09 エビフライ

「こちらにお勤めの堺大機さんにお話があるのですが」

 突然現れた警察車両から一人の男が運転席の後部座席から窓を開け、身を乗り出して小池にこう切り出した。

「堺ですか?堺と言うとサッカーのコーチの?」

 男は警察手帳を丁寧に見せた。その肩書は小さい文字で読めないが名前は『右野貴徳』と読むのだろう。警察車両で現れたのだ、身分を偽っているとも考えにくい。

「確認を執っていただけませんか?」

 やけに低く抑揚のない静か、悪く言えば元気のないしゃべり方をする男だと思いながら小池は肩の無線機を使って応援を呼んだ。

「どうしましたか?隊長」と後輩の高橋が配置の正面門前に現れた。少し走っただけで息を切らせている。

 高橋に対処させることはできないと感知した小池は自ら誘導することにした。

「俺の代わりに頼むな」と指示し車両を駐車場に誘導し始めた。雪解け水の大きな水たまりがある場所を超えた先にしか駐車スペースはもうない。

 春の陽気を感じさせながらも、風は冷たいままだ。くしゃみの一つでもしそうな空だ。

 車両からは三名の警察官が降りた。先ほどの右野が責任者であるに違いない。

「では、こちらに」と小池は来客専用の入り口に案内した。ちょうど昼休み時間のようで、時折ガラスの向こうから楽しそうに歩く生徒の姿が目に付いた。

 この時受付を担当していた竹内に事情を説明し内線電話で職員側の担当者にかけてみた。するとすぐに女性職員が現れ警察一行を連れて行った。

「一体何があったのでしょうか?」と竹内が興味津々と言ったように窓口から頭を出して彼らを目で追って見ていた。

 小池も彼らの姿が見えなくなるまでじっと見つめていた。

 それからほどなくして彼らが姿を現した。その中に堺大機がいた。そしてたくさんの生徒の野次馬がぞろぞろと背後に並んでいる。

 小池は受付の窓口を抜け出て彼ら一行を見送った。ほんの数十分の出来事だが、これは勤務していた記憶の中において初めてのことだった。そう思うと邪推が頭の中を過ぎってしまう。

 詰めかけていた生徒たちは口々に色々な噂を立てては、散り散りに消えて行った。

 だが、男子生徒の二人だけがポツンと残っていた。一人は毎朝良く挨拶生徒だから面識はある。もう一人の生徒も見たことはあるが挨拶を交わした記憶はあまりないないはずだ。

「式澤君、どうかしたかね?」と小池は茫然としている彼に声をかけてみた。

「あ~あ、隊長」と彼は今気が付いたようにこちらを見た。幻覚を見ていたような冴えない顔をしていた。数日前から付けていた顔の湿布などの処置はないのだが、あざはまだ残っており目を見張るほどだ。

「そういえば、さっきの人サッカー部のコーチらしいけど知り合いじゃないか?」

 小池は彼がサッカー部員であることは直接聞いたことはなかったのだが、ユニホーム姿で敷地内を走っているところを何度か見たことがある。

「知り合いどころか俺たちが原因です」

 その答えに小池は耳を疑った。つい聞き返してしまった。

「お前、余計なことを言うな。面倒だろ」と隣の眼鏡の少年が掴みかかった。

「いいだろう。これぐらい」と抵抗した。

 既に周りには誰もいないことを確認した小池は二人の少年を守衛室の中へ連れ入れた。初めて入った彼らは瞳に好奇心を宿らせているのがありありとわかる。高校生であっても中身はまだ子供だ。彼らを見ると自分の子供たちの同じ年齢の頃を思い出してしまう。

「隊長、さっきのことは内緒にしてもらえませんか?」と頭を下げてお願いした。

 ただ事ではないことは理解したが、放っておくこともできただろう。だが、一人の大人としてこれぐらいの子供になすべき対処を思ったときただ言われたままに傍観しさえすればいいというのは間違っていると思った。だから「もちろん、俺は君ら生徒の味方をしたいけど、犯罪と関わるなら見過ごすことはできないだろうね。聞いてしまったからには話してもらわないことにはなあ」と事情の説明を求めることにした。

「な、面倒になるって言っただろう」と眼鏡の彼が言わんこっちゃないとばかりに式澤君を責めた。

 これでますます話しにくくなった。告白のハードルを大きく上げてしまっただろう。

 小池はひとまず立ち上がり、お座敷に胡坐をかいた二人の前にコーヒーカップを並べた。

「俺コーヒーは……」と少年は遠慮した。対して、眼鏡の彼は「いただきます」とすすり始めた。

「警察に頼ることが最善の方法でした」と少年は出来事を話してくれた。


 それは堺大機が同行を受ける一週間前、メールと画像をハッキングで手に入れた翌日のことだった。その日、ちょっとしたある事件が起きた。

 龍一のクラスでは二時間目の英語と三時間目の化学の授業が始まるその短い休み時間でのことである。移動教室のため、理科室へと向かう龍一の前に激高した内田聖杜が現れたのだった。

