02 困惑は突然に

 翌朝、いつものように自転車で学校を目指す。自宅から九キロ離れた県立臨空高校は片道50分かかる。登下校は毎日のトレーニングの一環だった。

 学校に着いたころにはいつも息は絶え絶えだった。

「毎日ご苦労さんだな」

 学校駐在警備員小池は龍一に声をかけた。

 学校についた時にはすでに自転車をこぐ力はほとんど残っていない。だから龍一は決まってこのおじさんの前で自転車を降りるのだ。

「最近は体力が落ちたと実感するよ」

「どうしたよ、若いのに。俺の三分の一も生きていないじゃないか」

 小池はすでに還暦を過ぎているのだが、実年齢を感じさせない若さがありありと感じさがられる。

「隊長は若々しいよね」

 龍一はこのおじさんを勝手に隊長と呼んでいた。

「若々しいなんて言葉は老人にしか使わないよな」と冗談めいた口調で返された。

「これは失礼しました」

 こうした小池隊長との挨拶が一日の始まりだった。

「式澤君は他の生徒さん方以上にガッツがあると思っておるよ。毎日そんな大層なカバンを掲げてくる生徒は君ぐらいだ」

 自転車の荷台に乗せたバッグはいつも五キロある。

「僕も学生って奴ですよ。これ全部、今日学校で使う教科書類ですよ」とバッグのチャックを開けてみせた。教科書やノートが塊になっており、他に参考書というものやジャージが含まれている。

「何だったらここでぶちまけてしまいたいですよ。詰め込み型教育って言ったって結局は持ち物が増えただけだと思いませんか」

「本当にすまんね」

「どうして隊長が謝るんです?」

「その教育方針を示したのは俺たちの世代が決めてしまったことだからなあ。だからこの通り」と小池は頭を下げた。

「やめてくださいよ。そんな頭を下げられても…。僕はただの意地で荷物を運んでいるだけですから」

「さしずめ式澤君はレジスタンスって奴だな」

「レジスタンス?」

 聞きなれない横文字に龍一は言葉を復唱させた。

「抵抗者だよ。俺たちの上の世代で言うところの学生運動みたいなものさ。式澤君はその身をもって社会のあり様に抗議しているってわけだ」

「レジスタンス……」

 言われて初めて実感した。自分がやっていることは抵抗運動以外の何物でもない。無意識のうちに自らの体に鞭を打ち、学校という社会に向けて主張を唱えている。

「式澤君、おじさんに構っていないで、学校」

 すっかり気を向いていたことに気が付き龍一は軽く挨拶を済ませ、ようやく敷地内に足を踏み入れた。

「おはよー」と周りでは気の知れた仲間同士挨拶を交わし合う声が聞こえてくる。

 それぞれが内輪の話題で盛り上がる。たった数時間の別れを惜しんだかのようにお互いに会話を弾ませるのだった。

 龍一は重たいバッグを肩に掛け、ようやくといったように校舎にたどり着く。今日は体育の授業があるからジャージの分、荷物は一段と重いのだ。もちろん原因はジャージのせいだけじゃない。日本史と古文の授業が重なったおかげで参考資料が多いのだ。

