05 ミルクティーといはけなし

 気が付けばすでにカーテンの隙間から日差しが照り付けていた。果たしてどれほど眠れただろうか。

 龍一は枕もとのデジタル時計に手をかけた。カーテンの隙間から覗く明かりを頼りに時刻を確認した。

「四時半か~」

 サッカーの朝練をしていた時でさえこれほど早い起床時間はない。いつもならもうひと眠りどころか、十時ぐらいまで眠っていられるのに全くと言っていいほどに寝つきが悪い。熱帯夜ということも寝つきの悪い要因の一つだろうが、最大の理由は考えるまでもない。

 カレンダーには密かに小さな赤丸が付いている。いつも楽しみな土曜日だが、これほどまでに心待ちにした日は人生で一度もないかもしれない。

 明日はどんな話をしようか、お昼は何がいいか、そもそも約束を守ってくれるだろうかとそんなことばかりが頭の中を渦巻き、すでに四時半。試しに目をつぶってもうひと眠りとも思ったのだが、目がさえるどころか、心臓の鼓動に眠っているどころではない。

 龍一は思い切って起き上がることにした。

 カーテンを開け放ち、外の空気を中へと誘い入れた。風の勢いで机に置いて開いたままの教科書がパラパラと音を立ててめくられる。

 早朝の空気は冷ややかで火照った体に心地よい。特に高鳴る心拍に冷静さを取り戻す、ということにはならなかった。どうしても頭が彩原水奈でいっぱいなのだ。

 落ち着け、ただの勉強会。学校ですることと大して違いはないじゃないか、と自分に言い聞かせ龍一は部屋を出た。

 これほど早い朝だ。母すらまだ眠っているだろう。リビングは昨夜閉め切ったカーテンのままだった。それを気持ちの良い音で開け放ち部屋に朝を呼び寄せた。

 そして洗面台に向かい鏡をのぞいた。

 そこに現れた自分の顔に龍一は焦ってしまった。目の下にひどいクマがあるではないか。今までにないほどに際立って見える。もはやパンダがそこにいる。目をじっと閉じていたはずなのに目が疲れているのが不思議だった。

 ひとまず顔を洗い、人生最大と言っていいほどの大きなミスをした。シェービングクリームだと思っていたチューブは歯磨き粉だった。それを顔に塗りたくっていたのだ。

 逆の事故なら聞いたことはあっても、こんなマヌケは自分以外いないだろう。そう思うと無性に笑えて来た。

 顔を洗ったおかげで大分ましになった気がした。すると今度は変な寝癖が気になった。眠っていないはずの寝ぐせを水で溶かしてみても今度は全体のバランスが崩れてしまった。

 試行錯誤に夢中になっているうちに忍び寄る刺客の存在に気が付かなかった。

「あんたこんな朝早くに何やってるの」

 龍一は思わず慌てた。不審そうに見ている母がすぐそこにいたのだ。

「眠れなかったんだよ」

「どうして?……ああ、わかった」

「刑事の勘とか言うなよな」タオルで顔を拭きながら悪態をついた。

「違うよ。これは女の勘、もっと言えば母親の勘って奴。さては……」

「待て!頼むから息子をほっといてくれ。結華さん」

 言いかけの母に龍一は手のひらを向けた。そうでもしなければデリカシーなくすべてを客観的に指摘されない。時に母は意地悪だ。

「青年よ。顔を洗うだけじゃなくシャワーでも浴びな。男は清潔さが大事だからね」

 母の受け売りをそのまま受け取ることにした。まともに眠れていない体でも昨晩は汗がひどかったのはよく覚えている。


 待ち合わせ時間よりも三十分早くついてしまった。本日も最高気温が30度を上回る予報だそうだ。

 炎天下の元、外で待っていては日射病になりかねない。龍一は先に図書館の中で待つことにした。外の熱気と極端に涼やかな館内に生き返る気分だった。

 土曜日だからか館内は多くの利用者がすでに机を占拠していた。大勢の人がいるのに静寂という不思議な空気感に龍一はたじろいでしまった。

 どこかに空席はないかと歩いているといきなり腕をつかまれた。とっさにその手の主を見た龍一は不意打ちを食らった。

 水奈だった。彼女は照れたような笑みで龍一を見上げていた。

 あろうことか彼女の存在に気が付かなかった。水奈はすでに机に勉強道具を広げて自らのスペースを確保していたのだった。

 思わず声をあげてしまいそうだったが、そこをぐっとこらえて彼女に向かい合った。

 気づけば少しばかりお化粧をしているし、髪だって普段学校で見るような束ねたものではない。下ろした髪がサラサラになびいてキラキラに輝いて見えた。それに私服姿は何とも愛らしい。今日のためにおめかししてきてくれたに違いない。

