07 黄色の衝撃

 昼食は龍一特性のたらこパスタだった。パスタの中でも飛びぬけて自身のある手料理だった。自分の手料理を彩原水奈に振舞う日があるとは思いがけなかった。合間合間に料理をしてきたことをこれほど誇りに持ったことはない。

「美味しい」と水奈は口元に手を当てて驚いたように喜んでくれた。

 褒められて鼻が高い。

 妹は「上出来だね」と言ったきり黙々と食べていた。

「正直、アタシ料理してこなかったから、女子力問われそう」

「彩原さんだっけ?」と冴紀がツンケンした言い方で彼女を呼んだ。

 小姑っぷりをすでに見せつけようとでもいうのだろうかと龍一は気が気でなく見ていられなかった。

「料理は得意だって嘘でも言わない辺りはグッドよ」と冴紀は謎に親指を立てた。

「でも……妹ちゃんお料理得意そうだし」

「ええ、見抜く。わかっちゃうもん。でもよかった。兄さんの彼女がこんなに素敵な人で。兄ちゃんのタイプってもっぱらギャル専だからさ。ド派手な女連れてくるんじゃないかってお母さんと心配していたんだよ」

「母さんと……」

 龍一の頭は真っ白になった。なぜ妹は自分のフェチズムを知っているのだ。それに母と一緒に心配していたということは少なくともそのことを知っているということではないか?一度だけ買って隠してあった雑誌のことがばれたに違いない。

 余計な失言で兄の威厳を貶めるとは、我が妹ながら見事だ。急に恥ずかしくなり頭を抱えた。

「まずいこと言っちゃった……」とその後妹は黙々とパスタを食べ終えると食器を流しに置き、自分の部屋に閉じこもった。

「式澤君」

 気が付けば体を揺する水奈は頬を赤らめていた。これはまた違った気まずさだった。

「私は気にしないよ。食べちゃって勉強しよう」

 何を気にするのだろうかと、突き詰めればきりがないが彼女の優しさだけは伝わった。

 食事を終えると、食器洗いは水奈が率先して行ってくれた。

「今度料理教えて」なんて提案され、今度という言葉にえらく感動を受けた。そういえば自分は彼女に気持ちを伝えたのだ。そう思うと改めて恥ずかしさが込み上げてくる。

 勉強会は思った以上に身に入らなかった。集中ができないのだ。

 龍一は世にある勉強会イベントというのは嘘だと思った。勉強会のおかげで成績が上がるなんてことは絶対にない。つい相手のことを見てはドキドキしてしまい思考が回らないのだ。ただただ、時間を浪費していくだけだった。

「あのことなんだけど」と突然水奈が話を切り出した。

 彼女のことばかり見ているから注意を受けたのだと勘違いしてしまう。

「チームの事、何か思いついた?ゲームの内容とかキャラクターコンセプト、チーム名のことだけど」

「ああ、そのことか。一応考えてみたよ」

 龍一は立ち上がって机の棚からクリアファイルを抜き出した。いつものように無地のルーズリーフにアイディアを書き並べたものだった。

「そういえば式澤君ってサッカー部だったんだよね」

 水奈は壁にかかっていたスパイク靴や部屋の角に挟まったままのサッカーボールを見て言った。あるいは壁の児玉選手のポスターを見て思ったのかもしれない。

「去年まではね。部活でいろいろあったから仕方なく辞めちゃったよ」

 未練はなかったはずが、口にするとやはり辛いものがある。やめてしまったのだから、スパイクだってボールだってもう使うことはないはずだが、結局捨てられずにこうして部屋にある。