 毎朝、他の生徒のように楽しそうに友達と会話をするほどの余裕はない。

「病気?」

 その挨拶はどうも気に障る。こういう挨拶をする性格の男は一人しかいない。

「普通だよ」

 龍一は上履きに履き替えながら葉金罫太の顔を見た。

「元気って訊くより面白いだろう」

「それ辞めろ。不調が前提じゃないか」

「お前以外はこんな聞き方しないよ。毎朝、ひどい顔だからさ」と罫太は少しも悪びれもせず説明した。

「レジスタンスって奴だよ」と龍一はバッグを持ち上げて主張した。

「何だよそれ?」

「知らないのか?抵抗運動だよ」

「言葉ぐらい知っている。俺が聞いたのは突然社会運動に目覚めたことに関してだ」

「別にいいだろう」

 二人は教室がある棟を目指した。大きなバッグを担ぐ龍一に対して罫太は小さな革の鞄一つである。誰が見てもスマートなのは罫太の方だろう。

 歩いていると向こうからジャージ姿の集団が見えた。朝練が終わったので急いで着替えに向かっているのだ。

「昨日伝えたゲームのことなんだけどさ」と罫太は自分の世界に浸り、周りを気にした様子は一切ない。当然ながら前からくる集団についても無関心だった。

「千って結構な大台だと思うんだ。これはもう、一つのメディアというかさ、もはや今までの扱いからは一線を越えたというかさ……」

 集団はすぐ目の前に迫っている。龍一は大きなバッグを抱えつつ、意識的に俯いて歩いた。

「それでさ、新たな案があればって……聞いてるか?」

「ああ」

 龍一の素っ気ない返答が聞こえたのだろうか、集団はせせら笑いを浮かべながらゆっくりと歩く二人とすれ違った。

「なんだ?アレ。感じ悪いな」と後ろを振り返りつぶやいた。

「いいって、放っとけ」

「だが、あれはどう考えても俺たちをバカにしているようだった。ああいう奴らはビシッと言ってやらないとわからないって」

 龍一は今にも突っかかりに行きそうな罫太の肩をつかんだ。

「少なくともあいつらはお前のことを笑ったわけじゃない」

「じゃあ、何だって言うんだ?あいつらが笑ったのは偶々ということか?」

「それでいいじゃないか。何事にも偶然というものはある」

「お前がそういうのなら……」と冷静になった罫太は切り替えが早い。眼鏡をクイッと片手で直し、何事もなかったかのように鞄を裏手で肩に引っ掛け歩き始めた。

「そうだ、昨日のことはまだ彩原に言っていないんだよ」と罫太は思い立ったように会話を再開させた。

「どうして?」

「答えは単純だよ。俺は連絡先を知らないからな。それにお前の口から言いたいだろうと思ってさ」

「余計な気遣いを」

 昨晩の電話の時といい、この男は明らかに何かを感じていた。何かがないと言えばうそになるが、決定的な何かがあるとも言い切れない。それを認めたくない自分がいた。

 突然龍一は重たいバッグを抱えながら真上に飛び跳ねた。というのは尻をパシッと音を立てて叩かれたからだ。

「何?何かあったの?」

 その声に龍一はドギマギした。

「どうしたよ。そんなに勢い良く飛び跳ねてさ」と罫太は小さな笑みを浮かべて龍一に尋ねた。

「それ、男女が逆ならセクハラだからな」と目の前に現れた彩原あやはら水奈みなに言った。

 水奈は自分の頭に右手を乗せて、舌を出していた。彼女は小さなリュックサックを背負い、身体を右に傾けた。太陽に照らされ髪色が少し赤く光っていた。

「本気で訴える?」

 水奈の可愛らしい素振りに龍一は目を泳がせた。舌を出して体を傾ける行為が反則的に心を騒めかした。おそらくこれを他の女子がやったところでこれほどの反則性は生じないだろう。

 そうしている合間に水奈は龍一の顔を覗き込んできた。うるんだ瞳に上目使いの合わせ技。もはや直視できずに体を一歩引き下げてしまう。

 ついには「知らん」と耐えきれず龍一は顔を背けて教室へと向かってしまった。

「彩原さん、あいつの言うことは正しい。今の世の中、男が女をセクハラで訴える逆セクハラ訴訟だって起こりうる。さらに言えば同性同士の訴訟だってそのうち……」

 罫太の話を最後まで聞くことなく水奈は龍一の後を追いかけた。

「そんなに怒らせた?」

 龍一は立ち止まり振り返った。ちょうどパーソナルスペースの手前で止まる彼女は困った顔をしていた。本当に怒らせてしまったと思ったようだった。こうなってしまえば龍一もつらい。少しの言動で彼女をこれほどまでに悲しませた式澤龍一という自分に腹が立つ。