「式澤君、出ようか」と耳元でつぶやいた。

 吹きかかる吐息と彼女の手を寄せるしぐさに龍一はドキドキしっぱなしだった。

 水奈の意図が分からないが龍一はとりあえず頷いた。片付け終えると二人は黙ったまま図書室を出た。忘れていた熱気が容赦なく二人を包み込んだ。

「あちぃ~」と龍一は二割ばかり大げさに表現した。

「ごめんね、式澤君。この中で会話するわけにもいかないからさあ」

「別にいいんだよ。図書館が良いって提案したのは俺だから。勉強するにも会話できないってことを忘れていたよ」

「実は私もなんだ」と両肩をすくめて苦笑いを浮かべた。

 水奈の仕草に龍一も笑って答えた。計画していた場所は失敗だったけど雰囲気は上々だ。

「式澤君、何できたの?」

「俺はバスだよ。たまに遅れるから早めに来たんだけど、彩原さんは?」

「私は地下鉄。久々のお出かけだから早めに出てきちゃった」

 その言葉に龍一の顔がほころんだ。

「でも、どうしようか?勉強会なのに場所がないね」

「さっき、着く前に思いついたんだけど、ここからそう遠くない穴場があるんだ。行く?」

「どこだろう?行こう」と水奈は楽しそうにしてくれた。

 二人は手をつなぐわけでも離れて歩くわけでもなく、一定の距離間で並んで歩いた。手をつなごうなどと急な展開など考えていない。

「彩原さん、もしかして行きたいところでもあった?」

 道すがら龍一は尋ねた。

「実はちょっとね……でも今日はいいよ。せっかくのテスト期間なんだから」

「俺は構わないよ。勉強ってなるとさ、きっとそんな息抜きの時間もなくなるだろうしさ。それに彩原さんがどんなところに行きたいか知りたいから」

 口を出た言葉に気恥ずかしさが込み上げてきた。これでは相手に興味があるということを間接的に伝えているようなものではないか。だから龍一は急いで訂正を付け加えた。

「俺らチームだしさ、メンバーのことは知りたいじゃないか」

「そう?いいの?」

「もちろん。テスト勉強は逃げないだろ」

 じゃあ、と案内された場所は画材店だった。龍一には未知の領域である。

 お店に入った瞬間にオイルの独特の匂いが立ち込めてきた。

「ここのお店はね、小学生の時から来ているのよ」

 店内を見渡せばまさに専門店といった趣だった。筆や額縁、専門書籍に色鉛筆やスケッチブックなど絵を描くことに特化した品揃えだった。絵を描くことに興味がない龍一であってもワクワクしてくる。

「おや、水奈ちゃん。いらっしゃい」

 お店のおじさんが声をかけてきた。そのおじさんは茶色いエプロンで白いひげを蓄えている。かけている老眼鏡は下がり、腰の後ろで手を組んでいた。まるで絵の妖精のようにひょっこりと二人の前に現れたようだった。