「そうなんだ……。龍一君の走っているところ格好良かっただろうなあ~」

「え?今なんて?」

 気のせいだろうか、一瞬ときめいた。

「走っているところ見たかったなあって思って……って走る姿ぐらいいつも見ているか」と水奈はいつものように笑顔でおどけてみせた。

 そのことを指摘したかったわけではないがあえて聞き返すことでもない。龍一はメモをもって床に座り直した。

「じゃあ、キャラクターコンセプトなんだけど、やっぱり中世のヨーロッパ風が分かりやすいと思ったよ。このコンセプトならわかりやすいと思ったんだ」

 龍一は手書きのメモを読んでみた。

 ・『四神霊獣棋』を活かしたシステム。

 ・属性はそれぞれ鳳凰・朱雀・玄武・白虎に別れ、同属性でキャラクターのデータを受けとることができる。

 ・別属性の場合は対戦となり、勝った場合、相手のメインキャラクターのデータを手に入れることができる。もし、自分と同じメインキャラクターだった場合、強化できる。

 ・シーズンごとに属性同士が競い合う。4つに分かれているが2つに分かれる期間を作ってもいいかもしれない。

 ・キャラクターは中世ヨーロッパが妥当。駒はそれぞれ王将(キング)、金(皇子)、銀(皇女)、桂馬(騎馬兵)、香車(弓兵)、飛車(大将)、角行(聖職者)、成金(貴族)と将棋の駒をベースに起用。

 そのほかにオリジナルの駒を作成。クイーン、参謀、女魔術師、槍兵、アサシン、道化師、ネクロマンサー、獣使い、踊り子、など様々な種類を追加できれば遊びを広げられるだろう。

「一応こんな感じかな」

 一通り読み上げた龍一は水奈の表情を確かめた。自分でもわかることだが、意外と高度なことを要求している。これだけのキャラクターを作成することになるのは彼女なのだ。

「うん。インスピレーションが湧いてきた。すごいよ。これ。面白そうだね。楽しみ」

 水奈は興奮したように前のめりになっていた。

「でも結構大変じゃない?」

「そんなことないよ。一日二人ぐらいは描けるよ。だってほら、今だって」と言うと彼女はカバンからスケッチブックを取り出し、手元のシャープペンシルをスラスラと走らせているのだ。

 ものの5分ほどで水奈はスケッチブックを差し出した。そこには王様を思わせるキャラクターが描き上がっていたのだ。龍一は圧巻たる思いでその絵をじっくりと眺めていた。彩原水奈という女の子の光る才能に鳥肌が立ったままだ。

「あんまり見つめられると恥ずかしいよ」

「いや、最高だ。いつまでも眺めていたい」

「でも……そんなに真剣に見られたことないから……あんまり見られると私……どうにかなっちゃいそう。そんなに褒めるなんて……」と恥ずかしさのあまりに彼女は自ら差し出したはずのスケッチブックをつかんだ。引っ込めようと必死に抵抗して見せた。