「まさか、お尻にできものでもあったの?もしあれだったら、いい皮膚科を紹介しようか?」

 会話の内容はどうあれ、水奈は本気で龍一を気にかけていた。

「ごめん、こんなこといきなり口にするなんてデリカシーなかったね……」

 真剣に落ち込む水奈があまりのも可愛く映り、龍一は思わず声をあげて笑った。

「え?どういうこと⁉ドッキリ?」

「違う違う。何でもないよ。ドッキリとかじゃなくてさ……」と言葉が出たが、直後に自問自答した。

 ドッキリじゃなければいったいなんだ。もし思考力に歯止めがかからずに、口から出た言葉だけを頼りにしていたら、自分はいったい何を口走っていたことか。

 変な間ができていることに水奈は首をかしげていた。

「そう、ドッキリじゃなくて、サプライズだ」と龍一はなんとか逃げ道を確保した。

「え~!やっぱり何かあったの⁉」と彼女は大げさに龍一の話に乗った。

 水奈のあまりの驚きぶりに周囲の生徒が目を見張るほどだった。

 気が気じゃなくなった龍一は彼女を引き連れて一般の教室とは少し離れた特別教室が連なる廊下の前までやってきた。二人は理科準備室の前で向かい合った。

 龍一はこうしていることに小さなドキドキを覚えていた。言うなれば恋人同士のようなシチュエーションではないか。準備室の前で告白してカップルが成立したなんて言う話を聞いたこともある。

「で、サプライズって?」

 水奈は急にもじもじとした。彼女もどこかでカップルの話を聞いていてもおかしくはない。意識を感じていても不思議ではない。

(このまま流れでなんて……)と龍一は思ってしまう。

 いつしか二人は互いにもじもじしていた。龍一は頭に手を当て手持無沙汰に髪をかき上げ、水奈はうつむいたまま両手を前で組んで親指をこすり合わせていた。

「どうした、早く教えてやれよ」

 突然横から話しかけられ、龍一は驚きをあらわにした。いつの間にか罫太がそばにいたのだ。まったくもって雰囲気が台無しだが、そもそもの目的は違う。罫太は能天気にスマホをいじっていた。

「そう、サプライズだ」

 龍一は仕切り直して言葉を紡いだ。

「実は俺たちのアプリが千件ダウンロード達成したんだってよ」

 自分で言ってみて実感が微妙だった。昨晩感じた高揚感はまるでどこ逝く風だ。と言うのもこんな話題より、彼女とは話したいことがあるはずだった。

 聞かされた水奈はポカンとしていた。どうリアクションを取るべきか困惑しているようにも見える。

「いや、正確には今朝6時の時点で千百件を超えたみたいだ、ほら」と罫太はこっそりと操作していたスマホの画面を二人に掲げて見せた。

 龍一はその画面を確認して、水奈をみた。だがやはりまったく反応はない。

「なあ、葉金。俺も昨日は興奮したけどさ、千ってそんなにすごいのか?」

「千百」と罫太は真っ先に修正した。

「千百程度でそこまで喜ぶようなことかよ。世の中には百万人のチャンネル登録者数や一千万ダウンロードアプリがあるじゃないか。比べてみたら天と地の差じゃないか?」

 罫太は大きなため息をついた。ここから何がすごいかを説明されるに違いない。龍一は言ってしまった反論に後悔し始めた。

「何言っているの⁉千だよ」

「千百」

「千百人もの人が私のイラストを受け入れてくれたのよ。二人の考えたゲームが面白そうだと思ってくれたのよ。一人十円でも貰ってみなさいよ一万円の収益じゃない。千人もの人が」

「千百」

「千百人がまた別の誰かにこれを紹介したら、また増えるかもしれないのよ。式澤君は数のすごさをわかってないわ」

 興奮した様子の水奈に数字の訂正を挟む罫太。二人は龍一以上にこの数字を真摯に受け止めているのだ。

「サプライズになった?」と罫太は彼女に聞いた。

 水奈は当然というように二人に飛んで抱きついた。罫太も楽しそうに体を寄せたが、龍一だけは水奈の体を気になって、思うように感情を表現できないでいた。少し近づくだけで彼女の香りや普段見えないはずのワイシャツの下に透けた下着が気になり、両手を下に硬直させたまま顔を赤らめていた。


 式澤龍一にとって葉金罫太と彩原水奈との出会いは偶然的だったと言い切れる。そこには少しの意図も介入して言いなかった。

 夢や目標、友、誇り、あの頃の自分にとってすべてだと思っていた何もかも。それらを失ったのは、もう、かれこれ半年以上も前のことだ。たった一度の謎で人生を絶望の淵まで追いやった。

