04 不純な動機

「寒っ。今日あたり雪でも振り出すんじゃないか?」

 銀河京朔きょうさくは素手を絡ませて息を吹きかけた。棒立ちしていたら、体温が急激に低下しそうだから、周囲1メートルの間を行ったり来たりと神経質そうに歩き回っていた。

「警部、どうぞ」と現れた三田珪馬けいまが気を利かせて封が切られていない使い捨てカイロを差し出した。

 三田は実年齢の割に若造にしか見えない。今年三十三歳のはずだと認識していたが、鼻の上を赤くしており、京朔の目には十代そこら、老けて見積もっても二十歳前半にしか見えない。

「いや、いい。自分で使いなさい。手袋を持ってこなかった私に落ち度がある」

「ですが、せっかくですから」と三田は遠慮する京朔にカイロを差し出したまま譲らない。

 三田の頑固な姿に京朔はすぐに折れてそれを受け取ると封を切らずにポケットにしまい込んだ。

「使わないのですか?」

「ああ、使わないけどもらった。それだけだ。やっぱり返そうか?」

「結構です」と三田は鼻を真っ赤にして京朔を案内した。

「被害者は若い女性なんだってな」

 京朔は手に息を吹きかけながら三田の後ろを付き従った。

「はい。様子から見て二十代の女性と見積もっております」

 警察車両を止めた車道から道路を挟んで階段を登る。土手を越えてすっかり枯れた芝生の河川敷を横切り、たどり着いた先は橋の裏だった。

 北風が強く吹く寒空の下、時折現れる日ざしが瞬間的な温かさを生み出す、そんな時期である。早朝の通報から県警捜査一課の銀河班が担当とすることになった。

 橋の下ではすでに現場検証のために鑑識らがブルーシートで隔離している。気が付けば向こう岸の土手には多くのテレビクルーが駆け付けていた。

「おはようさん」と京朔は先に来て作業していた捜査員たちに挨拶をした。

「おはようございます」と真っ先に挨拶を返したのは女性捜査員の声だった。

 彼女のあいさつに続き、他の捜査官も口々に挨拶を述べた。

結華ゆかさん。状況は?」

 真っ先に挨拶を返した女性捜査官に京朔は質問した。

 質問を受けた彼女は長いまつげが印象的で口紅は薄いが、唇がぷっくりとした形を成していた。他の捜査員の中でもその美しさは際立って目立ち、本人は知らないところでは『一課のマドンナ』と評されている。

「はい、被害者の女性は今のところ身元不明ですが、死因は頭を鈍器で殴られたことによる殺人と見て間違いないでしょう」と顔に似合ったクールな低い声で自らのメモ帳を読み上げた。

「さらに、被害者の遺体は下着姿で見つかっております。脱がされたと思われる衣服は見つかっておらず、可能性としては強姦目的の殺害の線が濃いという見方ができます。それに凶器も見つかっていないため、まずは被害者の身元の調査、周辺の聞き込みを中心に捜査を行うべきかと思います」

 結華の報告を横に京朔はブルーシートに覆われた遺体に手を当てた。

「こっちが頭だな?」とそばにいた鑑識官に訊き、見える範囲にシートをめくり上げた。

 安らかに眠る女性は京朔の勘では二十代後半と見た。ブロンドカラーの巻き髪はそれほど派手ではない。差し当たって目立つのは頭から黒く変色した血が砂利に染みついていることだった。容姿はというと至ってどこにでもいそうな女性だろう。それほど濃くはないメイクの下にはシワがみられない。いかにも二十代後半の女性が好みそうなメイク、それにあご下に小さな吹き出物が見えた。もしかしたら生前はそれなりの美人と評されていたかもしれない。