「こんにちは。源治郎さん」と水奈はそのおじさんを馴染みと言ったように挨拶を返したのだった。

「今日は彼氏を連れて来たのかな?」と龍一をじっくり見ながら言ったのだった。

「違いますよ~。そんな関係じゃあ……ねえ」

 水奈が慌てて同意を求めるものだから龍一は思わず口が滑ってしまった。

「そ、そうです。まだそんなんじゃあ……」

 意図などしていない。事故だった。おかげで気まずい雰囲気が二人の間に流れてしまった。

「わしも変なことを聞いてしまった。すまん、すまん。お詫びにお兄ちゃんには三割引きしてやろう」

「俺よりも彩原さんにしてあげてください」

「イヤだね~」と彼は言うと二人から離れて姿を消した。

 まさか、この申し立てを拒否されるとは思ってもいなかったから、龍一は呆気に取られていた。だが、すぐにおじさんの意図に気が付いた。

 隣で体をかがめてクレヨンを手に取って眺めている彼女が目についた。その姿が何とも可愛らしい。気のせいか顔がほのかに赤くなっていないだろうか。

「彩原さん、何を買いに来たの?」

「足りなくなった絵具を何色かと、柔らかい鉛筆かな」

「じゃあ、俺が買うよ。俺が買ったら安くしてくれるって、あのおじさん言っていたしさ」

「そうよね。それなら安くつきそう。じゃあ、お金は……」と水奈はカバンから財布を抜き取った。

「お金は後でいいよ。それより、お店の中見て歩きたいな」

「そう?じゃあ、一通り見て回ろうか」

 龍一の提案に水奈は嬉しそうにした。後ろに手を組んで歩きながら、龍一を案内して回る。お店の中でもカテゴリーがあり、その分け方は油絵、水彩画、硬質ペン、鉛筆、というものでその他にも版画、水墨画、切り絵、ちぎり絵と様々だった。そこで見つけた折り紙を龍一は思わず手を取って彼女に尋ねた。やはりこの店で買ったものだった。

「このお店ね、二階は個展ができるんだよ」と階段の前で彼女は教えてくれた。

「へ~。結構広いんだ」

「私もいつかここでなんて思ったりするのよ」と彼女は期待に胸を膨らませ語ってくれた。

 店のおじさんは約束通り龍一に三割引きの値段で売ってくれた。

 最後に彼はぼそっと龍一にしか聞こえない声で「がんばれよ」と言った。

 龍一は聞こえないふりをしてそそくさと出てきたのだった。

「じゃあ、お金」と言って財布を取り出した水奈に龍一は「プレゼント」と言って買った商品の紙袋を突き出したのだった。

「でも悪いよ」

「今日は俺の勉強に付き合ってもらっているんだ。これぐらいのお礼をしないとさ」

 思いがけない出費だったが、彼女にプレゼントできるなら苦ではない。むしろ幸せだった。

「でも……」とそれでも渋る水奈だった。

 龍一は改めてあることに気が付いた。一瞬ごとに彼女を好きになっていく。自分は紛れもなく彩原水奈に恋をしていたのだと。


 サッカー部を事実上の退部に追い込まれたとき、何が起きたかわかっていなかった。足は完治したが、激しい運動の合間には休憩を挟むように医師からの助言が加えられていた。

 復帰最初の練習は何食わぬ風を装い練習に参加した龍一だったが、周囲は明らかに様子がおかしいのだ。同級生はよそよそしく、先輩らは厳しく目を光らせている。コーチに至ってはまるで無視。

 その態度は明らかに例の試合から続いている空気感と一緒だった。

 練習にならないので休憩中に安村貫太に問い質した。前回と同様「もう来るなって言ったよな」と冷たい言い方だった。

 あれほど仲の良かったはずなのに安村からの態度はその微塵も残っていない。

 我先にサッカーコートへと戻ろうとする安村を龍一は捕まえた。周囲の目からも一色即発に見えたに違いない。慌てたようにして一人の同級生がコーチを呼びに出て行った。

 龍一は心得ていた。部活内で暴力沙汰を起こせば、喧嘩両成敗。暴力を振るった方も被害を受けた方も共に出場停止。レギュラーから外される決まりだった。現に殴り合いの喧嘩を起こして大会出場を逃した先輩を知っている。