「テメエ、また女にチョッカイかけやがって、今度という今度は許せん」と龍一を見つけるや否や駆け寄ってきた。目は血走り、髪の毛は逆立っている。

 いつもクールに澄ましている内田先輩に龍一は恐れ慄いた。

 内田聖杜はサッカー部のエースであり学校一のモテ男として有名人だ。そんな彼がカッとなった姿で龍一の前に現れたものだからクラスや周りの生徒らも野次馬のように取り囲み、誰一人としてこの空気に異議を唱える者は現れなかった。その場にいた誰もが何事かということに興味を向けていた。

「先輩。俺には何のことかわかりません。誰かにちょっかいを掛けた記憶はありません。きっと何かの勘違いです」

 声が震えるのは情けないが、何とか毅然とした態度で釈明を訴えた。初めて見る内田の威圧に怖気づきそうになったが、懸命に自らの無実を証言するしかない。

「まだそんな口きくか。クソガキ。前の試合の件で懲りていないんだな」

「そんな、俺知りません。本当に何のことだか……」

 龍一は冷静に周りを見回した。教室から顔を覗かせる生徒や移動中に足を留める生徒らが冷たい視線を送っているのがわかる。

「いったん落ち着きましょう。ね、きっと誤解が解けるから」

 龍一の弁明はむなしく先輩の拳が顔面に直撃した。当然それだけには収まらない。倒れそうになる龍一を捕まえて、今度は膝が腹部を直撃した。

 龍一も抵抗しようと必死に内田の手を振りほどき離れようとするのだが、内田はしつこくつかみ上げ思いっきり壁に顔を打ち付けた。鼻血が流れ、口を切ったせいで血の匂いと味でいっぱいになっている。

 顔中が赤く染まっていても内田は血が頭に上ったままだった。いくら龍一を痛めつけても怒りが収まらないのだ。さらに内田は「どうした?やられてばかりで、やらなきゃ意味無いよ」と煽るのだ。

 龍一はもはや立っていることができなかった。直接的な攻撃を受けていない足が痛む。それはあの試合で受けたケガの位置だった。病院で苦痛に感じていたあの痛みがよみがえる。

 血を吐き出して倒れる龍一なのだが、それでも内田は容赦なく襲ったのだ。

 仰向けにして馬乗りをすると、何度も顔を殴りつけた。拳が血でぐちゃぐちゃになりながらも何度も何度も龍一を殴りつけた。

 ここまでされてようやく龍一は渾身の力を振り絞り右の拳を内田の頬に打ち付けた。たった一撃だが、それはまっすぐに相手の頬を直撃した。その拳で内田は起き上がることはできず、代わりに龍一が立ち上がった。

 顔面中の腫れ上がった表面は熱を持つし、腹部に衝撃を食らったから内臓がグルグルと呻き気持ちが悪い。だが、あの足の痛みはきれいさっぱりと消えていた。開かない瞼のまま龍一は目下で横たわる内田を見た。

 そしてとにかく保健室だと思い一歩足を踏み出したところ突然視界が真っ暗になった。龍一は音を立てて廊下に倒れ込んだのだ。


 目が覚めると痛みが駆け巡った。特にひどいのは最後に打ち付けたと思われる額のコブだった。ジンジンとした痛みが心臓の鼓動とともに伝わるのだ。さらに顔面を覆う包帯の感覚や湿布薬の匂いが不愉快だった。

 学校の保健室で目が覚めたと思い、辺りを見回せば母がいた。ついでに妹の冴紀までいるではないか。

「心配したんだからね」と母は泣いていた。それに普段からクールな妹でさえ「よかった」と安堵を浮かべてくれた。

「何があったんだっけ?」と体を起こして確かめようとしたが、今度は腹部に痛みが走った。体中がボロボロと言った状態だ。

「記憶喪失なの?」と妹が心配そうに尋ねた。

「かもしれない」と嘘をついた。本当はすべて覚えている。内田先輩が手を出してきたことも、ボコボコに殴られたことも、最後には一矢報いたことも、全てをだ。

「アンタはね、不良たちに絡まれて死にかけたんだって聞いたよ」

「え?誰がそんなことを?」と聞き返さずにはいられなかった。微妙にニュアンスが異なる気がした。『不良』という括り、『たち』とはまさに複数形と言うことは馬鹿でもわかる。それに『死にかけた』というのはどういうことだ。

