「何があったか聞いたかね?」

「何でも校内に侵入した他校の生徒がうちの生徒に暴力を振るい逃げて行ったとかで、理由は不明だったと思います」

「うちらに責任を説いたりしていないんだな?他校の生徒が俺たちの視界を潜り抜けて校内に侵入し逃げて行ったのなら、責任問題を問われてもおかしくないなあ」

「そうですよね。あれ、連絡事項として翌日に高橋さんが報告したのはそのことですよ。隊長も聞いていたはずですが」と不審そうにして言っていた。

「俺も歳だな。今年で七二だよ。それなりに脳の回転は遅くないし、記憶力もいいと思っていたが、引退だな」ときれいに揃った歯を見せながら頭を掻いた。

「お互い様ですよ」という竹内も今年で六八だ。記憶力や判断力に衰えを抱いても仕方ないだろうが、経験的直感だけは鈍くなっていないと自負している。

 少年が話したことが正しく、警備体制に責任のお咎めなしの事件報告が間違っているということはいくら歳だからと言って疑うつもりはない。

 包帯と顔中の湿布を張り付けた少年は過程を間違えたかもしれないが、学校という閉鎖的な組織の闇に立ち向かうにはそれも仕方なかったのだろう。むしろ結果だけに目を向ければ少年らの成し遂げた成果は褒めてあげたくなった。年食っただけの老いぼれである自分には正義が何かを簡単に判断できるはずもない。老人がとやかく首を突っ込むことでもなかったかもしれない。

 小池はコーヒーをすべて飲み切ったカップの底を見つめながらある思いを決断した。明日からも変わらず彼らを笑顔で向かい入れることにしよう、かと。


 翌日はまだ後遺症が隠れているかもしれないという母の不安から、仕方なく車で送ってもらうこととなった。ここでいいよ、と正面入り口のそばで下ろしてもらい、いつもとは比較的軽いバッグを担ぎ出し正門へ向かった。

「どうしたんだい?」とやはり普通じゃない姿に隊長は尋ねてきた。

 頭の包帯や頬に張り付けた湿布やら瞼の上の絆創膏の様はあからさまに人の目を引いた。

「ちょっとね、盛大にやっちゃったんだ」

「やったって、何したの?部活関係かね?」

「まあ、そんなところ」とあながち嘘ではないのでとりあえずはそう言うことにしておくことにしておいた。あまり勘繰られてもどのようにしても説明することができそうにないので、龍一は「本当のことを言うと自転車で顔から転んだんです」と誤魔化し校舎へと向かった。

 クラスでは龍一の登場に一同が目を釘付けにした。まるで腫れ物に触るようによそよそしいのだ。部活と同様に嫌な気持ちになったがそれを堪えるしかない。

「ねえ、内田先輩の彼女にちょっかいかけたって本当?」とある女子が声をかけてきた。その女子は別の女子に「やめなよ~」と止められても龍一に声をかけてきたのだった。

 うんざりしたのだが後々のことを考えてこう切り返すことにした。

「目が覚めたら包帯男だったんだけど、俺に何があったか覚えている?」と記憶喪失を演じることにした。

「え?マジ~。式澤覚えてないわけ~。ねえ、記憶喪失だって。超~リアルなんですけど」とギャル口調で彼女は面白がった。

 すると普段一切話さない女子連中も面白がって一様に集まってきた。記憶喪失を演じるだけで女子に囲まれるとは発見だと思った。

「あんたね、ウッチーにボコボコにされたのよ。顔中滅茶苦茶だったんだから」

「そうそう。男子たちなんて誰も止めないんだから。やばいってうちらで思って先生呼んだんだから」

「何?何?式澤君、マジで覚えていないの?噂になっていたんだから、内田先輩の彼女に色目を使ったんだって」

 などと誰一人として龍一と真面目に会話を成立させようとする者はいない。勝手に自らの思ったことを並べて友達間でやり取りして完結に迫る。渦中にいてもこれほどしんどいとは思ったことはない。