 その姿が可愛くて仕方なく龍一はわざとスケッチブックを手渡そうとしない。

「即興なのに誰が見てもきれいな身体付きじゃないか。ほら、だってこれだよ。艶感は褒めずにはいられない。王様はここにいる。逞しくて誇れる姿が伝わるだろう?」

「改めて言わないでよ。照れるじゃない」

 水奈は必死に奪い返そうとした。

「水奈、君は天才だよ。疑った僕が間違っていた」とあまりやるのも可愛そうな気がして龍一はスケッチブックを返した。

 その時部屋の入口の方から崩れるような物音が聞こえた。それは妹だった。彼女は顔を赤らめ何事もなかったように部屋に戻っていった。

 その様子に二人は疑問の色を浮かべ顔を見合わせた。


「式澤」とお昼の休み時間に学食に向かっているとき背後から声を掛けられた。振り返ると葉金罫太がスマホを片手に壁に寄りかかっていた。

「お前もお昼か?」

「まあ、そうだが、あれどうなった?」

「苦労したよ。ちょっと待て。財布に入っている」

「立ち話もなんだ、飯でも食べながらにしよう」

 もたもたしていたから食堂はすでに長い列をなしていた。

 二人は顔を突き合わせテーブルを囲んだ。春はもうすぐなのだが、暖房がまだ恋しくなる季節である。二人が座った席は空調の吹き出し口から距離があるからだろうか寒いのだ。

「それじゃあ、これ」と龍一は昼食に手を付ける前に頼まれていたメモリーカードを罫太に渡した。

 罫太はそれを手に取るとテーブルの上に置いた。そこからさらに小さなチップを抜き出した。そしてそのチップを自らスマホに差し込んだ。

「これでわかるんだよな。セキュリティーホールというものが」

「だといいが、わかっているな、これは……」

 言い淀む罫太に龍一は「犯罪行為になるんだろ」と囁いた。

「それで、何かわかりそうか?」

 龍一は罫太のスマホ画面を覗き込もうとしたが光の加減で反射し、何を表示しているのか一切がわからない。

「そろそろわかるだろうさ。それより少しは自分で調べてみようと思ったか?こっちの当てが外れることだってあるんだ」

 罫太はスマホ画面を見続けながら唐揚げをつついた。

「もちろん。探りは入れたよ。でも妙に警戒されていて誰も話そうとはしないんだ」

「相当な圧力がかかっているわけか……。まるで組織ぐるみの隠ぺいじゃないか?やはり、圧力をかけるだけの力がある人物となるとコーチ堺大機が怪しいな」

 こんな大衆の中では誰から聞かれているかわからない。龍一は気が気ではなく周囲に警戒を向けるのだが、罫太はスマホと昼食を交互に淡々としている。もはや動画を見ながら食事をしているようにしか見えない。

 食事をして五分後ようやく罫太は顔を見上げた。それは進展があったことを伝えるものだった。

「それで?」と龍一は声をかけた。

「うまくいった。これでコーチのデータにアクセスできる」と罫太は満足そうに言った。

「だから、中身は?」

「そう焦るな。向こうのデバイスがネット上に接続されているときにじゃないといけないし、スマホじゃあ受信が持たない。パソコンに切り替えないことには中身までは手が付けられない」

 少し残念な気もしたが少なくとも進展はあったようだ。龍一はひとまず事件のことは忘れ食事を続けた。

「まだ何かあるのか?」

「いやあ、別件だよ。今度スマホ専用ゲームに挑戦しようかと思って調べているんだ」

「へえ~。俺スマホゲームしないからわからないんだけど、何?面白いの?」

「ユーザの方じゃなくて、作る方だよ。何かアイディアないかと思って探っているんだ」

「作るの?ゲームを?」

 龍一は小さなショックを受けた。ゲームは遊ぶものとしか認識していなかったが、当然ながら製作者がいることはわかっている。だが、自分と同じ年ですでにゲームの製作を試みる者がいるということが驚愕的だった。

「今はまだ形だけだよ。初期のゲーム並みに単純な物だけど」と罫太はスマホを操作し画面を見せつけた。

 画面上は中央にTの字を逆にしたような図、それに一つの黄色い球が右側の隅にある。一見したところにだけではそれが何なのかまったくわからない。白画面に二つの図形。シンプルであり、それ以上の装飾は何もない。

「俺が作ったんだ」と若干照れたように罫太は言った。

 これがすごいものなのかもしれないが、やっぱり龍一にはわからない。もしかしたら画面が逆さまだったり、見る角度が違ったりするのではないかと思い、スマホを別の位置から見てみようと腰を上げてみた。