 京朔はさらにブルーシートをまくり上げてみた。女性捜査員の報告のとおり、被害者の身体には衣服がなく、黒い上下の下着を身に付けているぐらいだった。

「なかなかエロい体だと思いませんか?」

「お前な、ガイシャに失礼だろ。不謹慎だと思え」

 京朔のしゃがむ後ろでじろじろ眺めて立っていた海松あゆむを叱責した。

「俺が言いたかったのは、この女性なら男に困らなかったんだろうなってことです」

「だから、それが失礼だと言っている」

 京朔は呆れた物言いでシートを被せた。この海松という男は捜査官の中で最も若い。

「あ~、じゃあ、結華さんの提案通り各自聞き取り調査を行え。いつも言っているが、何かあったらすぐに連絡するように」

「はい!」と快活の良い返事でひとまずの現場検証は解散した。


 ほどなくしてとある情報が捜査線上に浮上した。現場近くの路上で女性がさらわれる現場を目撃した者が現れたのだ。

「はい、事件現場と同じ地区に住む40代の男性。名前は真栄田たもつ。彼の話によれば日課にしているランニング中、女性が車で連れ去られるところを目撃したそうです」

 三田の報告に京朔は純粋に疑問を持った。

「その目撃者は通報したのだろうか?」

「それが……家に帰ってから通報したそうです。通報の音声データも残っておりました。事件の目撃からすでに20分ほどが経っての通報だったらしいので、対応した警察官も真栄田さんの自宅に伺ったぐらいの対応しかできなかったそうです」

「広域捜査ともいかんか……」

 京朔は歯がゆさを感じながら、差し出された書類を受け取った。それはその時の報告書であり、担当警官のサインが施されていた。

「ですが、おかげで初動捜査は迅速に動けそうです」

「まあ、その目撃した女性というのが被害者女性と一致すればの話だが……」

「調べるに越したことはないです。捜査対象は黒のワゴン車。ナンバーは気が動転していたらしく前の数字だけを覚えていたそうです」

「四桁中一つか……」と京朔は苦虫をかんだような表情をした。

 報告書にも同様のことが書かれており、その数字というのがなんてことはない『1』であった。これでは覚えているという表現ではなく、見えたという表現が適切だと思う。

「俺も同じ40代だがもう少し覚えている自信はあるなあ」

「それはまあ、警部ともなると日常が違いますからね。危機管理能力が違いますから」

「だが、まあ、おかげで車両の絞り込みはできるだろう。珪馬と香川はこっちのアプローチで当たってくれ」

「了解しました」

「そうだ、これ返す」とすでに背中を向けていた三田を呼び止めた。

 何かと思い振り向いた三田に手渡されたのは未使用のカイロだった。先日三田が京朔にあげたカイロである。

「やはり使わなかったんですね」反射的に受け取った三田は困惑していた。

 京朔は書類にペンを走らせながら言った。

「俺に気を使っているうちは一人前にならんぞ。他では必要だったかもしれない気遣いは俺には無用だからな」

「そう言うのでしたら」と三田は返されたカイロを机の中央に置いた。「これは気遣いなく押し付けで警部にあげたものです」

「やればできるじゃないか」と京朔は笑ってみせた。


「失踪届の中で被害者と該当する女性が見つかりました」という報告が上がったのは誘拐の目撃者情報が上がった翌日のことだった。

 京朔のデスクの前で結華が書類を並べると報告が続いた。

「失踪者の名前は今川瑛梨子。ムツバ製菓産業に勤める会社員です。年齢は27歳。住所は遺体の発見現場及び目撃情報のあったポイントからおよそ500メートル圏内にあるアパート『フローラルハイツ89』です。失踪届は彼女の母親。遺体発見の数日前から連絡が途絶えており、心配した母親が自宅を伺ったところ娘さんは数日間帰った形跡は見られず、警察に届け出たようなのです」

「母親と連絡は?」

「まだ、これからです。まずは警部の判断を仰ぐべきだと思いまして。こちらの写真が失踪者の女性です」

 書類と並べて示した写真は家族旅行の際に写されたと思われるものだった。どこかの温泉旅館で家族四人が浴衣姿で並んでいるのだった。父親と母親の間に娘二人が仲よさそうにピースサインをかざしていた。