「つまり内田先輩が、俺を殴ったんだよね」と確認がてら聞き返してみた。

 その質問には誰もが大きく頷いてみせたのだった。

 小さな騒ぎの後に担任が来た。彼は龍一を見るや否や驚きの表情を浮かべた。だから龍一は思い切って質問してみた。

「先生、俺が二年の内田先輩に殴られたという話は本当ですか?」と女子たちにした質問を繰り返してみた。

「なんでそんなことを聞くのかな」と担任は質問を質問で返した。

「内田先輩が俺のことを殴るなんて何かの間違いじゃないかと思います。それに不良たちに襲われたって話も聞いたので、どっちが正しいのか知りたいからです」

「侵入した他校の生徒に襲われたと聞いたが違うのかね?」

 担任の表情が歪んだ。手許だけは名簿帳の端を伝ってクルクルと回転させていた。

「違うよ。突然先輩が怒鳴って式澤に殴りかかったんだよ」

 言葉遣いを粗く反論したのは安村貫太だ。何度も話しかけても近づくなと一点張りで相手にしようとしなかった安村だ。

「そうですよ。式澤君は先輩に殴られたんですよ」と別の女子も応戦した。

「マジであの先輩怖いよね」「あれサイコレベルだわ」と口々に他のクラスメイトも私語を話すので収拾がつかなくなってしまった。

 龍一が担任からしっかりとした説明を受けたのはそれから直後のことだった。担任の許可のもと一時間目すぐに龍一は職員室に連れていかれ、そこで言い訳を聞かされることとなった。

「式澤、本当に済まない。自分は現場にいなかったから実際何があったか人伝えでしか聞いていないんだよ。検証は全部手が空いていた先生たちが行ったから、自分は全く関われていないんだよ」

 龍一は座らされた椅子で視線を机の上に送っていた。積まれたノートの山が一つ、その陰に三歳近くになる女の子の写真が立てかけられていた。現代文担当の教師らしく文集なんかもあり、見ようによっては散らかっている。

「お母様にはなんて説明するべきかな。嘘の報告だったって知ったら怒るだろうな」と自らの度量の小ささを露呈した。

「母はすでに勘繰っていました」

「え?そうか……」

 胃がキリキリ痛むのだろう、おなかを抑える担任に龍一は追い打ちをかける如くに付け加えた。

「場合によっては警察の介入もあるかもしれません」

「まさか……。いくら誤報告だからって……、そんなこと……つっ」

 担任はまたしてもおなかをさすった。

「安心してください。先生のことではありませんから」

 もがく担任をよそに龍一は職員室を抜けた。授業中の廊下は不気味なほどに静まり返っている。廊下の向こう側で蠢く気配にも敏感に察知できるほどだ。

 教室への帰りがけ、龍一は思った。担任の弁明は確かだろう。気の小さい男が先導的に何かを誤魔化すために嘘の情報をでっちあげたということは考えにくい。やはり学校側が隠ぺいするために押し付けたとも考えられるだろう。だが、その陰謀論を検討するよりも怪しい人物がいる。

「おい!」と突然背後の方から声が響いた。反響的に廊下をこだまする。

 振り返る以前から龍一には相手が分かった。

「授業中に出歩くバカがどこいる」

 おなかを突き出した巨体はやけに顔が汚れて見える。あごのラインのひげや肌のくすみが際立っているように見えるのだ。

 龍一は振り返ると思わず睨みつけていた。脱脂綿の隙間から鋭い眼光を向けたのだった。

「反抗的な態度だな。態度を改めるべきだ」

「担任に呼ばれただけです。言われなくてもすぐに戻ります」と軽く会釈を残し、軽やかに振り返るとまた歩き出した。

「大人をバカにした態度だ。生活指導に報告しておこう」

 龍一の肩をつかんでまで堺は妨げようとした。強い口調とは裏腹にして、その目からは不安の色が垣間見えた。

「どうぞ、ご勝手に。知っていると思いますけど、俺は一年二組の式澤ですから」

 そう言って龍一は堺の手を振り払い、また教室へと足を向けた。その胸の内には確信めいた自信と覚悟で満ちていた。

 その日の昼休み、包帯人間は目立ちすぎるため、食堂での昼食を諦め、教室で用意したお弁当箱をつついていた。すると教室を覘く葉金罫太の姿があった。罫太は姿を確認すると全く気にする素振りも見せず教室に足を踏み入れ、龍一の座る隣に立った。