 途方に暮れた暗い気持ちの中で新年を迎えた。落ち込む龍一に母は励まし、妹は陰ながら心配してくれていた。

 毎年のことなら冬休みは友達らと予定を作り寒空の下、体を動かしたり、テレビゲームに興じたりするのだが今年はそうはいかない。龍一の相手をしてくれる友は誰一人としていない。それに外に出歩けない事情があった。

 左足、主に膝を大きく損傷していた。靭帯を損傷し内部で大きな炎症を起こしているらしいのだ。幸いにして骨にはヒビの一つもなかったのだが、損傷個所が悪かったらしく、日常生活には差し当たっての支障はないのだが……。

 大げさと思われるほどの太いギブスに巻かれ、ベッドで安静にしていた。ギブスは真っ白で寄せ書きなどは一つもない。大人しく眠りに就いていると何度もあの場面、あの瞬間が夢に現れた。

 グランドを駆ける龍一は多くの相手選手をかわす。ボールは友達なんてフレーズはあるが、龍一にとってボールは体の一部だった。

 そう龍一はサッカーコートを駆け抜けていただけなのだ。一年生ながらにあの瞬間は芝生を支配していた。先輩たちのパスを要求する仕草が見えていたが、彼らの陰に張り付いた相手選手の姿がちらついていた。だからこそ龍一はその場面のみ司令塔のように自らボールの運び方をシミュレートし、一人ゴールへと突き進んだのだ。ボールを阻止しようと相手は躍起になって芝に滑り込んできた。

 気が付くと周りに仲間は一人もいない。このままシュートを狙える位置に来ていた。そして観客の歓声がすごい。突然現れた予期せぬ龍一の躍進劇にドラマを見出さずにはいられない。だから、期待に応えるべくシュートを繰り出した。言ってしまえば独断攻撃による奇襲というものだ。

 しかし、やはりことはうまくいかずボールはキーパーに弾かれネットの上を大きく飛び越えた。

(少し力み過ぎたかな?)と龍一はそれぐらいの反省をする程度だった。それにまたとないチャンス。コーナーキックからの得点チャンスだった。

 コーナーから飛び出したボールはまっすぐと、まるで引き付けられるかのように龍一の前にやってきた。理由はわからないがちょうど龍一にはノーマークだ。我が高校のスター選手内田聖杜せいと先輩や井上撤郎、速水佐敏さとしと言った名の知れた先輩方に張り付いていたのだ。だからここで決めてやることにした。むしろこのチャンスを生かせない方が恥だ。

 龍一は飛んできたボールを胸でトラップし足元のちょうどいい位置に誘い込んだ。後は足を一振りするだけだった。自分でもよくわかる気持ちの良いボレーシュートが決まる、足を振り切る前から確信していた。左足を軸にして、右足を思いっきり振り切った…はずだった。

 いつの間にか視界は宙を向き、身体は地面から浮かんでいた。正確には突き飛ばされていたのだ。

(何だよこれは?)と思えるほどに瞬間がゆっくりと感じられた。ドンという音を立てて芝生に投げ出された後に龍一を襲ったのは強烈な痛みだった。左足にとてつもない痛みが刻み込まれていた。自分ではあの一瞬のうちにいったい何があったのか全く分からない。

 気が付けば左足は真っ赤に腫れ上がっている。

 龍一は足を抱えてのたうち回った。

 すぐに担架が運び込まれ龍一は退場を余儀なくされた。冷や汗を掻き運ばれる担架の上でフィールドに目を向けた。心配というか興味本位で見ている選手たちは敵味方の関係はなく誰もが同じ警戒する表情をした。体の一部だと思っていたボールでさえ、龍一が立っていた位置にはない。ボールはゴールラインの中に入っていたのだ。

 龍一は確認して間もなく気を失ってしまった。

 何があったかを知る由もなく入院。一時は熱を持つほどに腫れ上がり苦しめられたが、痛みは引いた。だが、がっちりと固定された膝で安静を余儀なくされた。医師の話によれば安静にしてさえいれば二ヵ月で完治するだろうとのことだ。母は喜んでいたが、龍一は無邪気に喜べないでいた。せっかくの予選試合はもう参加できない。