「担任の恩田先生と部活のコーチだって名乗る人によ」

「は?どうしてそこでコーチが出てくるの?母さんに言ったよね。もうサッカー辞めたって。ケガの後、気まずくなったから辞めようと思うって」

「そんな本気で辞めるわけないと思うじゃない。あんなに好きだったサッカーよ」

 これだから母親はと言いたくなる気持ちを抑えて、ベッドから起き上がった。いつまでも保健室で横になっていることはできない。蛍光灯の明かりが闇を照らしているのは感覚からわかる。もう帰宅時間だろう。

「ちょっとちょっと。今先生呼ぶから」と母はベッドの頭の方でゴソゴソと何やら探っている。それがナースコールのボタンであることに気が付いた時、龍一はようやく自分が病院のベッドにいることに気が付いた。

「なあ、死にかけたってどういうこと?」

 龍一の質問に答えたのは妹だった。

「頭を殴られ過ぎてひどい損傷を受けたかもしれないって一時危険な状態だったんだよ。これ以上殴られていたら死んでいたって。それに後遺症が心配されたけど、記憶喪失ぐらいでよかったよ。だってお医者さんからは言語障害や身体機能障害が残るかもしれないって忠告されたんだから」

「マジか……」と現段階においてこれだけしか感想は浮かばない。これも後遺症によるものかもしれないのか、と疑いながら体のいたるところを気に掛けてみる。

 身体の感覚は異常ないし、記憶障害も嘘。あったことはすべて覚えている。だが、それが正しいことかと疑ったとき絶対にそうだと言い切れない自分がいた。

 そのうちに担当医が病室に現れ、いろいろなテストを始めた。指を目で追ったり、テーブルに並べたカードを覚えたり並べたり、全て幼児が受ける知能テストのような簡単なものだった。

 どうやら医師の判断も異常なしと言うことらしい。

「あの……俺、どれほど寝ていたんですか?」と病室を訪れた若いナースに訊いてみた。

「式澤さんはですね……」と手元のタブレットを操作して何やら確認していた。母や妹たちの様子だとまさか十日、下手すれば一年間なんてことも考えられると覚悟したが、答えは案外呆気ないものだった。

「昨日の午前中だよ」と妹がナースよりも先に答えた。

「昨日ね……」と思いながら壁の時計を確かめた。時刻は七時前である。つまり三十時間近くは意識を失っていたのだった。

 結局この日は入院を余儀なくされ、一日だけ様子を見ての二日目に退院という運びとなった。その一日目の午前中はただ退屈に時間を過ごした。誰かお見舞いに来るわけではなければ、何があったかの情報が入ってくるわけでもない。ただ黙って直前の記憶を何度も思い起こしていた。記憶に疑わしい部分があるわけでなければ、取り立てて気になる部分もない。やはりどう考えても担任とコーチから聞いたという母の話とは噛み合わない。

 暇を持て余したついでに龍一は院内をふらふらと放浪した。前回の入院は足のケガだったので、こうして好きに病室を出歩くことはできなかった。出歩けるだけで病棟内の印象は大きく違う。

 コミュニケーションルームという広い空間があった。ベンチに腰掛け新聞をじっくり読むおじいさんやお互い大声で会話を楽しむおばあさんたち、おもちゃで遊ぶ親子と様々だった。そんな中である一組が気になった。

 同年代と思われる少年とおじいさんがテーブルを挟み真剣に向き合っていた。そのテーブルの上には将棋盤が乗っていた。将棋の知識はそれほどない龍一だったが真剣な姿が気になった。つい二人のそばで立ち止まって見ていた。そんな龍一のことなど二人は全く気にしなかった。お互い盤上に集中しており、観客のことなど眼中には入っていないのだ。

 二十分くらいが経ち少年の方が頭を下げた。どうやらおじいさんの方が勝ったのだ。少年は悔しそうにして無言で立ち去って行った。

「君も打つか?」と片付けをしながらおじいさんが声をかけてきた。

「やったことないです」

「ない?……そうか。最近は好んで遊ばんのか……。どうだ?教えようか?」と彼は生き生きとしていた。教えるのが好きなのだろう。

 別に断る理由がなければ、暇を持て余している状態である。それに実際少し興味を持った。

「じゃあ、まずは並べるとしよう」

「お願いします」

 龍一は対面に座ると頭を下げた。


 翌日の午後、母の迎えで病院を退院。たった一日だったが仲良くなった将棋の老人に挨拶を済ませ帰宅した。自室に戻るとバッグが部屋の真ん中に置いてあった。授業の途中で抜け出したものだから、中身は二日前の時間割のままだ。誰かが教科書類を詰め込んでくれたのだろうが、中がぐちゃぐちゃだった。中を漁ってみると携帯電話が奥に詰め込まれていた。これに関しては自分で入れたままだから、誰も触れていないに違いない。