「この顔だ、不気味だろ。食堂で先輩とばったりなんて嫌だからな」と聞きたいだろうことの先手を述べた。

 だがそれは罫太が欲しかった答えではなかったのか、表情を硬くしたまま立っているだけだった。

「気が散る。何の用だ?」

 龍一の声が教室で最も響いた。おしゃべりし合う群れや読書に夢中になるもの、スマホの画面を眺めるもの様々。彼らの視線が二人に向けられた。

 すると罫太が「来てくれ」と一言呟き、教室から出て行った。

 呆気にとられながらも残りのウィンナーを口に詰め込み、言われるがままに罫太の後を付けた。その足取りは早歩き。目的もわからず追うだけだ。

 ただ、向かう先が部室棟であるからその先のコンピュータ室だろうと予想が付いた。

 しかし、罫太の足が途中で止まった。入ったこともない部屋の前だ。肩書は第二古書室となっていたがいかにも使われているような形跡はない。

 罫太はおもむろに扉に手を掛けるが、やはりと言うか施錠され開かない。

「何だよ、こんなところまで来て」

 文句をつける龍一を横に罫太はポケットをまさぐり、カギを取り出した。それを鍵穴に挿し込みひねると開錠の音がした。

 いくつも疑問があるが龍一は黙って事の成り行きを任せることとした。開け放たれた扉の奥はまさしく倉庫。埃を被ったような段ボール箱の塊が棚に詰め込まれている。まさしく古書の匂いが立つのだ。

 電気をつけた罫太は段ボールを整理し、奥に埋まっていた椅子を取り出した。

「なあ、そろそろ聞かせてくれないか?ここに何があるというのだ?」

「これからある男が来る」

 誰だ、と思う間もなく入り口に一人の足音が止まった。その人物を見た瞬間に固まった。内田聖杜が立っていたのだ。

 無意識に呼吸を止めていたことに気が付き、何度も浅い呼吸を繰り返した。

 内田はポケットに手を突っ込んだまま鋭い目つきで罫太を見ていた。龍一のことに関しては目もくれない。

「出来れば閉めてほしいのですけど」と要求する罫太に先輩は黙って従った。

「こいつがどうしている」と冷たい調子は変わらない。自分が加害者で相手を被害者だという認識はないのだろう。むしろ自分を被害者だと思っているかのように敵意は見せつけたままだった。

「内田さん。何がそんなに気に食わないのですか?彼が何をしたんです?」と罫太はひるまず強い口調で問う。

「女にちょっかいかける根性が気に食わない。どうして俺の彼女なんだ」

「待ってください。ちょっかいなど一度も掛けてはいません。勘違いです」

「マジでお前、頭おかしいよ。よくそんなふざけた態度を続けられるな」

 今にも飛び掛かりそうなほどに内田は震えていた。頭に血が上り対象以外に何も見えないのだ。まさしく一触即発。

「その前に整理させてほしいんですが、彼女と言うのは谷岡侑子さんですよね」

「あ?テメエは引っ込んでいろ。俺は二人相手でも構わない」

 むき出しの敵意を放つ内田に罫太は何やらゴソゴソとブレザーの懐を探った。

「これですか?」と罫太は何かを取り出し内田に差し出した。

「お前か、犯人は!」

 内田は怒鳴り散らし罫太の胸倉をつかみ上げた。罫太は勢いのままに壁に押し付けられ苦しそうにした。眼鏡は浮き視覚からずれ、表情がこわばっている。

 龍一は見ていられず内田の振りかぶった腕をつかんだ。内田は威嚇では済まない男なのだ。放っておけば罫太も同じく病院送りになってしまいかねない。

「お前は引っ込んでいろ」と振り払った内田の拳が龍一の顔面に直撃した。吹き飛ばされた龍一は段ボールの山へと投げ飛ばされた。拳の当たり所が悪く鼻の真ん中を直撃し、血がにじみ出てきた。