「このボールに触ってみて」と罫太は黄色い球を指した。

「これボール?」

「どこからどう見てもボールだろう?まさかこれがわかっていないのか?」

 やはりというべきか彼にはそれが何なのか伝わっていると勘違いしていたのだった。

 龍一は正直に頷いた。この図形をどう解釈するかというのは、もはや心理学の域である。

「これは世界最初のテレビゲーム。『二人でテニスを』だよ。試しに作ってみたんだ」

「ああ、なるほどテニスか」と言われて納得だった。Tの字の逆さはテニスコート。そこに黄色いボールが浮いているのだ。

「ウィリアム博士が考案したテレビゲームの先駆け的作品だよ」と罫太は誇らしげに画面を見せた。

「このボールを触ればいいんだな」と龍一は早速黄色い球にタッチした。

 タッチを認識した画面上の球はゆっくりと弧を描き左側のコートへ渡り、しっかりと地面を模した線に当たると跳ね返り画面の外へと消えて行った。

「な、凄いだろ」

 何がすごいかと具体的に聞かれえても多分答えられないだろう。だがこれをこの男が自ら作ったというのだから凄いに違いない。

 画面上の黄色い球が左端に現れていた。その球に触れてみると、ボールは最初に見たように同じく弧を描き右側のコートにたどり着き跳ね返る。そして右端に消えるのだ。

「打ち返さないと。ラリーは続かない」と罫太はニヤケ顔を浮かべて指摘した。

 右からは打ち出したボールが左のコートにたどり着くとみるとタイミングよく球に触れた。すると罫太が指摘したように球は打ち返されたように右のコートへ向かうのだ。

 試しに跳ね返る前にタッチしてみると、球の軌道が変わり落ちる位置がずれた。

「結構単純なゲームでもたくさんのコードを組み込んでいるから大変だったよ」

 確かに単純で球の動きも単調だったが貶すようなことは何もない。龍一は単純に葉金罫太という男を凄いと思った。

「こんなゲームが作れるんだったら配信したらいいのに」

「権利の問題があるから無理だよ。それにゲームに肥えたユーザにはつまらないと思う。だから新しいアイディアを探しているってわけだ」

「それで、何か見つかった?」

「全く。生みの苦労とはまさにこのことだね」と罫太は椅子の背もたれに寄りかかりうなだれた。彼も彼なりに苦労しているようだ。

 いつしかお昼休みは終わり、二人は放課後に落ち合うことを約束した。メモリーカードに関して危ない橋を渡ったのだ、収穫を期待せずにはいられないというものだ。

 そして放課後、龍一は初めてコンピュータ室にやってきた。この学校にこの教室があるということも知らなかった。入った瞬間にコンピュータの独特の匂いが鼻を刺激した。中の様子はホワイトボードのある正面から机が縦四列に並んでおり、それぞれの机にパソコンが備え付けられている。何人かの生徒らが各自にスペースを確保し自主的に使用していた。そんな中で罫太は正面側の窓側に座っていた。

 罫太は備え付けのパソコンには触れず、代わりに初対面の時に使っていたノートパソコンを開いて操作していた。

 ゆっくり歩いたからだろう、絨毯が足音をかき消し、背後に近づくも罫太は龍一の気配に気が付いていない。

「何か見つかったか?」と声をかけると罫太は慌ててその画面を閉じた。相手が隆太とわかり、キャスター付きの椅子を横にずらし、画面を開いて見せた。

「何かあったんだな」と龍一は横の椅子に座って画面を見た。

「思っていた以上にマズイものを見つけたかもしれない」と言って罫太は画面上にウィンドを開くとマウスポイントでそれを示した。

『この画像がばら撒かれたくなかったら、昨晩のことは絶対に口外するなよ。彼から失望され、家族から白い目で見られるだろう。悪夢を見るのはお前だけだ』

 メールの文面は脅迫に違いない。文面の終わりには『2013/12/08』という日付で締めくくられていた。

「削除されたメールを拾い上げてみたんだが、画像はもっと衝撃的なものだった」とクリックすると生々しい女性の裸姿の画像だった。

「おい、こんなもの学校で広げるな」と龍一はディスプレイを叩き閉じた。

「悪い。悪い」と言いつつ罫太は再びディスプレイを広げて画像を画面から消した。

「メールはヤバイものだってことはわかったけど、試合と何か関係があるのかよ?」

「さあ、わからない。だが堺大機という男を知る一つの指標にはなるだろう?コーチがこんな男だって知らなかっただろう?」

 今更コーチの本性を知ったところで失望の念など抱かない。もしこれが大会前に知れたことだとしたら確実にコーチを白い目で見ていたことだろう。

「相手の女が誰かわかるか?」

「送信先のメールアドレスは残っているけど、こちらから連絡を入れるわけにもいかないだろうし、画像を見ればある程度の顔つきはわかるだろうけど、この写真じゃあ」とまたしても写真を画像に表示させた。

 なまめかしい女性の裸体と歪んだ表情。変な気を起こしそうだった。

「やめろ。この人は被害者なんだぞ」

「だからこそ相手がだれかなんて突き止めるようなことはできない。このメールの件はこれ以上探ることはできないということになる」

「そうか……」

 龍一は腕を組んだ。メールの脅迫文イコール試合の謎の解明と単純にはいかない。女性には気の毒だが不正に手に入れた情報を公にするわけにはいかない。目をつぶっているしかないのだろうか。煮え切らないが仕方のないこととして胸の内にとどめることとした。