 龍一は慌てて引き下がった。少しの行為も暴力を振るったと見受けられかねない。決めるのは被害者ではなく客観的な判断なのだ。

「大丈夫だ。ケガしてない」と安村はみんなに言って聞かせた。そうしないと自分まで出場停止を受けかねない。

「悪い。つまずいただけだ」と主張を装った。

 このことはなんとか不問で済んだ。だが、モヤモヤが消えたわけではない。

 その場に居続けるのが気持ち悪く思えてきて、あとからやってきたコーチに早退を申し出た。コーチは心配をする訳でもなかった。

 全ての練習道具を片付けて帰宅をしようと下駄箱に向かっている時だった。ノートパソコンを片手に歩き回る男を目にした。それが葉金罫太だった。

 異様な光景に見えた龍一は思わず彼を見てしまった。罫太は玄関を上履きのまま出ており、顔を上に向けて何かを見ているようだった。

 龍一も気になり彼の目線の先を確かめた。そこにあったのは防犯カメラだった。学校に侵入する不審者を監視するために備え付けられたものだろう。

「何か用か?」

 龍一が興味津々に見ている気配を察知したのだ。罫太は人を寄せ付けない言い方だった。

「いや、何しているのだろうかって気になって」

「ああ、これはカメラの装置に異常がないか調査してほしいって顧問が言うからやっているだけだ。それぐらい自分たちでやればいいものを」

「へ~、そんなことができるんだな。すごいな」

「まあ、このカメラは同じWi-Fiさえわかれば同期できるものだからだよ」

 罫太は最初の印象よりも話しやすい奴だと思った。細い眼鏡だから見ようによっては他人に厳しい冷徹な男のように見えたのだ。

「そのパソコンに映っているの?」

「まあ、スマホやタブレッド端末なんかでもできないことではないけど、データ容量を考えればやはりパソコンだね」

「じゃあ、俺のスマホでもできるわけだ」

「データをWi-Fi経由で受信するだけだから可能ではある。専用のコードを書き込めばできるだろうな」

「スゲー」と龍一は自分のスマホを握りしめていた。連絡手段と音楽再生機としてしか使ってこなかったから、この端末にそれほどの可能性があるということに感心していた。

「悪いけど、これで更衣室を覘くなどということはできないからな」

「考えがゲスだな。思いもしなかったよ」

 龍一のツッコミに罫太は驚いた顔をした。初対面の男に気安くツッコミを入れられたことに驚いたのだと思っていたが、まったく違うものだった。

「君たち運動部はこぞってそんな想像をするのだろう?それとも何か?君は男の方が好きだとか?」

「それは極めて偏見だ。確かにサッカーはモテたくて始めるスポーツで有名だけど、みんながみんなそうじゃない」

「誰もサッカーの話はしていない。君がサッカー部の所属かなんて外見からは想像がつかないだろう」

 言われてみればそうだ。龍一を知らない他人から見たらただ大きなスポーツバッグを掲げた男子高生にしか見えないだろう。『運動=サッカー』と迷いなく結びつけていた。

「ところでサッカー部はまだやっているようだが?」と玄関前を通り過ぎるゼッケンの一団が目に留まった。

 罫太の指摘は辛かった。自分は何をやっているんだろうかと自問自答に陥ってしまう。

「訳アリのようだな」

 気まずそうに罫太はパソコンに向かって作業を続けていた。龍一には彼が何を調査しているかまるでわからない。ただ黙々とキーボードを叩いて、画面に触れて作業に集中しているのだ。

 その罫太の姿に龍一はある考えが浮かんだ。

「なあ、過去の試合映像を探ることはできるか?」

「記録しているのならテープでもあるんじゃないか?」

「そうか、録画映像なら毎回撮っていたっけ。それを見返せばいいわけか」

「大丈夫か?それぐらい少し考えれば頭が回るだろう」

「と言うか調べようという考え自体が今思いついた。なあ、手伝ってくれるか」

 直感的に龍一は罫太を頼った。

「それは面白そうなことか?過去の映像を見つけるぐらい自分一人でできるはずだが」

「俺が思うに映像はもうないだろう」

 これもまた直感ではあったが、ある記憶に基づいた仮説だった。

 事件は明らかにあの試合の中であったことである。龍一がケガをし、同級生は口を塞ぎ、先輩らからは目の敵にされ、コーチは無視をする。あの日一体自分の身に何があったのかを知るすべは客観的証拠しかないはずだ。何が起こったかを知らなければ全容は把握できないだろう。

「まあ、いいだろう。もう一箇所回ったらおしまいだから」

「そうか、恩に着る」

 もう一箇所と言ったカメラの位置はちょうど部室棟の入り口付近だった。こんなところにカメラが設置されていたことに言われて初めて気が付いた。おちおちバカなことはできないだろう。

「マジであいつキモいよな。自分は被害者みたいな面でさ」

「ホントだよ。あいつが勝手なことをしたせいで俺らまで被害が及ぶのは勘弁だよな」

 聞いた声に龍一は体を硬直させた。その声は紛れもなく先輩二人組、井上撤郎と速水佐敏の会話だった。

「死んでって話だよ」

「でも死なれるとそれはそれで困る。死なれでもしたら次の大会は出場停止処分を食らうだろうな」

 正面から歩いて来るのに気が付いて龍一は焦ってトイレに籠った。会話の内容はどう考えても自分に向けられたものである。龍一は悔しさのあまり洗面所の前でふさぎ込んだ。通り過ぎていく二人の会話はいまだに続いていた。