 内田を止める者はもういない。拳は容赦なく罫太の右頬に当てられ、口が血なまぐさい。一度で済む男ではない。またしても右手を大きく振りかぶっていた。

「やめてください」と何者かが内田の身体を抑えた。

 龍一は瞼からずれた脱脂綿を上げて何があったかを確認した。床で両腕を抑えられた内田聖杜の下で安村貫太が顔を真っ赤にしていた。

 罫太は眼鏡を戻して乱れた制服を整えて内田を見下ろした。

 床に落ちている白い紙は先ほど罫太が内田に差し出したものだった。気になった龍一はそれを手に取って裏返してみた。なんてことはないそれは例の裸体写真だった。

 罫太はこんなものを懐に隠していたのだ。ソワソワしたくなるのも無理はない。

「内田さん。二度は言いません。あなたは谷岡さんから脅迫されていた事実を知っていたのですね?」

 内田の反応はない。ただ安村から抵抗するだけだった。

「俺たちはその脅迫した犯人を知っています。その写真は犯人の通信機器から抜き出したものです。犯人は非道な奴だと誰もが認めるでしょう。怒り狂うのもわかります。ですがその前にこいつがケガをした試合で何があったか話してくれませんか?全体が見えてこないことには、こちらとしても確信をもって犯人を教えることはしたくはありません」

 淡々と尋ねる罫太の問いかけの最中に内田が立ち上がった。呼吸が乱れて、汗が額に浮き出ているが、敵意と言うのは依然として向けられたままだった。

 安村も立ち上がり肩を上下にさせながら膝に手を付いていた。

「少なくともこいつは殴られる筋合いはなかったはずです。犯行を知ったその直後に、傷ついているかもしれない女子を気に掛けただけのこいつに罪はないでしょう?」

 罫太の説得に内田は肩の力を抜いた。だが、敵意に満ちた目付きだけは変わらない。

 突然「クソ野郎!」と叫ぶと、積み上げられていた段ボールを蹴り飛ばし部屋を出て行ったのだった。

 姿が消えてなくなった瞬間、罫太はまるで糸が切れたかのようにその場に座り込んだ。せっかく用意した椅子もむなしく佇んで見えた。

 龍一も鼻を気にしながら段ボールの上に腰を掛けた。ただただ、緊張に張り詰めた空気からの解放が心地よかった。

「安村、ありがとう。助かったよ」

 安村は突っ立ったまま返事をしなかった。

 もはやこのクラスメイトのスタンスがわからない。だが、救われたのは事実だ。

「腰が砕けたみたいだ」と言い、罫太は立ち上がった。

「式澤、俺の視点からでよれば何があったか教えるよ」

 安村が扉を閉めてそう言った。

「ただ、俺から聞いたとは絶対にばらさないでほしい」

「今になってどうしてだよ。あれほど俺を毛嫌いしていたじゃないか」

「試合の出場とか体裁とかいろいろあったんだ。従わざるを得なかったんだ。だけど、お前がボコボコに殴られる様子を見ていたら、何をそこまで守ってきたのだろうかって疑問に思ったんだよ。そして自分が情けなく思えてきた」

 安村はうつむき加減のままに椅子に腰かけた。ようやく龍一はその真実を知ることになる。


 始めは十一月の中旬、部活内である情報が出回った。それは式澤龍一が内田聖杜の彼女を襲ったというものだった。真偽のほどはわからないがそれは龍一を除くすべてのものの耳に届くことになった。

 時が流れるにつれてその噂話は真実味を帯びてきた。というのは内田先輩本人が肯定したからだった。襲ったという表現はやがて『犯した』となり、さらには口止めに脅迫まがいなことまでしたという具体性までくっ付いていた。