「姉の方だな」

 京朔の言葉に結華は、はいと頷いた。

 京朔の中で写真の女性と河川敷に遺棄されていた女性の顔が一致した。髪型こそ違うものの、顔つきの特徴は間違いなさそうだった。生前の姿は誰が見ても美人と感じる容姿の持ち主だった。

「まだ27なのに、可愛そうで仕方がありません」

 結華は京朔が読み終えた書類をかき集めながら辛そうにつぶやいた。

「ああ、夢ある若者の事件に携わると一層辛いよな。結華さんのところの子どもはいくつになった?」

「うちは上が17歳で、下の子が15歳です」

「そうか、被害者の親がわかると更に辛いよな」

「はい……こちらの親御さんには私から」

「いや、俺が伝えよう。今日は早めに上がんな。仕事に追われるだけが人生じゃない。俺みたいな独り身に任せなさい」

「そんなつもりで言ったわけでは……」

「わかっているさ。こういう時こそ上司面させてくれ」

 京朔の申し出を受けた結華は小さなデスクワークを終え、進言通りに早めの帰路に就いた。既に外は暗く、季節独特のイルミネーションがきらびやかに街路樹を照らしていた。

 京朔は結華にまとめられた書類を再び広げ見た。被害者女性の家族の住所は県外である。並々ならない想いで届け出をしたに違いない。

 その日のうちに家族に連絡を入れた。電話口の向こうで泣き崩れる母親が目に浮かぶ。京朔も辛い気持ちを堪え、努めて冷静に受話器を握りしめていた。聞きようによっては冷淡で冷酷な印象と受け止められかねない。京朔はなんとか慎重に言葉を選んで遺体確認の日取りを取りつけた。これまで何度となく遺族への連絡は行っていたが、こればかりは慣れない。

 そして受話器を置く最後に母親から投げかけられた言葉は「お世話かけます」だった。思いがけない言葉に京朔は歯を食いしばっていた。


 正式に遺体の身元が分かり捜査に大きな進展をもたらした。

「以上が被害者女性の勤めていたムツバ製菓産業での聞き取り調査で分かったことです」

 被害者となった人物の周辺を洗い出してみると、大抵は本人が知られたくない情報であふれることが多い。残念ながらそれは今回の被害者も同様だった。こういった印象がマイナスとなりえる話が聞けずに済めばよいのだが、捜査上では仕方のないことである。彼女が何を思いどう生きたのかを知ることで事件解決の全容が見えてくる。つまり、その世俗的な部分こそ人間の生きていた証となるのだ。

 報告を終えた海松はしたり顔をしていた。

「ガイシャには借金があったようです」と今度は結華が別の観点からの報告を始めた。

「消費者金融から500万円の借金があり、その内訳は高級ギターや音響機器、コンサート会場のレンタル費用、その他もろもろをミュージシャンの彼氏に当てたものだったようです」

「彼氏がいたのか?」

「はい、川谷庸介、25歳。5人組バンド『キス&シック』のメンバーです。本人の証言では1か月前に今川さんと別れたので彼女の失踪に関しては我々の聞き取り調査で初めて知ったとのことです。ですから海松君の報告の内容と照らし合わせると……」