「だが、この堺という男はとんでもない悪党だな。見てみろ」と罫太は画面を指で示した。ファイルに詰め込まれたデータはすべて写真だった。

「全部違う女の写真だ。それもきっとメールで脅迫したものだろうさ。こいつ何度も同じことを繰り返している常習犯に違いない」

 調査の目的とはだいぶかけ離れるが龍一にはある思いが宿る。

「なあ、このままコーチを放っておいていいのだろうか?」

「もちろん、俺も男だ。こんなゲス野郎を野放しにはしたくない。だが忘れるな。俺らがこのことを告発したところでこれは不正アクセスに当たる。俺たちが罪を問われるだけならまだしも、画像やメールの根拠も疑われて犯行自体がうやむやなりかねない」

「だけどよ……」

「俺たちがやっているのは監視程度だ。言ってしまえば覗き見ているだけ、覗き魔が見たものを警察が本気で信用すると思うか?」

「それはわからない。だが、警察の話なら母ちゃんに訊いてみるか」

「母親は警察官か?なおさら辞めておけ、迷惑をこうむるのは俺やお前だけじゃない」

 頭では理解しているが、感情ではなんとも煮え切らない。犯罪被害者が浮かばれない。龍一は立ち上がり罫太に背を向けた。

「一日考えさせてくれ」と背後で忠告する罫太の声を一切聞かずに教室を出て行った。

 一日考えたところで結果は変わらないかもしれない。罪を見過ごして良いものだろうかと考えてしまう。

 龍一は被害に遭った女性のことを想って歩いていたのだが、あのなまめかしい裸体が頭にちらついてしまう。自分には映像記憶能力が備わっているとは思えないが、あの裸体に関しては頭にこびりついたように鮮明だった。それを忘れようと水飲み場で顔を洗うことにした。こんな時期に冷や水を浴びるのは自分ぐらいだろう。

 さっぱりしたがハンカチなどという準備はない。無謀にも冷水に顔を突っ込むだけ突っ込んだだけだった。仕方なく手で水滴を軽く拭き取り、濡れてしまったブレザーは肩に掛けた。

 頭の中では堺大機コーチのことでいっぱいになった。あの男が何者かわからないけど、女性を襲い口止めに脅迫するところを想像すると胸糞が悪い。二度と奴の顔を見れないだろう。などと考えていると偶然にもサッカー部員の姿が見えた。三人の姿から見るとあれは井上撤郎と速水佐敏で違いない。さらにエースの内田聖杜も一緒だった。

 龍一は身をこわばらせた。すれ違うだけで何か文句でも言われかねない。もしかしたら腹や頭を殴られかねない。そんな暴力的なことは一度もなかったが、それほどに今の龍一にとっては恐るべき存在だった。確実に嫌な気分になるのは予想が付く。

 龍一は空いていた教室にスッと逃げ込んだ。そして不自然に思われないようにゆっくりと戸を閉めた。戸の前で呼吸を整え、彼らが立ち去るのを待つことにした。

「あの、何か用ですか?」

「え?ああ……失礼しました」

 教室の奥で女性の声が聞こえたので龍一は慌てて取っ手に手をかけた。今出て行ったらちょうど鉢合わせしてしまう。だがこのまま居座って変な人間だと思われかねない。

「ゆっくりして行っていいですよ」と彼女は何か事情を感じたのか、優しく声をかけてきた。だが、龍一の方からは彼女の姿は見えない。それは大きな三脚とキャンバスで隠れているからだ。気が付けばそこは美術室だった。選考科目に音楽を選んだ龍一には無縁の教室だった。誰かはわからないが一人、キャンバスに向かっている。

「すみません。すぐ出て行きますから」と外の様子を伺いながらゆっくりと戸を引いた。

「そうですか……」と返答があった。その声が龍一にはなぜかさみしそうに聞こえた。

「また来てもいいですか?」と社交辞令的に聞いてみた。

 龍一の方からは相手の感情どころか顔すら見えない。探っているうちにどんな女性が絵を描いているのか気になってきた。

「もちろん。見に来て。入部希望者は大歓迎です」とついに彼女がキャンバスの向こうから顔を覗かせた。

 綺麗な栗色の髪はショートヘア、目が大きくて唇が薄ピンク、教室の気温が少し低かったからか鼻と頬が少し赤く見えた。その子の姿は何度か見かけたことがあった。学年の期末テストも上位に名前が連なっているし、何より明るく可愛いとして男たちの中でも知名度が高かったはずだ。