 もし外への情報の漏れがばれたら彼女の辱める写真画像が出回るということなので内田先輩から戒厳令が引かれ、絶対に噂を式澤本人に聞かれてはならないとした。この時はまだ内田も冷静だった。時を見計らい、本人かを確かめてから判断をするとしていたのだ。

 だが、あることが内田の怒りに触れた。

 伸び悩みを抱えていた内田をよそに龍一がメキメキと頭角を現し始めたのだ。冬季大会を目前に実力が一段と成長してきたのだ。

 チームのエースストライカーであると自他ともに認める内田にとっては脅威だった。だが、それでも内田のスター性というものに誰もが感じていたし、自分でも心地が良かったのだろう。

 一年は後片付けに回され二年だけのミーティングが開かれた。その時見張りとして安村が付けられたのだった。龍一にだけは聞かれてはまずいと言うことで、任命をされたのである。

「あいつにしゃしゃり出られては困ると思うのだが、どう思う?」と尋ねる内田の声が部室から漏れ聞こえてきた。勘づいていたがこのミーティングはただの作戦会議ではなかったのだ。

「正直、うっちー、よく耐えられるって思うよ。あんなことしたあいつと一緒のフィールドに立てるよね」と続いたのは井上先輩だろう。

「俺は無理だな。見ているだけで吐きそうだもの」

「でもこのままだとレギュラー確定じゃん。ひと枠取られちまうよ」

「マジで、ああいうやつがチームプレイの妨げになるよ。目障りこの上ない」

 先輩方の龍一への不満は堰を切ったように溢れ聞こえてきた。男の嫉妬というのもあるのだろうが、根底は内田の恋人への強姦疑惑がある。そのマイナス面があるからこそ彼らは容易く後輩を疎ましく思えるのだ。

「やっぱりチームプレイということを考えるとこの先の試合で邪魔になるよね」と切り出したのは速水先輩だろう。先輩はその棘のある声でさらに悪魔の提案をした。

「そろそろヤキを入れてもいいんじゃないか?」

「わかっているだろう。コーチは喧嘩両成敗だ。どっちの情状を主張したところで、次の大会での両方の出場を認めない。コーチは良くも悪くも平等的なんだ」と井上先輩がまともなことを言っていた。

 聞き耳を立てながら安村はそわそわしていた。この話は龍一本人以外にも誰の耳にも入れるべきではないことだ。辺りを見回して警戒を強めた。

「マジで殺して~。あいつがいるおかげで試合に負けたらどうするんだよ」と速水が言い出した。

「殺すまで行かなくてもさ、少なくとも償わせるべきだ」

「イノッチは優しいな。じゃあ、例えばどうするよ。同じく男に襲わせるのか?」

「ハハハ。それは受けるな。ぶっ殺されるより苦痛だ」というのは田中先輩だろう。

 こう言った具合に先輩方のおぞましい会話はいつしか笑いとともに繰り広げられていた。

 すると安村の目に同級生の姿が見えた。集団的に戻ってきたのだろうから、その中に龍一がいないとも限らない。

 安村は慌てて扉をノックし、「一年が帰ってきましたので一応」と呟いた。するとすっとまるで電池を切ったかのようにさっきまでの騒ぎは静まり返った。

「安村、お前サボりか?」と歩く同級生に訊かれた。

「今、先輩方がミーティング中だから雑用を任されたんだよ」と釈明する安村の後ろから急に扉が開いた。内田先輩が顔を出し後輩らを値踏みするかのように眺めると、彼ら六人を向かい入れた。

「安村、その調子で頼むわ」と肩を叩き再び中へ戻っていった。

 新たに六名加わりミーティングは再開された。切り出したのは速水先輩だった。

「思ったんだけどさ、何も奴をぶちのめすのは本人じゃなくてもいいよな。例えば注連川が奴をボコボコにするじゃん。そうすれば奴と注連川が出場できなくなる。そうすればその試合は奴抜きで試合できる」