「ああ、どちらかが犯人である可能性は濃厚だな」

 京朔は結華と海松の上げた写真の顔を見返した。どちらともに今川瑛梨子から赤線が引かれている。

「彼らの中で目撃者の話した黒いワゴン車を持っているものはいたか?」

 今川瑛梨子を中心とした相関関係は広がりを見せていた。主に職場と過去に交際があった交友関係を中心にして写真がある人物だけで15名はいる。

「残念ですが黒のワゴン車どころか該当するナンバープレートの持ち主すらいませんか?」と三田が報告した。

「まさか?『1』だぞ。一人もいないのか?」

「はい、エリア内でも300車が該当しますが、このボードの中となりますと残念ながらいないようです」

「そうか……まずは目撃証言のことを忘れよう。この二人の周辺を徹底的に洗い出してくれ」

 京朔はボードの顔写真二人の顔をペンでコツコツと交互に叩いた。

 一人はバンドマンの川谷庸介。そしてもう一人は直接の上司幸田伸作。

 海松は噂話として聞いたので確証のことは不明だが、京朔の持論では噂話は七割方真実が宿っているというものだった。尾ひれがつくことはあるが怪しい関係性という芯の部分だけに目を向ければ、それが案外正しいことが多い。これが刑事の感だと信じていた。

 ことは思いのほか呆気なく解決された。

 噂は正しく上司をしていた幸田伸作は妻がありながら今川瑛梨子と不倫関係にあったというのだ。幸田の話によると被害者側から関係を迫ってきたそうだ。それはどこにでもあるような不倫話だと男は開き直った口調で飄々と弁明したほどだった。オイルを撫でつけて整えた髪を時折触るほどに緊張感がない。

 だが殺人について訊くと、幸田は「まさか、そんなこと恐れ多くて俺にはできませんよ」慌てて否定した。それを根拠に自らアリバイまで主張し始めた。

「あの日は居酒屋でみんなと飲み会していました。レシート確認して日付を確認したから間違いありません」

 裏取りのために同伴者と店の詳細をメモし終え、最後に気になったことを聞いてみた。

「奥さんは浮気に関してはご存じなのでしょうか?」

「知りませんよ」と苦い顔を京朔に向けた。だが、そこから続く言葉の羅列に京朔は呆れてしまった。

「だから刑事さん、頼むけどさ、このことは妻に内緒にしてほしいんだ。まだ子供は中学生だからさ、多感な時期じゃん。こんな時に親の不貞が知れたらあの子の将来が心配だろ」

「子供のことじゃなくて自分のことが心配じゃないのか?」

「違うよ。勝手なこと言うな。見たところあんたも同年代だろ。だったらわかるんじゃないか?子を思う親の気持ちって奴が。それとも何か、あんた未婚だったりする?」

「申し訳ありませんが、捜査上で必要とあれば奥様にも真実をお伝えすることになります。ですので、こちらの口から伝えられるより先にご自分の口からお話になられた方がよいと思います」

「わかったぞ、あんた離婚したんだな」

「ふざけんな!お前とは一緒にするな」とついに抑えていた京朔は怒りを露わにした。

「落ち着いて下さい」と一緒に取り調べ室にいた三田が今にも飛びかかろうとしている京朔を止めに入った。

「お前に何がわかる!娘を殺された親の気持ちが!言っておくがお前に不利な証拠が挙がったら俺は容赦しないからな!」

 怒りをさらけ出した京朔に幸田は怯んだ表情をみせた。気持ちばかり中央の机から身を引いているようだった。

 まあまあ、諭す三田に沈められ京朔は部屋を出た。

 続いた川谷庸介の取り調べは結華が担当した。少なくとも彼女なら京朔のように感情を露わにすることはない。つい激昂してしまった己の不徳を反省し、今回ばかりは傍観者に回ることにした。

 川谷もまた淡々と取り調べを受けていた。二人の関係性を聞かれたとき彼は何のためらいもなくこう表現した。

「彼女は俺のファンの一人。いや追っかけ?最後はストーカーでもあったなあ」

「つまり恋人関係ではないと?」

「まあ、当然。ファンはいっぱいいるからね。でもあれだよ、求められれば肉体関係だってやぶさかではない。でもあれだよね、肉体関係があるからってすぐ彼氏彼女の関係になるとか言わないよね」と不気味な笑みを浮かべた。本人してはかっこいい笑顔だと思っているのだろうが、結華の目にも窓越しに見ていた京朔の目にも、彼には狂気が宿っているようにしか見えていなかった。