 電源を入れてみると充電がかろうじて残っていた。着信が一件だけであり、他にメールの類は一つも届いていなかった。サッカー部の連中から一つぐらいは届いてもいいはずだが一切ない。

 唯一連絡をくれたのは葉金罫太だった。日付が前日のものだったから気になって連絡を入れたのだろう。

 龍一はひとまずスマホをベッドに投げ捨て机に向かった。内田聖杜が怒っていた理由がどうしても気になっていた。記憶を疑うことを辞めてみると答えは単純に導かれた。昨日将棋盤に向かい将棋老人に教えを乞うている際、突然何の前触れもなくその考えが浮かんだのだ。複雑にしているのは相手から奪った駒をどう使うか迷うからなのだ。盤面上だけの世界ではいかに駒を奪い王将に攻めかかるかだけなのだ。

 内田先輩の暴力行為を学校は隠ぺいしようとしているのだ。

 ではなぜそんなことをするのか?それはおそらく学校のブランド意識というものだろうし、教師の責任問題、学校、さらに言えば教育委員会の責任問題に発展しかねないからだろう。現に昨年いじめで自殺した児童がいるのにもかかわらず学校側はそれを否定してうやむやにしたことが社会問題として取り立たされたこともあった。うちの学校も同じく隠ぺいを企んでいることは大いに考えられる。

 だが、当事者たる龍一はそれだけではない気がした。それが将棋で言うところの持ち駒を利用して複雑化するということだ。担任とコーチが嘘をついて複雑にしたように、そこには何らかの意図が介在しているのだろう。

 悩んでいると携帯電話が鳴った。見ると罫太からだった。同時に充電が悲鳴を上げた。一度見て放置したままだったから残量が八パーセントにまで減少していたのだ。

 受電コードを挿し込んで通話に答えた。

『おお、繋がったか』と電話先の罫太は驚いていた。

「何とかな。何の用?」

『いや、まあ……気になるだろう。あいつのパソコンを覗き見た翌日にお前が病院に運ばれたって聞いたからさ』

 時系列で言えば確かにそうだ。そのことを指摘され龍一は改めて思い知った。

『もしかしたら今度は俺かもしれないな』

 冗談のようにあざける罫太だったが、本心は怯えているのかもしれない。龍一はそう直感した。そうでなければ連絡を入れる間柄ではないからだ。

「なあ、内田先輩はどうなった?」

『ああ、お前を襲った狂人ストライカーだな』と罫太は確認を求めた。面識はほとんどないのだろう。龍一の返事の後、罫太は話し始めた。

『俺が独自で掴んだ情報によると何のお咎めもなく今日も学校に来ていたようだ。ただいつものスカした茶髪のウェーブは落とされ、頬にはあざが残っていたそうだ。お前と取っ組み合いの喧嘩をした後は一緒の保健室に運ばれたのだが、内田はすぐに回復して呼び出されたようだ。一方のお前は救急車で病院送りにされたわけだ。俺が事件を知ったのもちょうどこのあたり。救急車が来たものだから全校生徒の関心が一斉に広まり、同時にいろいろな噂まで流れた』

「だろうな」と龍一は罫太の話を客観的に聞いていた。

『だが噂の尾ひれ以外の核心の部分は決まって女が関わっているんだよ。お前が奴の女を略奪しようと目論み、その女性に襲いかかったと』

「馬鹿言うなよ。俺はそんな男じゃない。お前もわかるだろう?」

『正直知らん』と罫太はあっさり返答した。

「だよな……。聞いた俺が間違っていた。お前はただの協力者だもんな」

『だが、一つだけわかったことがある。噂の中で奴の女は誰かというのがディープなところで出回っていたんだ。これにたどり着くのは苦労したよ』

 どのように入手したか気になったが、よからぬ方法に違いない。龍一は気にしないふりをして「誰なんだよ」と尋ねた。

『いろいろな名前があがったんだよ。例えば二年一組田中歌耶かや、二年四組の坂江和観かずみ、一年三組萩野優奈ゆうな、一年六組西崎しずかとかな。でも最も有力な女は二年二組谷岡侑子だろうって』