「俺ですか……」と指名された注連川は困惑していた。

「それだと注連川君がかわいそうだよ」と井上先輩がフォローした。

「レギュラー以外なら誰でもいいよ。くじ引きでスカッとしたい人を選ぶ感じだよ。次の試合に進んだらまたくじを引いて引きずり下ろせばいいだろう。その代わり空いたひと枠を出場できなかった人に回してあげればいいじゃないか」

 傍から聞いていた安村には恐ろしい計画だと思った。いくら悪人だとしてもそこまでして追い込もうなどという気が知れない。それに今の自らの成績では確実にくじを引かされる側だ。くじを引かせる行為は否応なく全員を共犯者にするとはもはや悪魔の儀式ではないか。

 その日のうちに速水先輩の考案した一年生限定くじ引き大会が開かれた。龍一本人については流れのまま任せるということになった。足止めをするようにとのことだった。その代わりくじ引きは免除となるわけだが、罪悪感や共犯意識はくじを引く他の生徒とくじに外れた誰かの中間というところだろう。その順位関係で言えば底辺は計画を立てた二年生らだ。罪の意識などなく楽しんでいるに違いない。

 次のレギュラーに選ばれるようコーチに口添えするという甘い誘いで安村は渋々龍一の足止めを了承したのだった。何気ない会話で意識を部室から反らした。本人は不審そうだから簡単な話題では足止めにならない。だから自らが片思いしている女子の話題などで無理に話を繋いだ。この時にでも内田先輩の彼女を犯したという話の真偽を確かめるべきだったし、部室で何が行われているかということを告げるべきだったのだ。だが、わが身可愛さにそれが出来ず終了の連絡を待ちわびて羞恥的な会話を選ばざるを得なかったのだ。

 くじの結果、高良という七組の生徒が選ばれた。さらに一週間の期限付きという条件が加算されたそうだ。

 当然ながら高良本人は嫌がった。例の強姦噂の真偽はどうあれ、暴力を振るうほどの怒りは持ち合わさていない。暴力とは並大抵の精神では成せないものなのだ。

 そして一週間が過ぎピンピンしている龍一に速水先輩を中心とする田中先輩ら一団が高良を取り巻いた。内田聖杜や井上撤郎は関与しないようだ。

 例の如く見張りを仰せつかり部室の前で警備にあたっていた。

「あれって冗談だったんすよね。そんなこと出来ないっすよ」

 弁解する高良に先輩方の威嚇が向けられた。一通りなじった後、誰かが提案した。

「罰金でいいんじゃね?契約不履行って奴だよ」

「そうだな。財布出せや」と速水が続いた。

 恐れのままにロッカーから財布を取り出した高良は渋々彼らに手渡した。

「しょうがねえ、俺たちも鬼じゃないから四十パーでいいわ」と速水はゲスな顔を浮かべて手慣れた手つきで千円札二枚を抜き取った。

「どうするよ、この金?」

「もったいないから俺たちで使おう」

 彼らは臨時収入に沸き立った。そしてこの式澤龍一排除計画は利益があることを覚えたのだった。一度覚えてしまった甘味は二度目が欲しくなる。そこで新たな生贄を求めた。

 高良を見張り役として二度目のくじ引き大会が開かれた。厳粛という名の脅迫により集められた一年生部員、当然ながら罰金などのすべての経緯を知る自分も加わるのだ。

 二回目のくじ引きはいろいろと趣が変更されていた。まず内田や井上の姿はない。主催は速水を中心として行われることとなった。さらにくじ引きのルールが変更された。外れくじは二つ。外れた二人のどちらかが龍一に制裁を加えなければいけない。というのが表立った説明である。