「ごめんなさい。おばさんの考えが古いのかもしれない。そう言うことって今の若い子には普通なのかな?」

「どうだろうか?まあ、一般じゃないと思うね。彼女たちはなんて言うか、俺じゃなくて才能に惚れたんだと思うよ。だから、選ばれた人間しか成せない関係とでもいうのだろうさ」

 結華は聞いていて内心ホッとした。みんながみんな同じ考え方だったらと思うと、自分の息子もそうなのではないかと心配になってしまう。

「おばさんなんて言っているけどさ、お姉さんでも通用すると思うな。どう?今度ライブ見に来ない?」

「そこ、口説かないの」と三田が口を挟んだ。今回もまた取調室の片隅で書記官をかってでたのだ。

「あんた、俺と同じぐらい?タメ?もしかして俺より年下だったりして」と今度は三田に絡んだ。

「言葉には気を付けなさい。彼はあなたより年上よ」

 結華の回答に川谷は細い目を丸くして三田を見つめた。衝撃的事実だったようだ。

 そんな川谷を無視して結華は手に持っていたファイルから数枚の書類を並べた。

「いい、これは全部今川さんの借金の明細書。そのどれもがあなたにつぎ込んだとしか思えないものでいっぱいなの。それに近所の話によれば別れる前は同棲していたそうね。借金の額知ってる?800万よ」

 最初に発見した500万円の借金以外にも新たに借金が見つかったのだ。かといってアパートにはこれといった高級ブランド品、金品や宝石類があるわけでもなく、身の丈以下の切り詰めた生活をしていたようだった。

「貢がせていたの?それとも彼女が勝手にやったこと?」

「確かに未来の投資として頂いたものはあったけど、なにも俺から欲しいなんて一言も要求はしていない。それに同棲していたのはたった半年ぐらいだ。だからって恋人かと言われたら違うというさ。だって彼女は他に付き合っている男がいたようだからさ」

「その男の事は知っているの?」

「知らないって言うか興味なかったから何も。そういうことはお互い不干渉だったから」

「ではやはり今川さんのことは特に恋愛感情なんてものはなかったと?」

「全く!」

 きっぱりとした川谷の言い方に人情が感じられない。取り調べを聞いていた誰もが思ったはずだ。この川谷庸介という男は人間の皮を被った悪魔だと。それかロボットだ。

 遠目から見れば若い娘に好かれる線はにじみ出ているだろうが、真正面から顔だけを認識した場合その不細工さに心底思うのだ。どうしてこんな男が女にモテるのかと。少なくとも結華はそう感じていた。そして、亡くなった今川瑛梨子とは不釣り合いだとも感じた。

「事件当夜のアリバイを聞いてもいいですか?」

「おっアリバイ出た~」と川谷は歓喜した。

 茶化す川谷を無視し結華は黙って見つめていた。

 場違いなはしゃぎぶりに自分でも気恥ずかしくなったのか急に大人しくなり再度、事件が起きた日付を確認した。

「その日ならバンドメンと練習だ。今度の新作ができたからって全員集合して音合わせをしたはずだ。うん。間違いない。あの日だ。それにあの日は瑛梨子に電話したはずだ」と川谷はポケットからスマホを取り出して、着信履歴を見せてきた。

 そこにある日付は確かに事件があった日とされるものと一致した。さらに時刻は目撃者の証言の少し前であり、取り立てた矛盾はない。

「どんな話をしたのですか?」

「新曲がスゲーってそんなことだよ。ストーカー的だとしても最大のファンに違いはないからさ。まさかあの後に瑛梨子が死ぬなんてな。そんなことも知らず俺はメンバーと他の女の子たちとバーにいたよ」