 自分にどんな非があったのだろうか。震える足を抑えて立ち上がることも困難だった。そして妙にケガをした足が疼いた。

「おい、平気か?」と罫太が心配そうに背中に声をかけてきた。

 どうも顔向けできない。こんなところを初対面の男に見せるのは何とも情けない。龍一は顔を腕で拭い、蛇口をひねった。本当は思いっきり顔を洗いたがったが水を口に含ませることしかできない。

「思ったんだが今日は改めるべきじゃないか」

「いや、確認は早い方がいい。部室はすぐそこだ」

 何とか体裁を取り戻し、龍一は再びバッグを抱えてトイレを後にした。部室は突き当りを右に曲がった先の三番目にある。練習終了時刻にはまだ時間はあった。

「入って平気か?」と尋ねる罫太は自然と忍び足になっていた。

「さっきの先輩方が最後だろう。今頃は外でボールを蹴っている頃さ」と言いつつも本心では気が気でない。いつ彼ら部員が戻ってくるかもしれないのだ。

「ビデオテープはどこだ?」

「多分このあたりに……」とロッカーの上に手を伸ばした。いくつかある段ボールの内、右側から順に下ろして中を確かめた。備品や記録帳が出てくる中、ようやく撮影機材とともにいくつものテープが現れた。特に記録に残しておくべき試合以外は古いものから順に上書きして再利用される。期限は三年間と言ったところだと以前三年生の先輩から聞いたことがあった。

 龍一はその段ボールに触れた瞬間から、潜在的記憶が呼び掛けてくるような胸騒ぎを感じていた。そう、この段ボール箱こそが二週間前にコーチがガチャガチャと音を立てて漁っていた箱である。

 龍一は急いで中身の整理されたラベルを確かめた。最新のものは準々決勝戦の日付だろうと思ったが、一週間前にどこかの高校との練習試合の記録のようだった。それ以前のものとなると前大会予選の頃のものであった。

「どうだ?あったか?」と傍らで下ろした段ボールを片付ける罫太は尋ねてきた。

「いや、やっぱりない。本線の記録が一つもない」

「デジタルデータに残していないのか?」

「そんなことができるのはコーチだけだよ。このテープだって指導のために撮られたものなんだから」

「テープをまわしていなかったんじゃないか」

「それはないはず。予選まではしっかりあるのに忘れるなんて考えられない」

 更に思い起こせば、あの日は確かに三脚台に乗せたビデオカメラとスタンバイするコーチを見ていた。本戦に限って録画をし忘れるなどと言うことは考えにくい。

「すると、君の言う通り映像はないのだな」

 罫太はベンチに座ると足を組んで顎に拳を当てて考えるしぐさをした。

 龍一は段ボール箱を元のロッカーの上に戻し、探りを悟られないよう位置を調整する。

「つまるところコーチが何かを隠しているのか?」と罫太が質問した。

「わからない。コーチがっていうのもあるし、他の連中も隠し事をしているようなんだ」

「だが、録画映像に手を加えるのはコーチに限ったことなんだろう?」

「多分そうだ。俺を含めて部員は記録の管理に関して無関心だ」

「やはり、そのコーチを調べる必要がありそうだ。こういった記録が抜けていたり、改竄されたりすることはやましいことがあるからと相場で決まっている。それに君は被害者のようだし、コーチは責任者としてアカウンタビリティを果たすべきなのにそれを怠っている。コーチのセキュリティーホールを探るべきかもしれない」

「ごめん。何のことかさっぱり……」

「つまり……コーチの情報をハッキングする必要があるってことだ」


「何か素敵なところじゃない。でもいいのかな?利用しちゃってさ」

 周りを見渡すと同年代の者たちがチラホラと垣間見える。だが、決して多くの人で賑わっているわけではない。特にすぐわきの大きな窓からは表通りが一望できる。

「大丈夫だよ。近くのお店のイートインとして利用すれば施設の人も悪い顔をしないはずだよ」

 それは龍一の憶測にすぎないが、現に同じことをしている利用者ばかりだ。背広姿の会社員と思われる男性はパソコンに向かっているし、ママ友の集まりだったり、待ち合わせをしているのであろうスマホを気にする女性もいた。ただ仕切りというものが無いのでプライベート性はなく、人を選ぶスペースではあるがマナーを守ってさえいれば心地の良い空間であることは龍一も経験済みだった。