 一体何があったのかの情報どころか、お見舞いに来てくれる者すらいなかった。完治できることは日常生活において幸運以外のなにものでしかないのは分かっている。だが、生活の基盤になっていた部活という部分が揺らいでいるのだ。

 龍一は悶々としながらもその二ヵ月は松葉杖を伴って安静に過ごした。クラスの者はそれなりにリアクションしてくれ、松葉杖のわずらわしさを理解して接してくれたのだが、やはり肝心の部活の仲間たちからの接触はない。

 噂で聞いたことにはあの試合で龍一が決めようとしたシュートはゴールネットを揺らしたのだそうだ。龍一が運び出された後、相手からの攻撃を受けて同点になったのだが、ロスタイム間際に一点を獲得し2対1で勝利したらしい。そのあともトーナメントは勝ち進み、県大会準優勝が今シーズンの結果だそうだ。

 龍一はそんな噂を聞いて不覚にも興奮していた。そこまでの躍進劇をしていたとは思いがけなかった。それに決勝戦まで試合があったのだから、ケガをした龍一に構っていられなかったのではないかと解釈できる。

 いくら能天気な解釈だろうとプラス思考に考えれば気持ちはだいぶ楽になった。

 噂を聞いた放課後、龍一は久しぶりに部室に顔を出した。だが部員らの反応は薄かった。

 だから、龍一はあえて大会の話を振った。純粋に決勝戦まで進んだことを祝いたかった。

 同じクラスの安村貫太が近付いたと思ったらこう言ってきた。

「式澤、もうここに来るな」

「は?」

 不快感をむき出しに龍一は声を上げてしまったが、すぐに呼吸を整え直し聞き返した。

「冗談だよな?ドッキリとかそういうものだろ?どこかにカメラでもあるんだろう?後でネットに流そうとかそういうの……」

 龍一の声に安村を筆頭に他の同級生、先輩らは無言のままに部室を出て行った。こんな冷たい態度はこれまでされたことはなかったから、動揺を隠せない。

「安村、何か言えってさあ」

 とにかく仲間たちの変わりようが辛い。何があったらそこまで非情になれるのか皆目見当がつかない。

 部室に一人、途方に暮れ座っていると何者かが部屋に入ってきた。

 龍一はその何者かを眺め見た。それは堺大機コーチだった。

 コーチは龍一の存在に気が付くと目の前に立った。

「ケガはひどいのか」と彼は大して心配した言い方をしない。

「来週にはギブスを取って様子見します」と言いながら龍一は左足を挙げてみせた。

「そうか」と関心を失ったように部室内を物色し始めた。たまたま立ち寄っただけなのだろう。

「コーチ、俺がケガした試合でいったい何があったんですか?誰も何があったか教えてくれないんです」

「覚えていないのか?」

 堺コーチはロッカーの上から段ボール箱を下ろし何やら中をかき回しているが、一度として龍一の方を見ようとはしない。返事はしても顔どころか姿すら見る気はないらしい。

「気が付いたらケガをしていました」

「そうだ。突然倒れたんだ。ただそれだけの事だ」

「でも原因は?」

「俺は医者じゃない。俺に聞くな」

 コーチは冷たい言い方を変えない。無関心を通り越して、害を払い退けているようにしか思えない。

「いや、でもなんかあったはずですよ。現に俺は靭帯損傷以外に血を流したわけだから」

 龍一の反論に堺コーチはまさぐっていた段ボールの中で手を止めたと思うと、手に持った何かを思いっきり箱の中に叩きつけた。それはプラスチックがぶつかり合ったような弾けた音だった。

 明らかな物への八つ当たりに龍一は固まってしまった。その後、言いたかった反論はすっかり飛んでしまった。コーチのものを言わせない態度に気圧され、静かに黙っているしかできないでいた。

 堺は何かを言い出すわけでもなく、そのまま黙って段ボールの整理を続けていた。

 何が起きたのかさっぱりわからない。いったい何に気分を害したのか頭の中がぐちゃぐちゃになった。そして本能的に逃げることを選んだ。

 龍一は堺が作業を続けているうちに松葉杖を整え、部室から立ち去った。その後、どうやって帰宅したかも記憶があやふやだった。大きなバッグを抱えて地下鉄で帰宅したのは確かだろうが、その帰路を無意識に歩いていたはずだ。

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