「完璧なアリバイがあるということですか?」

「もちろんだ。それに俺が瑛梨子を殺す理由があると思うか?彼女は大切なファンの一人だぞ。彼女の死は百人のファンを失ったより重い」

 川谷は白々しい言い方をしたので結華は借用書を差し出した。

「彼女が生前最後に抱えた300万円の借金です。この連帯保証人が誰だかご存知ですか?」

「さあ?何の借金だか?俺に関係あんの?」

「連帯保証人名は川谷庸介となっていますけど」

「まさか?」と川谷は焦って借用書を奪い取った。

「どこ?」と尋ねる川谷に結華は「ほら」と指で名前の欄を示してやった。確かに書かれた名前は自分の名前である。だが、すぐに彼はほっとした仕草を見せた。

「これ俺の字じゃない。恵理子が書いたんだろう」

「いえ、残念ながら印鑑はあなた自身のモノでしょう?おそらくこの原本がある金融会社にもあなたの名前が保証人として記されているでしょうから、取り立てはあなたに行くでしょうね。当然払う意思がなければ裁判になるでしょうし、利益を得たのはあなただという客観証明は揃っているようです。内訳を読み上げましょうか?スタジオレンタル代90万円、アンプ40万円、ドラムセット55万円、他にもありますけど読み上げます?」

 結華はどこにでも売っているような大学ノートを見せつけた。それは彼女がこれまで支出してきたものの記録が事細かに記録されていた。今川瑛梨子は決して金銭感覚に疎かったわけではなかったのだ。


「一応、二人の取り調べは済みましたが、収穫はあまりありませんでしたね」と二人の聴取を近くで聞いていた三田が言った。

「二人とも完璧なアリバイがあるようだし、確かに犯人ではないようだ。これは目撃情報の線で再度洗い直すべきかもしれないな」

 京朔は腕を組んでホワイトボードの前に立った。数日前から代わり映えのしない相関図に見落としがあるように思えたのだ。今ある相関図では足りないのかもしれない。さらに広げる必要があるかもしれないかと思うと気が重い。

「警部、これは無差別の線でも調べる必要があるかもしれませんよ」と提案したのは海松だった。海松はさらに意見を続けた。

「強姦目的だからこそ衣服が脱がされ裸のまま遺棄された。それに所持品も見つかっていません。犯人が衣服と一緒に持ち去ったのだとしたら、それはそれでリスクになると思いませんか?この中の者たちは少なからずの疑いの目を向けられるのです。それを思うと持ち去る行為は極力避けたいはずです」

「そもそもどうして衣服を脱がしたのでしょうか?」と結華が挟めた。

「衣服に何らかの痕跡を残してしまったからこそ衣服を脱がせたかったのだろう」と京朔が答えた。

「それは例えば髪の毛だったり、体液だったりしたかもしれないわけですね。では、所持品についてはどうでしょうか?当然バッグなんかに体液が付いてしまった場合は衣服と同じように持ち帰ったということはあり得るでしょうが、バッグですよ。被害者が手から離さなかったというのは考えにくいですよね。それに強姦された痕跡はなかったそうです。つまり犯人には強姦以外の何らかの目的があったように思えるのです」

 京朔はホワイトボードの前の机上に座り背中で二人の意見を聞いていた。

 二つの意見は対立するものである。海松は強姦目的の無差別殺人と主張し、結華は別の目的による計画的殺人と主張しているのだ。

「あの、俺の意見もいいですか」と班で最も低い声の持ち主は香川省三だった。彼は大柄でいかにも武道に長けた肉体派といった特徴の男である。

「ああ、聞かせてくれ」

 京朔の許可を得て、香川は改めて話し始めた。

「俺は無差別殺人でも目的を持った殺人でもあると思いました」

「どういうことだ?相対する二つの目的だぞ」

「もし誰かにとっては無差別であっても、それは誰かにとっては標的だとしたらって考えたのです。その形が殺人の依頼です。正確には依頼を受けた側にとっても何らかの利点がありますから無差別とは言えませんけど。仮にです。無差別を依頼人が意図して操作したら、それは実行犯にとっては無差別で無計画だが、依頼者にしてみれば計画的犯行ではないでしょうか」