「すみません、入部とかじゃないんです。そもそも美術に関して疎くて」

「でも、綺麗な風景は好きでしょう?」

「ええ、まあ。見晴らしの良いきれいな眺めとかなら」

「じゃあ、大丈夫。ちょっと見て感想を聞かせてほしいんだけど」と彼女は手をこまねいた。三脚のキャンバスを見てほしいというのだ。

「でも、俺にわかるかな?」と拒絶ながらもゆっくり歩いた。

「大丈夫、率直な感想でいいから」と彼女は龍一の腕をつかんで正面に立たせた。

 龍一の目の前にはきれいな夜景が描かれていた。どこからかの展望風景にも見え、目下に広がる街灯、民家から零れる光の玉、車のランプがきれいに街並みをかたどっていた。

「綺麗」とだけ龍一はつぶやいた。見とれるほどに隅から隅まで眺め続けることができる。

 いつの間にか彼女が隣に立って一緒に眺めていた。二人で夜景を見下ろしている錯覚さえ抱ける。そう思うと、急に彼女の存在が気になってしまう。これが彩原水奈に恋した瞬間だった。

「本当?綺麗かな?」と彼女は腕をつかんで確かめるのだ。

 龍一は頷いた。こんな綺麗な景色をいつか彼女と臨むことが出来たらどれほど幸せだろうかと思ってしまう。

「あ、ごめんなさい」

 見入っているところを水奈がいきなり謝ってきた。何事かと思って確かめてみると、予想しなかった惨事が起きていた。つかまれたワイシャツの腕にべっとりと黄色い染料が付いていたのだ。それは彼女が指に付けていたものに違いない。犯人は明らかに彼女だった。

「どうしよう。弁償しないと」と水奈は焦っていた。

 上着のブレザーを脱いでいたのが幸いだった。被害はワイシャツだけで済んだ。

「いいよ、いいよ。これぐらいなら」

「でも、汚しちゃった。脱いでください」と水奈は詰め寄った。罪悪感からか瞳がうるんでいる。

 ずるいよと思いつつ、やけに近い距離感に龍一は体を引いていた。

「さあ、早く。今すぐに拭き取れば落ちるかもしれない」と身を引いていた龍一に水奈は詰めるように迫る。その距離感はますます狭まっていた。

 龍一はプイッとそっぽを向いた。意識的に彼女の顔を見つめていられない。これ以上近くで見ていたらあらぬことを想像しかねない。それはつい数分前に罫太に見せられた女体の姿。顔をぐちゃぐちゃにして泣いた顔が思い浮かんでしまう。

 龍一の目線は教室の入り口に向いていた。さっき手をかけた戸は開いていた。

 そっぽを向いた時に龍一は見てしまった。一人の女子生徒が通り過ぎて行ったのだ。変な胸騒ぎに鼓動が早まった。それに下腹部がやけに熱い。

 彼女の後を追った。

「手遅れになっちゃうよ」と声をかける水奈を残し、龍一は急いだ。一目見た彼女を見逃すわけにはいかない。ワイシャツのことなど忘れ、ひたすらに後ろ姿を追った。

 ドタドタと足音を立てたものだから、その女生徒は警戒し後ろを振り返った。

 茶色い髪が印象的で、目元はバッチリメイク。細長い足を大胆に見せつけるかのようなミニスカートと対比するかのような厚手のセーター。

 彼女は、何、と訊かんばかりに鋭い目を向けてきた。

 かける言葉など用意してこなかった龍一はドギマギとして黙っていた。まさか、堺大機から脅迫を受けましたか、と聞くわけにもいかない。だから龍一は彼女の顔をじっと見つめてしまっていた。直接顔と写真を見比べるわけにはいかないが、写真の女性が彼女であることを直感的に感じ取った。