「谷岡……侑子……」

 その名に龍一はまさかと思った。その名に聞き覚えがあり、全てに合点がいく。

『知り合いか?だったらやっぱりお前がたぶらかしたというのもあながち間違っていないのかもしれない。だが、所詮すべては噂だけどな』

「その谷岡さんって人がどんな顔かわかるか?」

 龍一は脈打つ鼓動が早まるのを感じていた。

『いいや。調べて上がったのはすべて名前だったし、そこまで俺は野暮じゃない』

「例の画像を覚えているか?コーチが脅迫したという女の」

『それはもう。あんなエロいもの……ってまさか』

「そうだよ。俺は前日に谷岡さんと話をした。彼女が写真の女性だと思ったからだ」

 龍一は話しながら彼女のことを思い出していた。ギャルっぽい風貌をした彼女はひたすらに彼氏への不満を愚痴っていた。彼氏と言うのが内田聖杜だということは十分に考えられる。龍一のことをよく思っていない内田の耳に彼女から龍一のことが伝われば不快に思うのかもしれない。だとしても一方的に殴られるほどのことをしたとは到底思えない。

『マジかよ。それってある意味繋がらないか?』

「どういう意味?」

『画像はサッカー部のコーチ堺大機のデータから見つかり、その相手は同じサッカー部の内田聖杜の彼女谷岡侑子だった。暴行事件に対処したのは堺だとも聞いている。そして暴行の加害者、内田はお咎めなしときたものだ』

「つまりコーチは事件の元凶が自分であることを知り、先輩を見逃したと?」

『どうだろうな。せめて内田から直接事情を聴かないことには確定はできないだろう。まずはその線で調べてみる必要がありそうだ。じゃあ、学校で』と罫太は素早く通話を切った。

 龍一はスマホを片手に抱えたまま固まっていた。事件の一端がようやく目の前に姿を現せたのだ。

 感慨に浸っているとドアノブの開く音が聞こえた。振り返るとそこには母が立っていた。

「コーチが事件の元凶ってどういうこと?」

 ドアの向こうで盗み聞きしていたに違いない。龍一はとっさに返す言葉が浮かばず黙っていた。

「あんた、サッカーを辞めたのは本当なのね。サッカーを突然辞めたこととコーチが元凶だってことに何か関係でもあるんでしょう?」

「わからない。俺だってどうして辞めなければならなかったかわかんないんだよ」と龍一は背を向けたまま言った。どうしても顔を見せたくなかったのだ。母は現役の刑事、表情から何事かを勘ぐられるに違いないのだ。

「今回の事件はただの暴力事件じゃないんでしょう?私はね、あんたが不良たちに絡まれてケガをしたなんて信じていなかったんだよ。龍一が一方的に暴力を受けたのに、学校側は他に大した説明もしていないんだから。本当は何があったの?誰から暴力を受けたの?」

 龍一は振り返った。見れば母は涙ぐんでいた。突然学校から息子がケガをして病院に運ばれたなどという連絡があれば心配しない親はいない。考えてみれば母は病院で一晩過ごしたに違いない。病室に連結した椅子には毛布がかかっていた。

 だが龍一は頑なだった。

「母さん。ダメなんだ。どうしても今は言えないんだ。事情があって正確なことがわからない内は……。それに自分で確かめないことには気持ちにケリがつかない気がするんだ」

 その事情と言うのはハッキングの件である。罫太からきつく口止めされていることもそうだが、証拠の信憑性と言うのが気になっているのだ。それに仮定のうちに余計な疑いを広めるのも龍一の意に反することだった。

「わかったよ。ひとまずは自分で解決するんだね」

 母の物わかりの良さに感謝して、龍一は大きく頷いた。

「だけどね、最後には何があったか大人に報告すること。あんたはまだ私の半分も生きていないんだ。自分の見解だけが正しいと意固地に思わないこと。わかったね」

「もちろん。もしかしたら最後は母さんにお願いすることになるかもしれない」

「それで良し」と母は両手を腰に当てて豪快に頷いた。

 龍一はそれでこそ母だと思った。おそらくそんな母の姿は家族にだけ見せるものだろう。母の変わらない優しさが頼もしかった。

「さあ、ご飯よ。冴紀もほら」と母は隣の部屋に声をかけた。

「快気祝い?」と冗談めかして妹が顔を覗かせた。

「エビフライ」

「快気祝いにエビフライ……まあいいや」と龍一は持ったままだった携帯電話をまたベッドに放り投げた。事件のことはなんとかなる。根拠のない自信が込み上げてくる。

「まあいいやって何よ」と返す母。それを龍一は妹と二人で笑い合った。

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