「殺人の依頼を操作するか……」

 京朔が頭で話を整理させていると、香川が手元の資料ファイルの中から写真を一枚取り出した。

「何だ?」と背中で感知した京朔はその写真を受け取るとそのままの恰好で眺め始めた。

「三田。あの車の件だ。もしかしたら無関係ではないかもしれないぞ」と香川が口にした。

「何だこれは?説明しろ」

 さらっと眺めただけで理解していない京朔は机から降りると三田に向かって尋ねた。

 三田はその写真を受け取り、もう一度京朔へと戻した。

 一台の車体が映し出されていた。それは黒のワゴン車であるが、ナンバープレートには『1』という数字はない。『1』の代わりに『7』から始まっていた。

「推測から申して目撃者の男の見間違いか、捜査官の聞き違いかもしれません」

「イチとシチか……」と海原は呆れたように呟いた。

「それはいいとして、この車体が事件で使われたものなのか?」

 京朔の質問に三田は難しい顔をして答えた。

「正直に申しますとわからないのです。そちらの車体が現場周辺の防犯カメラに写っていました。あのあたりは河川敷ですので、防犯カメラというのは手前にあるコンビニのカメラしかないのですが、交通量の少ない時間帯で、死亡推定時刻を照らし合わせると特徴に最も近い車種がその写真だったわけです。それにその車両の登録者はこの事件の相関図のどこにも入らないようなまったく接点のない赤の他人のようです」

「じゃあ、やはり無差別ということですよね」と海松は指摘した。

「どうでしょうか?車体を使っただけという可能性も考えられますし、そもそも事件現場に停まったという証拠はありません。ナンバーが違いますから関係ないかもしれない」

 話しているうちに三田はだんだんと自信を失っていくようだった。

 京朔にもこの写真が希望の光明のように思えたが、三田の言う通りこの程度の状況証拠に時間を掛けるべきか判断を躊躇ってしまう。黒く不鮮明な画質の中で通過する車体とナンバープレート。番号の読み違いだってありうるほどの画質の粗さだった。

「どうしますか、警部。捜査方針を変えるべきでしょうか?」と結華が意見を求めた。自らの主張を潔く覆すべきだと思っているようだった。

 意見を求められた京朔は再びホワイトボードに向き直った。二人の容疑者、幸田伸作と川谷庸介はともに被害者の今川瑛梨子に冷たかった。上司は色仕掛けを受けたといい、彼氏はただのカネヅル程度のストーカー女としか思っていなかった。聞いたこちらとしても悪い印象しか受け取られかねないものだ。

 だが、京朔は今川瑛梨子に違う印象を持ち始めた。彼氏と思っていた男に尽くす健気な一人の女性ではないかと。幸田伸作の話は全くのでたらめで関係を迫ったのは男の方だろう。そして川谷庸介という怪物を悪魔と思わずに借金を作ってまで貢物を強いられた。そう考えた時、彼女を殺したいほど憎む存在はこのホワイトボードの相関図の中には存在しない。まだ欠けた部分があるようにも思えるのだ。

「生命保険や他に借金を抱えている相手はいるのだろうか?」

 京朔の質問に結華が答えた。

「生命保険の受け取り主はご家族です。借金に関しましては消費者金融以外からは借入していませんね」

 京朔は一拍置くと決断した。

「方針は変えない。まだ見落としている人物がいるはずだ。香川は幸田伸作、海松は川谷庸介の身元を中心に、結華さんはお金の流れを中心に調べてくれ。そして念のため三田はその車両の持ち主の調査を進めてくれ」

「はい!」揃った捜査員たちの声が帰ってきた。

「ちなみに警部は?」と海松が尋ねた。どうも京朔が怠けていると思っているようなのだ。

「俺は家族に会ってくる」

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