 だが魂胆は安村にはわかっていた。失敗すれば収益は二倍。それに実行しなかった側から巻き上げれば失敗しても成功しても罰金という名目で収入を得るわけだ。

 そして選ばれた二人は雨宮と鬼柳。期限は一週間。もうそのころには大会が迫っている。大会へのコンディションを考えると最後のチャンスだと思われた。

 一週間が過ぎ、龍一だけは変わらず練習に励んでいた。ひたむきなのは当事者たる彼ぐらいで、他の一年部員は羨み、憎しんだ。

 そして雨宮と鬼柳も失敗。例の如く安村は警備を任されカツアゲの機会を補助した。

 思った通りに二人から罰金を巻き上げる展開になったのだが、そこに内田と井上がやってきた。中の連中に知らせる必要はないと思った安村はそのまま彼らを通す。

「お前らまだやってたの?」と井上が聞いていた。

「俺はどうしても勘弁ならないんだよ。あのクソがウッチーよりも活躍するのがよ。だからどうにか排除したいんだが、こいつらが使えなくて」と言いながらポケットに巻き上げたばかりの金を忍ばせた。

「そうだよな。イライラして視界に入ってくるだけで、は?なんでいるの?って思う。お前らもそうだよな」と田中が雨宮と鬼柳に同意を求めた。

 二人とも怒りの方向性がねじ曲がり龍一に向けている。だから、当然といったように大きな返事で答えたのだった。

「でもって未達成なわけだ」と内田が呟いた。

 怯える二人はポケットをさすった。またしてもお金をせびられると思ったのだ。

「イノッチにも話したんだが、思ったんだよ」と内田は話を切り出した。それに井上は相槌を打った。

「もし、高良がやったところで、俺の気は晴れるだろうかって。大会に出場できないことになるかもしれないが、発端の被害者は俺なわけだろ。人任せで追い込んだところで被害者意識としてはムカムカが治まるだろうか?」

「でも手を出したら出場できなくなるよ。ウッチーがいなくなったら俺らも危うくなるって」と速水は大げさに心配して見せた。

「だから考えたんだよ。試合中にやってしまおうって」

「出来るのか?みんなが見ているんだぞ」

「正確には出来るかもしれないだ」と続いたのは井上だった。「人が固まる瞬間を狙って俺たちが壁になる。その間にウッチーが奴を仕留める。ボールに集中している奴のことだ、自分に何があったかも知らずに終わるだろう。場合によっては大会中の出場すら怪しいと思わないか?」

「でもどうやって?審判員もいる。みんな見ているんだぞ」

「だからうまいことみんなでプレイするんだ。競技はチームプレイなんだ。審判の気を反らすことだってできる。相手選手だってまさか俺たちが味方の選手を狙うなんて思いもしないだろう?相手にしてみれば活躍する選手が一人消えてくれれば何も文句は思わないさ」

「さすがに思うんじゃないか?」と田中が聞いた。

「それがもし幻のゴールとなったらどうだ?ゴールを決めた選手が何らかの都合で消え、得点がなかったことにされるなら相手にとって好都合。そんな演出を作り出すこと俺らにもできるだろう。試合の後あいつがいなくなってスカッとすると想像するだけでやる価値はあると思わないか?」

「で、具体的にどうやるんだ?」

 面白がりながら速水はその作戦に興味を示した。それは内田の中ですでに映像として出来上がっており、試合の作戦会議以上に綿密に詰められた作戦だった。

 そしてその計画は裏作戦会議とされ龍一とコーチ以外の選手ら全員へと情報が共有されることとなった。あるものはくじを引かなくて済むことに歓喜し、あるものはできるはずないと否定したが、龍一を疎ましく思う気持ち一点でチームが結束した。この裏計画の成功は結束力の向上、強姦男の悪事を成敗ということの二つを名目として練られたのだった。だがその本質は上級生の嫉妬心や鬱憤解消、下級生の上級生への恐怖と罪悪感、レギュラー獲得への野望という混沌とした感情で構成されたものだった。

 それを内田聖杜は「絆」と表現した。


「だから、あの試合で良い様にボールが回ってきたのか……」

 龍一は段ボールに座りながら頭を抱えた。安村が教えてくれた龍一の知らないサッカー部の裏の顔に嫌悪し、恐怖すら抱いた。

 名前の挙がった高良、雨宮、鬼柳とは変な接触があった。こちらから手を出させるようにあの手この手で小さな嫌がらせをされたし、そのたびごとにムッとした気持ちを抱いたのだが、手を出すことでもないので怒りを鎮めたことも覚えていた。