「あそこの席が空いているみたいだから、先に席を確保しておいてよ」

 龍一は窓から少し離れた席を指さした。

「いいけどどこ行くの?」

「あ~実はトイレ」

「ごめんなさい、気が付かなくて」

「謝らないでよ。すぐ戻るから」そう言って龍一はフロアーを降りて行った。トイレというのは口実だった。どうしても水奈に召し上がってほしいドリンクがあったのだ。

 Mサイズ紙コップを両手に持って元の屋内テラス席に急いだ。彼女を置き去りにしたくはなかったのだが、それはサプライズの弊害である。昨晩、眠れない中で考えたプランの一つだ。

 思わずにやける笑みを浮かべながら示した席を見た。だが、様子がおかしい。確かに水奈が座っているのだが、誰かが向かい側に座っていた。男は髪をワックスで遊ばせ、パンク風な皮のジャケット、それにチェーンが施されたデニムであり、いかにも柄が悪い。

 絡まれているのだ、と思った龍一は急いで席に向かった。手に握っていた紙コップに力が入りそうになりながらも足早に向かう。

 近づいてくる龍一に男は気が付いて睨みつけてきた。臆することはなく龍一もにらみ返した。サシでの勝負はサッカーで何度となく経験している。場合は違うが実態は同じもの。

「おい、水奈こいつ誰だよ」

 馴れ馴れしくも男は彼女を呼び捨てにした。

 そんな男に水奈は何も言わない。ただ黙ってうつむいているだけだった。

「お前こそ誰だ」となるべく声のトーンを落として返す。できることなら彼女の前で事を荒立てる気はないし、自分はそんな野蛮な男ではない。

「俺はこいつの彼氏、みたいな~。って言うかお前何なの?変に突っかかってきてキモいわ~。早くよそに言ってくれない?」

 文脈の全てが鼻に立つ言い方だった。それに水奈に彼氏がいて、それもこの男だとは聞き捨てならない。せめて自分よりも格好良くてしっかりした男だったら……と考えてみても彼女を諦め切れる自信はない。

「なあ、水奈。言ってやれよ、お前みたいな男はお呼びじゃないって」

 龍一は祈るような眼で彼女を見つめた。せめて軽く首を振るぐらいの否定をしてくれる、それだけで十分なのだ。しかし彼女は沈黙のまま首をもたげているままだった。

「なあ、水奈。こんな奴に勉強を教えるよりも、昔みたいに俺らと遊ぼうぜ。バカは放っておいても損にはならないぜ」

「バカってどういうことだよ!お前はどうなんだ!」

 つい声を荒らげてしまった。頭のことで馬鹿にされるくらいなんてことはないのだが、目の前の男には無性に腹が立った。見た目にしゃべり方、どう見積もってもバカ丸出し人間じゃないか。

「あんた、どこの高校か知らないけど、俺西高だよ」

 西高と言えば県内で最も偏差値の高い高校である。そばの席でさっきまで楽し気に雑談をしていたマダムたちでさえ驚きのあまり男を凝視していたほどだった。

 龍一は手にしていた紙コップをテーブルに置いた。彼女が気に入ってくれるだろうかと楽しみにしていたゼリー入りのミルクティー。結局口を付けることなくテラスから逃げ出していた。

 情けないことこの上ない。あの程度のことで気分を害し逃げて来てしまった。

 それに即座に否定しない彼女もわからなかった。

 気落ちした気分でバス停に立った。来た時と気分が大きく変わっている。浮かれていた自分がバカみたいだと思うと急激に疲れが襲ってきた。

 あまり時間を要しないうちにバスが到着した。後ろの二人分の座席が空いていた。最寄り駅に就くのにおよそ30分間。座席に体をもたれかけ、落ちた気分を引きずってしまう。この駅でバスに乗り込んだ乗客は龍一を含めて3人。定刻を待ちバスは発車しようとした。だが、最後に乗り込む客で少し出発に遅れが出たようだ。そんな様子を龍一は何となく意識の外で感じていた。

 窓側の席で頬杖をついて空を眺めていた。薄雲の形を眺め晴れやかな空はまだ始まったばかりだった。

 隣の席に誰かが座ったと思い龍一は姿勢を正した。空席はまだいくつかあるはずなのになぜだろうと思いつつ、一瞬だけ隣を見た。

 そこには呼吸を荒く切らしていた水奈が座っていたのだ。

 急に現れた彼女に掛ける言葉が浮かばない。それに彼女も何も言わなかった。

 家に着くまでの30分間は一緒に街を歩いていた数分間とは比べ物にならないほどに一秒一秒が長く感じられた。お互いに沈黙し、事の状況が読み込めない。そして何より距離が近いのだ。彼女の呼吸を感じるし、匂いだってよくわかる。揺れるたびに肩や腕が触れ合い、柔らかな彼女の肌を感じた。