 すぐに彼女はくるりと振り返るとまた歩き出した。部室棟に向かう足取りのようだ。

「あの……」と無謀にも声をかけてしまった。

 声掛けで自分に用があることを彼女は意識した。女生徒はもう一度くるりと振り返った。最初の三倍の不審感を表情に滲ませていた。

「お名前を教えてください」

 まるでナンパだ。こんなセリフ生まれて一度も言ったことはない。

「谷岡だけど何?」

 彼女は意外にも名乗ってくれた。だが、それでも重たい空気は変わらない。どうにかして何かを聞き出したい。そう思った龍一は遠からぬ質問をしてみた。

「何か困ってることありませんか?」

「別に。他人に言うような悩みはないけど」

 ごもっともだと思った。自分が占い師や親友でもない限り悩みは打ち明けないだろう。それに思いついたのが例の件だとしても、そう気安く見知らぬ男に話せる内容ではない。

「去年の十二月」と龍一は思い切ってヒントだけを口にした。

「え?」と明らかに谷岡は何かを見抜かれたように動揺していた。

「辛いことがあったはず。他人を信じられなくなるような辛い出来事が……」

 龍一の言葉に谷岡は目を見開いていた。袖口を合わせて見えない手をモジモジさせていた。気のせいか両脚をこすり合わせているようにもみえる。

「俺が力になります。放っておけないですから」

 核心に触れないように何とか言葉を選んだのだが、それが良くなかった。

「あんた、霊能力者?まさか警告に来たの?」と谷岡が尋ねてきた。

 何と答えるべきか迷った。場合によっては霊能力でわかったことだと設定付けた方がスムーズに進むかもしれない。だからと言って霊能力者を演じきれる自信は全くない。

「実はね……」と彼女は深刻そうな顔を見せた。

 こんな廊下のど真ん中で話すことかと思いながら、谷岡の声に耳を貸した。

「実はそのころちょうど彼氏と喧嘩したんだよね」

 的外れな答えに龍一は肩透かしを食らった。今度は龍一の方が動揺していた。

「マジで信じられないんだけど、何か急に前触れもなく気まずくなってさ、彼が連絡をくれなくなったんだよね。それでぶち切れちゃって、ふざけるなってこっちも感情的になってさ。それではあ、ってなるじゃん。だからもうこんな関係辞めようなんて切り出したら彼が謝ってくるし、私もそれは変かなって思って」

 谷岡の恋愛の悩みはその後三分は続いた。

 恋愛の悩みが先に来るぐらいだから、堺大機の件はそれほど根には持っていないのかもしれない。もしかしたら写真の女性はこの谷岡という恋愛脳の女生徒ではないのだろう。当てが外れたと思いながら龍一は真剣に話を聞いている振りを演じ続けた。

「マジで話せてすっきりした。すごい力だね」と谷岡が勝手に満足そう言った。

「そうですか。では、彼氏と仲良く」

 結局結論はこれに尽きる。龍一はそうとだけ残すと振り返り彼女に背を向けた。

「待ってよ。私と同じように悩んでいる子がいるんだよね。あんたのこと紹介したいんだけど」と谷岡が声をかけてきた。彼女は勝手に龍一を霊能力者だと信じて疑っていなかった。

 変な噂を流されては困る。頭の中で何とか理由を繕った。

「ごめんなさい。今回はたまたまあなただけに浮かんだことだから、わかったことなんです。だから他の人には内緒にしてほしいのですけど」とそれらしい理由を並べてみた。

「そうか、残念」

 即興的に出てきた言葉は一応上出来だろう。見た目とは裏腹に彼女は純粋のようだ。一応理解を示してくれた。

「私、二年二組の谷岡侑子ゆうこです。また何かあったら教えてください」と明らかに最初の印象に比べて目が輝いており、見る目が違うのだ。

「ええ、まあ」と龍一はそれとなく返答した。小さな後ろめたさを感じながら龍一は教室に戻った。美術室を横目で気にしつつも見てみぬふりをした。ワイシャツに付いた黄色の染料はすでに乾いていた。洗い落とすのは困難そうだということを頭の片隅に、堺大機が保存していた写真のことで頭がいっぱいだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る