 それに例の試合だってそうだ。必ずと言っていいほど毎回ボールが回ってきた。そのたびごとにヘトヘトになるし、相手選手からのマークもきつかった。そしてあの時、シュートがキーパーの手をかすりエンドラインを抜けるように仕組んだのも作戦によるのかもしれない。今思えば先輩方は相手選手のマークをかわさず走るだけだった。かわしてパスを受け取ることもできたはず。自分も自分でシュートを放つしかないと思ってしまった。ヘトヘトのシュートなどあてずっぽうもいいところだった。

 そしてコーナーキックで集まった先輩らの壁、キックを放った井上のボールはまっすぐと龍一の元へと飛んできた。

 完全に術中にいたのだ。良い様に彼らに操られ内田に軸足を蹴られたのだ。

「なあ、本当に済まない。言い訳にしかならないけど、俺にはサッカーしかないから先輩たちの言うことに逆らえなかったんだ。だけど、さっきも言ったけど内田先輩が怒り狂いお前をそんな状態にしたのを見てどうしても我慢できなかった。やっぱり式澤がレイプ犯じゃなかったんだな。俺の判断が間違っていたってやっと思い知ったから先輩を止めたんだ」

 安村はうつむいたまま話をした。

 サッカー部員がこぞって無視し続けたことや計画的にケガをさせられたことは許せなかったが、安村の抱いている気持ちは理解できた。狭い環境でしかない部活内でより権力がある先輩に逆らい集団に刃向かうのは勇気のいることかもしれない。この男も葛藤をしていた一人だったのだろう。

「安村、俺だってサッカーしかなかったんだぞ」

「ついでに言えばもっと早く止めに入ってほしかった。ここあざになってないか」

 龍一の文句に被せるようにして罫太が殴られた頬を指さして尋ねていた。

「マジですまん」と安村は椅子に座ったまま頭を下げた。

 丁度安村が頭を上げた時に予鈴が鳴った。もう昼休みの終了であった。

「まずいな、急がないと間に合わないな」と罫太は焦って段ボールから降りた。

 部室棟から教室はそれなりの距離がある。絶対に廊下を走らないと間に合わない距離だ。

「おい、何やってるんだ?」

 罫太は突然段ボールの詰まった棚をよじ登り始めたのだ。まるでロッククライミングのようにすたすたと壁を行き、天井まで手を伸ばしたと思うと上の棚から何かを取り出した。

 安村と二人でその様子を眺めていた。棚が崩れでもしたらケガどころでは済まなくなる。

 ドシンと床に足を着地させた罫太は二人を部屋から追い出した。ポケットから鍵を取り出し、施錠した。その手には何やら小さな装置があった。黒いコードと四角い箱、それにアンテナのような金属製のものが見えた。

「急げよ。遅刻するぞ」

 カギをポケットに入れた罫太は二人に言った。

 罫太の声に二人は走った。後ろから追いかけるように罫太も走ってくる。

「何だよそれ?」とたまらず龍一は聞いた。

「見たらわかるだろう。録画装置だよ。俺がただ殴られるためだけにあの部屋を用意したわけがないだろう」といつか見たような悪い顔を浮かべていた。

「殴られるのも想定内か?」と安村が聞いた。彼も罫太の周到さにゾッとした様子だった。

「んなわけあるかよ。殴られるのは式澤だけで十分だった」

「そうかよ」

「だがよかった。後はあの男だけだろ」

「そうだな」

 階段を上るために廊下を曲がったのだが、偶然にも廊下の先に例の男の後ろ姿がのそのそと廊下の真ん中を歩いていた。

 それは罫太も気が付いた。安村を先頭にして階段を駆け上る中、龍一と罫太は拳を突き合わせた。こうして二人はお互いの意志を確かめ合った。

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