 長かった沈黙はついに終わりを迎えた。長く感じる時の中でも幸福的だった。だから名残惜しくも最寄り駅でブザーを押す。

 龍一は何かを言おうと思い彼女の顔を見たがやはり言葉が出ない。別れの挨拶も嫌だった。だから到着したら黙って席を立った。彼女が座っている膝の前を通り抜ける。バスは長いこと停車してくれない。

 龍一は「降ります」と運転手にわかるように伝えた。急いで料金を支払い、タラップを降りた。このバス停から自宅までは目と鼻の先だ。最後に見送ろうと後ろを振り返ると、そこには水奈が立っていた。彼女は脇を力強く閉め、うつむいていた。

 二人が向かい合っているうちにバスは出発した。残された二人はまるで置き去りにされたように風景に留まっていた。

「あの……私……」

 最初に声を上げたのは水奈の方だった。彼女は何かを言いかけてやめた。

「俺、君が好きだ」

 龍一は覚悟した。タイミングがどうこうということは正直わからない。もっと別の機会に告白することだって、もっとロマンチックな演出を考えて告白することだってできるかもしれない。こんなカンカン日和のバス停の前、汗でベトベトになった髪の毛、顔中は油でてかっていることだろう。それでも伝えておきたかった。拒否されてもかまわない。だって、この今の自分こそが等身大の自分である。彼女を置いて逃げ出してしまう今の自分こそが、隠しきれない式澤龍一なのだから。

「うれしい」

 そう言って水奈はほほ笑んでくれた。


 結局流れで家に連れてきてしまった。ここまでは全く想定していなかった。不眠のままベッドに横になった妄想の内でも、自分の部屋に連れ込むなどという妄想までは及んでいない。だってそうだろう、妄想をするのにわざわざ距離的に近い場所の想像など誰がするだろうか?

「ごめん、ちょっと散らかっているけど」

「こっちこそ、ごめんね。押しかけちゃって……」

 水奈が自宅にいることが不思議だった。不思議ついでに彼女がいるリビングは五割増しで華やかに見えた。

 調子に乗るまいと思いつつ冷蔵庫からお茶を出しコップを用意した。お菓子の一つでもあればいいのだが、あいにく買い置きの菓子は一つもなかった。

「お構いなく」と差し出す麦茶を彼女は遠慮した。

 こんなことであるならあのミルクティーを持ってくるんだったと後悔しつつ、持って行ったカバンから勉強道具を取り出した。水奈が得意だと言っていた古文を教えてもらおうと準備していた。

「式澤君は謙遜していたけど、綺麗に片付いているじゃない」

「そう?それならよかった。うち母ちゃんと妹だけだから家事回らないって俺も手伝っているから、そう思ってもらえるならうれしいよ」

「お母さん働いていると大変だろうね」

「うちなんて特にだよ。母ちゃん刑事だからね。刑事って本当に生活が不規則なんだよ」

「そうなの⁉刑事さんなんだ~。なんか格好いいね」

 そう言う水奈の反応は本当にうれしい。自慢の母であることは本人には恥ずかしくて言えない。

 龍一はちゃぶ台を用意し、さっそくテスト範囲のノートを見返した。

 文章の読み方に四苦八苦していると彼女が突然こう話し始めた。

「あの男のことなんだけど、中学の時に付き合ったことがあるんだ」

 龍一の胸に突き刺さった。やはりあの男とは、ただの知人関係ということではなかったようだ。思わず麦茶を口に含んだ。

 それは水奈も一緒だったようで、遠慮気味に麦茶をのどに流し込んでいた。

「須藤欣悟と付き合っていたのは中二の夏。確か体育祭の後だから六月下旬だったかな。よく同級生たちとゲームセンターに付き合わされたりしたんだ。それで仕方なくっていうのも良くないけど、よく一緒だから恋人みたいな感じに錯覚して付き合うことになったんだ。それなりに勉強ができたし、楽しい人だったから。でもやっぱり違うって思って別れたんだけど……」

 龍一は彼女が突然言いよどむ理由と須藤という男の前でうつむいていた理由は同じなような気がした。そこには無理に聞いてはいけない理由がある気がしてならない。

「この『いはけなし』ってどういう意味?」とあえて話題を反らそうとした。

 だが、水奈は真剣な表情をしたまま話を続けた。

「実は一度だけ彼といい雰囲気になったんだ。このまま身をゆだねるのも悪くないかなって思っちゃったんだ。それで裸を見せたことがあったの……」

 龍一は生唾をのんだ。何の話をするかと思えば全くの予想していない展開にどうリアクションを取るべきかわからない。

 それでも水奈はたどたどしくも話を何とか続けようとした。

「緊張したけど相手は一応付き合う中だったからいいかって思ったんだ……。でも彼はスマホを取り出して私の身体を撮影したの。どうしてそんなことをするのかわからず、私はすぐに脱いだ服を着たわ。急に彼が怖くなったから……」

 聞いていた龍一は軽んじた態度で聞いてはいけないと悟り、いつしか正座していた。小さく込み上げてくる怒りを胸の底に宿らせて。

「それで、私が拒絶したと感じた彼は急に態度を変えてこう言ったの。この画像がクラス中にばら撒かれたくなかったら……言うことを聞くようにって。だから……私……、仕方なく体を預け……」

「もういいよ。彩原さん。ありがとう。教えてくれて……」

 龍一の頭には過去のあの事件がよぎっていた。だがその理性的感想を上回る思い、込み上げる怒りと同時に涙が溢れ出た。

「せっかく式澤君が気持ちを打ち明けてくれたんだもの、どうしても知ってほしくて……。本当は私、誰かに好かれるのが苦手な人間よ……」と彼女も涙ながらに語るのだ。

「そんなことない。彩原さんは俺よりバカだ!」と龍一は言い捨てた。そして二人を隔てたちゃぶ台を横に差し置き、本能的に彼女の肩に両腕を絡ませ、左右の肩をつかんで抱きしめた。小さな肩幅が龍一の身体にすっぽりと納まる。

「彩原さんは頭が良くて、絵がうまくて、明るくて、楽しい。それに可愛くて、憎めない。そんな彩原さんを俺は守る。絶対にそんな思いはさせないから」

 昨日よりも、図書館での遭遇時よりも、画材店での活き活きとした姿を見た時よりも、一時間ほど前のバスの中よりも、そして告白を聞いた今、明らかに彼女への好きが風船のように大きく膨らんでいる。彼女の抱えている傷を受け入れたかった。

 水奈はそんな龍一の気持ちを知ってか、そっと体に腕を回した。

 このままどうこうしようなどとは龍一も思っていない。でもキスだけならと顔を突き合わせた。涙ぐむ彼女の顔が愛おしく、直視できない。彼女も受け入れてくれているのは明白だった。

 唇に触れようとしたとき、思わぬ邪魔が入った。突然玄関を開く音が聞こえた。

「ただいま」と聞こえたのは妹の冴紀の声だった。

 龍一は慌てて皆から離れた。妹に不健全な兄の姿をさらすわけにはいかない。

「靴あったけど、誰かいるの?」と無神経に妹は部屋を開けた。

「ど、どうも……。お邪魔しています」

 現れた冴紀に水奈は気まずそうな挨拶をした。

「おう、おかえり。塾は?」

 龍一は顔だけを妹に向けて体はそっぽを向いたまま、何でもない風に装った。

 気のせいか妹の向ける視線が辛い。それは明らかに疑いの目だった。

「お昼だから戻ってきただけど、戻ってこないほうが良かった?」

「何言うんだよ。冴紀の家でもある。自由だろ」

 妹は正座している水奈を嘗め回すように見た後「ねえ、この人、兄ちゃんの彼女?」とド直球な質問を向けた。

「不躾な妹だ。ごめんね。彩原さん」

 水奈はキョロキョロして反応に困っていた。

「すみませんでした。至らない兄ですが、末永くお願いします」と妹は水奈と膝を突き合わせ、かしこまって礼をした。

 冴紀の思いがけない丁寧な挨拶に水奈も慌てて同じように頭を下げた。

「彩原さん。冴紀に付き合ってやらなくてもいいよ。変な子だから」

「変って何さ。超いい子なんですけど」

「わかってるよ。冴紀は類稀な妹だよ」

「ならよろしい」

 二人にとっては普段の会話でしかないが、水奈はその間でくすくすと笑っていた。この空気感がたまらなく幸せだった。辛い過去を完全に忘れさせることはできないかもしれない、だが薄めてあげることはできるかもしれない。いつまでも彼女が笑顔でいてくれるならと思うと自分は何だってやることができる、そう思わずにはいられない。

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